― 玖 ―
夜の帳が降りた下町を、月の明かりが静かに照らし出していた。駅前には家路を急ぐ人影も多いが、しかしそれも、少し路地に入ってしまえば直ぐに見えなくなってしまう。
どこにでもある、何の変哲もない日常の一部。だが、その裏で確実に何かが進行していることを、零係の者達は一様に感じ取っていた。
先天的な霊感や、刑事として長年勤めて来たことによる直感だけではない。ここ最近、立て続けに起こっている不可解な警察官への襲撃事件。そして、何よりも事件の鍵を握る謎のサイトに書き込まれた言葉が、彼らに否応ない緊張感を与えていた。
「……いよいよ、今日が予告のあった満月の日やで。敵さん、次は何を仕掛けて来よるつもりや?」
両足を机の上に投げ出した格好のまま、律が天井を仰ぎつつぼやいた。いつもなら、ここに香取や氷川の突っ込みが入るところなのだが、今日に限っては誰も止めることをしなかった。
張り詰めた空気が、部署全体に漂っている。それは零係だけでなく、一般の警察官達にとっても同じこと。
襲撃事件の報を受け、江戸川、足立、葛飾を始めとした区域では、既に警邏の強化が成されているという話を準は思い出した。場合によっては、機動隊を出動させる準備も整っているとか、いないとか。
無言のまま時だけが過ぎて行く中、香取の吐き出した煙草の煙が歪んだ霧のように漂って消えた。言葉には出していなかったが、彼を始めとした零係の面々の苛立ちは、準も肌で感じていた。
自分達の仕事は、心霊事件の存在を世の中から隠し通すこと。本業はあくまで事実の隠蔽であり、超常現象そのものを相手に戦うことではない。だが、ここまで事態が大きくなってしまえば、もう甘いことを言っていられないのも事実である。
敵が次に動きを見せるのはいつか。何気なく、準が部屋の時計に目をやったところで、今まで無言のままパソコンの画面を見つめていた氷川が唐突に叫んだ。
「……来ましたよ、香取さん! ですが、これはかなり拙い事態ですね……」
普段は冷静な彼の声と顔色に、珍しく焦りの色が見て取れた。言われるままにパソコンの周りに集まって画面を覗き込んだところで、その場にいた氷川以外の者達も、一斉に険しい表情を浮かべて言葉を失った。
「こ、これって……」
辛うじて、それだけ言って画面を指差すのが、今の準には精一杯だった。液晶に映し出されているのは、有名な動画の投稿サイト。しかも、録画をしたものではなく、完全な生放送によるものだった。
画面の中で、目元までフードを被った少年が、何やら抑揚のない口調で語っている。その後ろに立っているのは、いかつい服装をした不良少年達。金髪に近い色に髪を染めた者も多く、全員が焦点の定まらない瞳のまま、不気味な笑みを浮かべている。
そして、何よりも驚愕だったのが、そんな彼らとフードの少年の間に吊り下げられている者だ。猿轡と目隠しをされた二人の女性。天井から伸びた頑丈なロープで拘束され、蓑虫のような格好のまま力無く項垂れている。
「ご覧ください、皆さん。僕達の手に掛かれば、国家権力の手先でさえ、この通りです」
フードの少年が、まるで見世物でも見せるかのような口調で、吊るされた二人の女性を指差した。服装からして、彼女達は攫われた婦警に間違いない。これだけでも十分に警察へ喧嘩を売っていると言える行為だったが、しかし少年はおろか、後ろに並び立つ不良達でさえも、何ら臆する様子を見せることもない。
「さあ、今宵こそ、皆さんが立ち上がる歴史的瞬間です。僕達には力がある。虐げられ、差別に苦しんでいた者達に、素晴らしい力を与えることができる」
少年の言葉に、不良達が一斉に声を上げて吠えた。人間というよりは、殆ど獣に近い叫び声。それを聞いた律が一瞬だけ顔を顰めたが、その間にも少年の演説は続いていた。
「もう、差別に苦しむ必要はありません。それは、世の中から『不良』というレッテルを張られた人達も同じです。そして、土地柄や家柄から、不良であると一方的に決めつけられた人達も!」
未だ、世の中には家系や出身で人を差別する者達がいる。外見だけで人を判断し、貶める者達が存在している。そして、そんな差別を助長しているのが、他でもない日本という国家の首魁なのだと少年は語った。
「だから、僕達は警察官を痛めつけ、更には婦警を攫いました。しかし、これはほんの序章に過ぎません。次は画面の前の君が……そう! 君が立ち上がるべきなんです! 誰もが差別をせず、されない社会を作るため、この日本に蔓延る諸悪の根源を叩く時が来たんです!」
その諸悪の根源とやらが何なのか、少年はそれ以上語ろうとしなかった。が、それでも今までの流れだけ、香取や律を激昂させるには十分過ぎた。
