肆 夕暮れの黒
話しかけてきた黒ずくめの男の声は所謂イケボ。ちょうどいい低さ。バリトン……っていうのかな、確か。それにしてもすごい美声だな。合唱団か、はたまたお坊さんか。もしかしたら牧師さんかも。
いやいや、そんなことよりも、俺の名前をどうして知っているんだ。こんなおかしなファッションをした知り合いはいなかったはずだが。
「いえ、俺じゃないです」
こんな怪しい人とは関わらない方が身の為だ。さっさと逃げよう。
「違う? 可笑しいですね」
「俺は朝日晃一ではありません。失礼します」
一礼して、お面の男の横を過ぎようとする。追い駆けて来るかもしれない。少し進んだら走って――。
「美しい色の瞳をしていますね」
足が止まる。鼓動が早まる。なんで。どうして。
「綺麗な翡翠色ですね」
この男には見えているというのか、俺の普通じゃない、この目が。
目が黒いうちにどうこうとかいうのは、俺には無理なことだ。そもそも日本人の目は茶色だろうとか、そういう意味ではない。俺の目は、翡翠のような緑色をしている。しかし、周りに何か言われるということはない。周りには、普通に茶色に見えている。鏡や写真で見る自分の目が、俺には緑に見えるのだ。おそらく、人ならざる者が見えることと関係しているんだと思う。
今まで俺の目を緑と称したのは、出会って来た様々な妖、幽霊だ。では、この烏天狗のお面をした男は何者なのだろう。見たところ人間のようだけれど、霊感でもあるのかな。
「翡翠の瞳、間違いないです。晃一さん」
会ったことはないけれど、漫画とかに出て来る所謂祓い屋さんとかだろうか。妖の見える俺のことを、探している? 見付けてどうするんだ?
「逃げられないみたいだな。そうだ、俺が朝日晃一だ。おまえは何者だ」
「私は神です」
聞き間違いだろうか。今この男は自分のことを神だと言った。聞き取れなかったと思ったのか、今度はゆっくりと言う。
「私は、神、です。貴方達人間の言う、神様、です」
聞き間違いではないようだ。そうか、この人は神様だったのか。
「病院ならあっちにありますよ」
「……え? ……あ、違います、そうではなくて」
きっと十四歳の時から重い病を抱えているに違いない。病院で治るものとは思えないが、とりあえずそうした方が速そうだ。中二病に特効薬なんてある訳ないけど。
「ほ、本当なのですよ。本物なのですよ私は」
すごい重症なんだな。
「おだいじにー」
どうして俺の目が緑に見えたのかは気になるけれど、これ以上中二病のお兄さんの神様ごっこに付き合ってなんかいられない。さっさと帰ろう。
「待て小僧」
澄んだ声だった。踏み出した足が止まる。静かな威圧感。これは恐れじゃない、畏れだ。王様の前に放り出された町人は、きっとこんな気持ちだろう。
男が俺の前に回り込む。そして、お面を外した。纏う空気が、人間のそれから、妖や幽霊に近いものになる。端整な顔の美青年だった。美しい漆黒の双眼が、俺を見据えて動かない。夕日を反射した漆黒が、星空のように煌めく。
人間じゃない。この男は人間じゃない。
「こうすれば、少しは信じていただけますか」
声が出なかった。この男は人間でも、妖でも、幽霊でもない。この感覚は、神社。神社に行った時と同じ。じゃあ、本当に神様?
「私は雨影夕咫々祠音晴鴉希命という者です」
「あ、あまかげ?」
男はジャケットの内ポケットからメモ帳とペンを取り出すと、意味不明な漢字の羅列を書き記した。
「このように書いて、あまかげせきたたしおんはるあけのみこと、と読みます」
そしてその下に「紫苑」と書く。
「長いですから、気軽に紫苑とお呼び下さい」
「本名の祠音と字が違うけど……」
「紫苑の方が分かりやすいでしょう」
咳払いをして、
「面をしていないと普通の人には見えません。貴方が虚空に向かって話していることになってしまうので、手短に致しますね。率直に申し上げます。晃一さん、私に力を貸して下さい」
「……は?」
間違いなく、この男は神だと思われる。それが俺に向かって力を貸してくれだって? 普通神様はお願いされる方であって、お願いする方ではないだろう。
紫苑は烏天狗のお面を付け直す。纏う空気が人間へと変わった。
「神が万能の存在とでもお思いですか。神にも悩みや願いはあります。最も、私は神とは言えないのかもしれませんが……。とにかく、あなたの力が必要なのです。どうか私を助けて下さい」
「いきなりそんなこと頼まれても……」
この神様はどうして俺を指名したんだろう。妖とかが見える人なら、探せば他にもいるだろうに。それに、お面を付ければ普通の人からも見えるのであれば、誰にでも頼めるはずだ。
俺じゃなきゃ駄目なのか?
「えーと、紫苑様はどうして欲しい訳、俺に」
仕方ない、これも何かの縁だ。話くらいは聞いてあげよう。無視して神様に祟られても困る。お面で表情は分からないが、紫苑の体全体から喜びが溢れ出ているのが見て分かる。
「ありがとうございます晃一さん。私は、翼を取り戻したいのです。失われた、私の翼を」
こうして俺と神様の奇妙な日々が始まった。