壱 旧鼠と卵焼き
その日、俺はこの十七年の人生において初めて女子のスカートを掴んでしまった。誤解しないでほしい、まだ捲っていない。
事の発端は一匹のネズミだった。
昼休み、俺が弁当の蓋を開けた瞬間、颯爽と現れたネズミが卵焼きを掻っ攫って行った。もちろん俺はそれを追った。廊下を走り、ネズミが布の陰に消える。よし、捉えた。俺は青いチェック柄の布を掴んだ。
動物というのはどこにでもいる訳で、火の中、水の中、草の中、森の中、土の中、雲の中、至る所にいる。だからあの子のスカートの中にいたっておかしくない。
……いや、おかしい。
「……朝日君……?」
不機嫌そのものの声が俺に投げかけられる。俺は咄嗟に手を離し、ぎこちない笑みを顔面に貼り付ける。
「えっ、あ、ごめん。ゴミが付いてて……」
「……ふうん?」
ちらりと床に目を遣ると、卵焼きを抱えたネズミがしたり顔で俺を見ていた。くそう、おまえの所為だぞ。
「あ、あはは、びっくりさせてごめん」
そう言って、俺は教室に逃げた。なんてことだ、朝日晃一、一生の不覚。いや、そこまでではないかな。
席に戻ると、幼馴染みで腐れ縁の小暮栄斗がにやにやしながら待っていた。何だ、何なんだその顔は。
「晃一も隅に置けないよなあ」
「どういう意味だよ」
卵焼きが消えた弁当をつつきながら、俺は栄斗を睨む。栄斗はメロンパン片手に廊下の方を見ながら、
「クラスのマドンナ東雲ちゃんのスカート鷲掴み」
「変な言い方するなよ。あれは不可効力だ」
俺は冷凍食品のカップ入りグラタンを掻き込む。
「だってネズミが……」
しまった。栄斗が怪訝そうに俺を見る。
「ネズミ? 何訳の分からないこと言ってんだよオマエ。弁当箱開けて、いきなり走り出したんだろ。そのうえ東雲ちゃんのスカートを掴むとは……」
そうだ、栄斗にはそう見えていてもおかしくない。なぜなら、彼には卵焼きを抱えたネズミが見えないからだ。あのネズミはおそらく旧鼠の類だろう。分かりやすく言えばネズミの妖、つまり妖怪だ。
俺の目には人ならざる者達の姿が映る。
最初は五歳の時だった。家の庭で尻尾が二股になっている猫を見付けたが、一緒にいた母には見えていなくて、後でそれが猫又という妖怪だと知った。人ならざる、とは言えないかもしれないが、どうやら幽霊も見えるということが、小一の時に曽祖父の葬式で分かった。見えることには困ってはいないが、今日のようにいたずらをされると非常に困る。
「なあ晃一ぃ、オマエ進路って決めた? 進路希望調査の提出次のホームルームじゃん。まだ二年なのにさ」
もしかしてまだ書いてないのか。
「あっ、一応書いたんだぜ? 親父にここにしろって言われて、適当に。ほんとは北海道から出たくないけど、仕方ないし」
「ふうん」
俺は空になった弁当箱に蓋をする。
「俺は札幌にでも行こうかと……」
「へえ、まさかあの大学を受けるつもりではなかろうな晃一くーん」
「そのつもりだ」
「さすが学年主席ですなあー」
そういう嫌味たらしい言い方はやめてくれ。好きで学年主席なんじゃない。テストの度に注目されて、正直参ってるんだからな。期待とプレッシャーがめちゃめちゃ怖いんだぞ。万年赤点ギリのおまえには分からないだろうがな。本当にもう真面目に勉強しろよ、おまえの家神社だろ? このままで神職の資格なんか取れるのか。せめて平均点は越えような。
俺の心の中での忠告はもちろん栄斗には届かない。届いたら逆に怖い。
昼休み終了のチャイムが鳴った。思い思いの席に着いていた生徒達が自分の席に戻って行く。俺はもともとこの席だから、このまま座っていよう。後ろの栄斗もそうだ。えーと、確か次のロングホームルームは調査書の提出後、学校祭の話し合いだったな。
五時間目の本鈴が鳴り、担任の時田が教室に入って来た。