「このガキんちょ……もしかして、あの『R』とか名乗っとった管理人かいな?」
「恐らく、間違いないだろう。だが、まさかこんな穴だらけの理論で、本当に革命ごっこを始めるとは思わなかったがな」
差別の撤廃や国家権力への反抗などは、革命家の掲げるお題目としては常套手だ。もっとも、その手始めとして警察官を不良に襲撃させるというやり方は、あまりに稚拙で的外れとしか言いようのない行動である。
この事件の裏に潜んでいた、幼児性と計画性が混在することにより生じる矛盾。画面の向こうで語る少年の中にも、それが確かに感じられた。
「現場の特定を急げ、氷川。このまま黙って見過ごすわけにはいかん」
「既にやっています。ただ、生放送が行われていることは、本庁でも把握しているでしょうからね。所轄に連絡が行っているかもしれませんし……現場の捜査員から連絡が入るのと、どっちが先になるか……」
そう、氷川が言っている矢先にも、彼の胸ポケットに入れた携帯電話がけたたましい音を立てて鳴り出した。
「はい、氷川です。……ええ、なるほど。……では、こちらも早急に向かいます」
噂をすれば、なんとやら。相手は所轄に派遣された、零係の一般捜査員のようだ。
「現場の特定、できました。既に現地の警察署から署員が向かっています」
「なんやて、アホちゃうか!? 一般の警察官なんかで、あの連中に太刀打ちできるわけないやろ!?」
現地の警察が先に動いたという話を聞いて、律が思わず机を叩いて叫んだ。相手はパトカーを叩き潰し、中にいる警察官を素手で引き摺り出して殺害できる程の力を持った存在だ。所轄の者達は不良共の度が過ぎた悪戯程度にしか考えていないのだろうが、実際はそんな生易しい話ではない。
「もはや、一刻の猶予もないな。俺達も、大至急その現場へ向かうぞ。早急に『検挙』しなければ、収拾のつかない事態になる恐れもある」
香取の言葉に、全員が立ち上がって頷いた。敵が何を考えているのか判らない部分も多いが、これだけは言える。
あの『R』という者を野放しにしておけば、今にもっと恐ろしい事件が起きるということ。そして、そうなった際に、捕まった二人の婦警の命が保障されないということも。
螺旋階段を駆け上がり、香取を始めとした零係のメンバーは、素早く黒塗りの覆面パトカーに乗り込んだ。深夜の街を回転灯の赤い光が照らし出し、鋭いサイレンの音が静寂を切り裂いて漆黒の夜空へと吸い込まれて行った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
現場に到着すると、そこは既に数台のパトカーと地元の警察官達によって囲まれていた。
江戸川区の外れにある、薄汚れた小さな廃工場。今は使われなくなって久しいのか、あちこちが錆び付き辺りには雑草も生い茂っている。
「……状況は?」
覆面パトカーから降りるなり、香取は近くにいた刑事を捕まえて聞いた。準は知らなかったが、彼は香取や氷川とは顔なじみの、末端の捜査官の一人だった。
「お疲れ様です、香取さん。正直、今回の事件は少々事が大きくなり過ぎましたね……」
「お前の感想など、どうでもいい。それよりも、今の状況を簡潔に教えろ」
担架で運ばれて行く制服警官の姿を横目に、香取は急かすようにして尋ねた。実際に言葉で聞かされなくとも、既に地元警察にも被害が出ているということは、それだけで容易に想像できた。
「現在、こちらの署員は五名が重軽傷を負わされています。骨折程度で済んだのは、まだいい方ですよ。五名の内、三名は意識不明の重体です」
「……チッ! このままでは、本当に機動隊でも寄越され兼ねんな」
捜査員の報告を受けて、香取は軽く舌打ちをして毒づいた。
敵は普通の人間ではなく超常の存在、もしくは超常の力を使役する者。機動隊だろうとSATだろうと、真っ向から勝負を挑んで勝てる保証はない。人間の常識が通用しない相手だ。予備知識なしで仕掛ければ、間違いなく無駄な犠牲を生む。
「行くぞ、氷川、印藤! 寺沢も、俺達のバックアップに回れ!」
普段以上にドスの効いた声で、香取は他の面々に向かって叫んだ。そのまま黄色いテープを乗り越えて中に入るが、しかし正面から工場の入口へ向かうことはしない。
自分達の存在そのものを、一般の警察官にも極力知られないようにするためだった。大騒ぎになっている現場の様子を横目に、彼らはこっそりと裏手へ周り、裏口から古びた工場へと侵入した。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
重たい金属製の扉を開けると、錆と埃の臭いが一斉に溢れ出して来た。
今のところ、辺りに人がいる気配はない。だが、それでも決して油断はせず、零係の面々は廃工場の中を進んで行った。
