玖 この言葉は何?
水曜日、これまでのように朝から家の前にいた夕立にいなくなった理由を聞くと、インコとキツツキが自分を探しているのが千里眼で見えたからだと答えた。千里眼なんて持っているのかと尋ねていると、ゴミ捨てに出て来た母に不審な目で見られた。カラスの姿でいる時に会話をするのは避けた方がいいようだ。
紫苑と関わるようになってからたびたび妖に追われるようになってしまい、その度に紫苑に助けられた。これまでも妖に絡まれることはあった。しかしそれはみないたずらのようなものであり、襲われそうになるなんてことはなかった。追って来る妖達はみな俺のことを「ひすいのげき」と呼んでいたが、紫苑はその意味を教えてくれなかった。助けてくれと頼んでおきながら、翼を取り戻す為になぜ俺が必要で、どうすれば取り戻せるのかも教えてくれない。
そうこうしているうちに、紫苑と出会ってから一週間が経った。
「どうやったらおまえの翼が元に戻るんだ」
日曜日、俺の家。俺の部屋。
興味深そうに本棚のライトノベルと参考書を眺めていた紫苑が振り向く。穏やかな微笑を浮かべて、紫苑ははっきりと言った。
「分かりません」
俺は耳を疑った。一番聞きたくない言葉だった。分からないのにこいつは俺に付き纏っているのか。妖から助けてくれるのはいいとして、ただのストーカーとほとんど変わらないじゃないか。
紫苑は本棚の先程とは別の部分を眺めている。『高野聖』や『草迷宮』が並んでいるのを見て、こちらに背を向けたまま言う。
「晃一さんは泉鏡花が好きなのですか?」
変なものが見える。だからこそ、そういうものが出てくる話には興味があった。
「好きだけどさ、話題変えないでくれるか」
『高野聖』を手にして振り向く。
「……貴方の力が必要なのです。それは確かです」
「何で? どうして俺なの?」
紫苑は口籠る。漆黒の瞳をきょろきょろさせて、一歩後退る。
「ひすいのげきって何なんだよ。俺がそうなんだろ? 教えてくれないのはどうして」
「わ、私が強要したことになってしまうからです……。それでは意味がないのです。貴方が自分で意志を持たなければいけないのです。……まあ、これくらいなら教えても大丈夫だと思いますが……」
ジャケットの内ポケットからメモ帳とペンを取り出して、何かを書く。
翡翠の覡
「これで、翡翠の覡です」
「げき?」
「巫女という言葉をご存知ですか」
神社にいるお姉さんのことだな。俺は頷く。栄斗の家の神社にも何人かいるのを見たことがある。
「巫女のことを、巫覡とも呼びます。巫が女性、覡が男性。覡とは、おとこみこのことですね」
「おとこみこ」
よく分からなくて、小さな子供のように言葉を繰り返してしまう。紫苑は、よく言えましたと言わんばかりにうんうん頷く。
「翡翠の覡は、神を導くと言われています」
「神を……導く……?」




