観察と誘導
三階にある音楽室まで階段を登り僕は吹奏楽部の部室へと向かう事にした。部室に居れば助かるのだが、先ほどの教師の話を聞き僕はわずかばかりの希望が更に小さくなるのを感じた。
それは黛先生がすでに顧問をしているという事である。彼女の性質から顧問をやっていないと踏んで頼み事をする予定だったので、これで大分可能性は下がったといって言い。そもそも、話術を巧みに操る事ができる生徒からの誘いに乗るか、はたまたら熱血な教師くらいしか二つの部活の顧問をやるなんて教師はいないだろう。
互いにその要素を持っていないだけに過度な期待はせずに行こうと心に誓う。
「すみません」
音楽室の扉をゆっくりと開き僕は恐る恐る顔を覗かせ言った。案の定、楽器の音色は疎らに減っていき、全ての楽器の音色が聞こえなくなる頃には痛々しいほどの視線が僕を突き刺していた。
沈黙から一秒。また一秒と過ぎ去っていく。言う事は決まっているのに、注目される事になれない僕にとってこの視線は毒である。言葉が中々出てこない僕に助け舟をだすような一言。
「あっ! 友だちです! 私の友だちです!」
僕に友達はいないが、ここは彼女の親切心にのることにした。
肩につかないくらいに切り揃えられた髪の毛、大きな瞳に金管楽器によって鍛えられたであろう弾力のある唇。天草冥利は美人に分類されるのに対し、彼女は可愛い方の女性に分類されるに違いない。
両手で持っていた蝸牛状の金管楽器を自分が座っていた椅子の上に丁寧に置くと、馬鹿みたいに突っ立っていた僕の手を握り音楽室からつれだされた。
女性に手を握られるなんてシチュエーション自体早々にない僕にとって彼女のとったこの行動は僕のすさんだ心に涼風を生んだ。
女の子の手はこうも柔らかいものなのかなんて思考が僕の頭を埋め尽くす。
「秋月くん!」
呼び戻された。
「は、はい」
「よかった。しばらく放心してたから一年生の頃の……そのーー」
「大丈夫。大丈夫だよ」
言い淀む彼女の口に蓋をするように言った。僕は彼女の事を覚えていない。正確には思い出したくないと評した方が的確なのだが、その彼女は申し訳なさそうにごめんと一言謝ると恭しくこちらを見る。
「二年も後になっちゃったけど、秋月くんも前に進もうとして、私の言葉を覚えていてくれてここに、来たんだよね?……」
「ごめん。一年生の頃の出来事は何一つ思い出したくないんだ」
自分でもびっくりするくらいに乱暴な言葉だった。僕は自分の言葉に驚き、それを取り繕うように言う。
「でも、君が側に居てくれたから僕はこの学年まで学校に通う事が出来たんだと思う。だからありがとう」
そう言ったところで蓋をしていた記憶からするりと彼女の名前。そして、僕にかけてくれた言葉が流れ出る。
「ーーわ、私と一緒に吹奏楽部入ろう! どんなに辛くても音楽は心に安らぎを与えてくれるって中学校の先生言ってたんだ」
…………
「あ、秋月くん。放課後私について来ていいもの聞かせてあげるーー」
……………?
「どどど、どうだった?私の演奏は?」
…………二曲目が好きかな。
「ブルースカイって言うんだよ。今度の課題曲。全体になると空模様の変わる様が表現されてるの。よかったら」
…………部活には入らないよ
「うーうん。コンクールに聴きに来てほしいんだ」
ーーわかった戸隠さん。
自分の心を守るために目をそらしていた事。放棄していた事。それらが露わになって僕は彼女、戸隠いのりに申し訳ない気持ちが溢れてくる。
結局、彼女の誘いに乗る事はなく僕は孤立していく事を決めた。孤立し孤独になり。そして言葉を介することも無くした。
それが当時の僕には楽だった。楽しくはなかったが、不可侵の領域を故意に作ることで安心は出来た。