― 参 ―
階段を下りて廊下を抜けると、やはりそこは見慣れた無機質な風景だった。
「お疲れ様です、香取さん。何か、手掛かりみたいなものは掴めましたか?」
パソコンの前に座ったまま、氷川が香取の方へ首だけ向けて尋ねて来た。そうしている間にも、指先は何かを求めるように、キーを叩いているのが凄まじいが。
「残念だが、空振りに終わったな。今回は、どうやら俺達の早とちりだったらしい」
都市伝説は、所詮は都市伝説に過ぎぬということか。もっとも、事件への霊的存在の関与が否定されることは、こちらの仕事が減るということでもある。少女達の行方が未だ不明なのは気になったが、他にも厄介な事件を抱えている現状で、あまり多方面に捜査を展開したくないというのが本音だった。
「なんや~、外れかいな。雄作ちゃんにも、そういうことあるんやね~」
突然、部屋の隅から声がした。聞き覚えのある、しかしつい最近までは聞くことのなかった女の声。真の抜けた、人を食ったような関西弁。彼女の態度も相俟って、一度聴いたら決して忘れられなくなるような奇妙な口調。
「印藤!? お前……いつ、こちらに戻って来た?」
「今しがた、新大阪から新幹線でな。経費節約せんといかんから、関空は使うとらへんよ」
無造作に伸ばした髪を軽く指先で解しながら、女がゆっくりと前に出た。そんなに節約を謳うなら、鈍行で来れば良かっただろうと。そういった類の突っ込みは、この女には通じないと知っているので止めておいた。
「俺は別に、そちらに応援を要請したつもりはないんだがな。西の方での事件は、もう片が付いたのか?」
「なんや、随分冷たいな~。さては……ウチ以外に、誰かええ女でも捕まえたんか?」
「下らん冗談は好きではないと言っておいたはずだぞ。俺が聞きたいのは、お前が東京に戻るために、自分の仕事を放り出していないか否かというだけだ」
女の冗談にも、香取は何ら笑う素振りを見せずに帽子を脱いだ。彼女の性格を知っているからこそ、まともに相手をすることはしなかった。
「まあ、冗談はさておいて、ウチだって遊びで東京まで出てきたわけやないで。ちょいと、向こうで取り逃がしたやつを追い掛けてたら、こっちまで足を運ばなあかん状況になっただけや」
あくまで飄々とした態度のまま、女は香取に告げた。だが、軽そうな口調とは反対に、それがいかに拙い事態であるかは、何も言わずとも香取には十分に理解できた。
印藤律。彼女は零系の中でも数少ない、向こう側の世界の住人と直接渡り合える力の持ち主だった。その彼女の口から出た、取り逃がしたという言葉。それは即ち、今現在も捜査中の事件以上に、厄介な物が東京へ逃げ込んだことを意味している。
この期に及んで、また事件か。思わず頭が痛くなりそうだったが、それでも香取はなんとか喉まで出掛った言葉を飲み込んだ。
ここで文句を言ったところで、状況が好転しないのは解っている。それに、律の性格を知っている以上、喋らせなければ後で煩い。
「それで……向こうで取り逃がしたやつとは、いったいどんなやつなんだ? お前が『検挙』できないくらいなのだから、余程の力を持った相手なのだろうが……」
「情けない話やけど、雄作ちゃんの言う通りや。相手が日本人やったらまだしも、外国人やからね。おまけに、事件の裏にいたもんの正体を突き止めるのも遅れて……ウチともあろうことが、完全に後手に回ってしもたわ」
神戸で三人、大阪で五人、既に殺されていると律は告げた。事件が表沙汰にならないよう配慮はして来たつもりだが、さすがに少々死者が出過ぎた。おまけに、相手の逃走経路を辿るだけでも時間が掛かり、気が付けば既に最初の事件が発生してから一ヶ月近くが過ぎていた。
「なるほど、状況は芳しくないな……。それで、いったいその『外国人』とやらは何者だ? アメリカ辺りから、連続殺人鬼のゾンビでも紛れ込んだか?」
「そないな相手なら、こっちだって取り逃がしたりせえへんよ。今回の相手は……こいつや」
言いながら、律は一枚の写真を取り出して香取に見せる。写っていたのは、これは肖像画だろうか。題名までは判らなかったが、随分と古い物のようだった。
「16世紀中頃に描かれた、とある貴族の女性を描いた肖像画ですよ。ただ、自分の美貌を保つために少女を生贄にするなど、随分と非道で残酷なことをしていたらしいですけどね。彼女が治めていたとされる地域では、今では『魔女』として忌み嫌われているようですが……」
律に代わり、それまで黙っていた氷川が口を開いた。彼は既に律から話を聞かされていたのか、事件に関してある程度の知識があるようだった。
「魔女にも色々おるねんけど、こいつは本物や。当時、不当な魔女狩り裁判にかけられて、無実のまま死刑にされた女とは違うで。死んだ後も怨念を肖像画に残せるような、正真正銘の魔女ってやつやな」
律の口調が、いつの間にか重く、真剣な物に変わっていた。彼女が冗談ではなく、本気で話をする際に見せる仕草だ。
「東京に紛れ込んだ魔女、か……。それで、お前はこれからどうするつもりだ?」
「そんなん、決まってるやん! 今度こそ、やつを追い詰めて『検挙』しちゃる。ただ、そのためには雄作ちゃん達の力が、ちょいとばかり必要なんやけど……」
結局、最後はそうなるのか。今度は我慢できず、香取は大きな溜息を吐いて帽子を机の上に置いた。
「悪いが、こちらも暇ではないんでな。捜査に手を貸すにしても、あまり時間を割くわけにはいかんぞ」
「その辺は、心配あらへんよ。色々と解り易い特徴も持っとるから。どっちかちゅうと、捜査よりも『検挙』の際に、ちょいとばかし力を貸して欲しいってだけやしね」
「それはそれで、面倒なことになりそうだがな……」
椅子に腰かけ、香取は徐に煙草を咥えて火を着ける。詳しい話は後でじっくり聞くとして、やはり根本の問題は同じだった。
人手が足りない。その一言に尽きた。香取自身もそうだが、氷川にしても、律にしても、代えが効くような人間は一人もいない。
このまま立て続けに、怪奇事件に類する騒ぎが起こればどうなるだろうか。その時、自分達零系は、本当に職務を全うできるのだろうか。
今後の展望に一抹の不安を覚え、紫煙をふっと吐き出した。立ち昇る煙は、まるで香取の迷いと悩みを代弁するかのように、不規則にうねって空気に混じり消えて行った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
薄暗い、蝋燭の明かりだけが頼りの部屋で、それは静かに身体を起こした。
か細く白い腕と、艶やかな色をした長い髪。陶酔したような表情のまま、それは赤い液体を浴びた肢体を、惜しげもなく明かりの前に曝け出す。
女だった。怖いような美しさという言葉があるが、今の彼女には、まさしくその言葉が相応しかった。
赤い滴が滴る指先を、女はゆっくりと自分の口元へ運ぶ。官能的な色合いをした唇と触れた瞬間、女の口の中に鉄に似た味と生臭い香りが広がった。
女の口元が、一瞬だけ歪んだ笑みの形になった。身体の中に、滴の持ち主が持っていた力が、隅々まで行き渡るような感覚が走る。指の先から髪の先まで、若く新しい力が漲るように。
ふと、女が後ろへ目をやると、そこにはかつて人と呼ばれていた者が、無残な姿で転がっていた。
薄茶色に染まった髪と、人形のように大きな瞳。そこに転がっていた者もまた、以前は女であったのだろう。
もっとも、それはあくまで、彼女が人として原型を留めていたらの話だった。恐怖に歪んだ顔からは、生前の愛らしい面影は感じられない。腹は無残にも裂かれ、中からグロテスクな臓物が飛び出している。
年齢からして、まだ十代半ばといったところか。両の乳房は無残にも抉り取られ、それが一層、彼女の変わり果てた姿を直視するに耐え難いものに仕立て上げていた。生まれたばかりの赤子のように、全身の肌は赤く染まっている。苦痛の上に果てたということは、誰の目から見ても明らかだった。
傍らに転がった少女の遺体。それを一瞥しただけで、女は直ぐに自分の身体に手を添えた。
未だ生温かい、人の体温が残る液体を、じっくりと身体に刷り込んで行く。足の先から、指の先まで、余すところなど一部もなく。
やがて、おぞましい儀式が終わったところで、女は少女の遺体を布にくるんで、部屋の隅に転がした。見れば、他にもいくつかの布に包まれた塊が、同じ場所に転がっていた。
部屋の中に置かれた割れた鏡に身を写し、女は満足そうに歪んだ笑みを浮かべて見せる。
「……美しいわ」
誰に聞かせるでもなく、まるで自分に言い聞かせるように、女が小さく呟いた。蝋燭の薄明かりに照らし出された身体は、均整の取れたモデルのようだ。肌には一点の曇りもなく、黒子さえも見当たらない。
完璧な肉体、完璧な美貌。それを手に入れるための代償など、今の女にとっては些細なものに過ぎなかった。
突然、生温かい風が吹いて、蝋燭の炎がぐにゃりと曲がった。ここは密室。風の入り込む隙間などないはずなのに、蝋燭の炎は不規則に歪んで揺れることを止めなかった。
蝋燭の置かれた台座へと歩み寄り、女はゆっくりと顔を上げる。そこに飾られていたのは、無機的なコンクリートの壁に覆われた部屋には、些か不釣り合いな絵画だった。
「私の……魔女様……」
そっと、愛しむように、女の指先が絵画に描かれた女性を撫でた。それに反応するようにして、蝋燭の炎もまた揺れる。鼻腔に漂う、油絵具の微かな香り。それを吸い込む度に、女の身体の中を得も言われぬ快感が駆け巡った。
彼女は私だ。私は彼女だ。刺激が走る毎に、それは確かな感覚となって、女の心の中に深く刻み込まれて行く。
今宵の儀式は成功した。しかし、まだ血が足りない。もっと、もっと血を集めねば。その結果、この身が破滅を迎えようとも、それが彼女の望みであるならば。
女の瞳の奥に映る、油絵具で描かれた美しい貴婦人。ただの絵でしかないはずなのに、その表情は心なしか、先程よりも満ち足りた笑みを浮かべているように思われた。