「……止めておけ。そんなものでは、やつらの足を止めることはできん」
拳銃を構えて牽制するように歩く準を、香取が制した。見ると、確かに氷川も律も、その手には武器らしいものを持っていない。もっとも、彼らとは違い何の特殊能力も持たない準にとっては、効かないと解っていても、拳銃を手放すことはできなかったが。
「なんや、嫌~な感じが増して来よったで。新人君、せいぜい襲われんよう、気をつけなあかんで」
殿を務める準を、律が茶化す。再び目の前に現れた金属製の扉。それを力任せに開け放つと、その奥に控えていた無数の瞳が一斉にこちらへと視線を向けて来た。
「……あぁっ!?」
心の中を無数の弾丸で射抜かれたような感じがして、準は思わず拳銃を取り落としそうになってしまった。暗闇の中で、煌々と光る燐のような輝き。およそ、まともな人間のものとは思えない、青白い人魂の如き光が不良達の目に宿っている。
一瞬、周りの空気が妙に生暖かいものに変わったのを感じ、準は思わず身体を震わせた。額を伝わる脂汗が、鼻先までゆっくりと垂れて行く。不良少年など、生活安全課にいた頃から随分と相手をしていたにも関わらず、目の前にいる少年達は、準の心の奥底にある根源的な違和感と嫌悪感を刺激する何かを纏っていた。
「な~んだぁ? ま~た、命知らずのポリ公が来やがったのか~?」
こちらに気付いた不良達が、身体を小刻みに揺らしながら迫って来た。何も知らない者が見たら、彼らは薬物でもやっているように見えたことだろう。
「ガキの遊びは終わりの時間だ。取り返しのつかんことになる前に、さっさと引いた方が身のためだぞ」
拳を掌に軽く叩きつけて香取が不良少年達と対峙したが、それも大した効果はなかった。後ろで様子を窺っている準にも分かるくらい、今の香取は全身から殺気が満ち溢れている。それこそ、並のチンピラ程度であれば気魄で黙らせてしまうほどの凄みを感じさせているのにも関わらず、少年達は動じる素振りの欠片も見せていない。
「どうします、香取さん。このまま強行突破して、婦警を助け出しますか?」
念のため、氷川が香取に尋ねるが、答えは既に分かり切っていた。青白く燃える少年達の瞳を見れば、彼らが既に普通の人間でないことは、一目瞭然だったのだから。
薄笑いを浮かべる少年達との間合いを測りながら、香取が徐々に距離を詰めて行く。彼の強さを知っているのか、氷川もそれ以上は声を掛けようとはしない。が、しかし、それでも後ろから見ている準からすれば、次に何が起こるか気が気ではなかった。
ぼったくりバーでの一件依頼、準も香取の強さを知らないわけではない。チンピラ数人を纏めて叩き伏せるだけの格闘術を持っている香取からすれば、その辺の不良など造作もない相手であろう。
もっとも、それはあくまで相手が普通の状態の人間だったのであればという話だ。ロータリーで発見された被害者の姿が、一瞬だけ準の脳裏を掠めて消えた。もし、本当に目の前の不良達が、人間を素手であのような姿に変える力を持っているのだとしたら。そう考えるだけで、身体の震えが止まらなかった。
「か、香取さん……。本当に……」
込み上げる恐怖を押さえ切れず、とうとう準が脅えた口調で香取に尋ねた。何を聞こうとしていたのか、震えてしまい言葉が声にならなかったが。
「雄作ちゃん。こんなガキども、マジで相手する必要ないで。全員まとめて、ウチが面倒見てやるわ」
代わりに返事をしたのは、香取ではなく律だった。袖口から縄鏢の刃を微かに覗かせて、自信に満ち溢れた表情で前に出た。
「あぁん? 女かぁ?」
「どっちでも構わねえぜ。ブッ殺しゃ一緒だろ」
香取と律を見比べながら、少年達は顔に歪な笑みを浮かばせた。明らかに舐めている。大柄な香取と比べ小柄で、しかも女であるとなれば、それだけで相手にならないと思っているらしい。
「だ、大丈夫なんですか、印藤さん。相手は十人近くいるんですよ!?」
いくらなんでも、これは無理だ。そう思って縋るような視線を香取や氷川に送る準だったが、その間にも律の服の袖口からは、縄鏢の刃が糸を伝って床を這い。
「まあ、しばらくはそこで眺めてるとええで、新人君。久しぶりに、浪速の呪縛師の本気を見せちゃるわ」
そう、律が不敵に笑ったところで、とうとう相手も我慢の限界を迎えたのだろうか。
燐光のような輝きを持った目を光らせながら、少年達が一斉にこちらへ襲い掛かって来た。大半は素手だが、中には金属バットや鉄パイプを手にしている者もいる。
「印藤さん、危ない!」
微動だにしない律に、無情にも振り下ろされる凶器の一撃。だが、鉄パイプが彼女の頭を打ち砕かんとした瞬間、襲い掛かって来た不良達は、その全てが急に足を止めてしまった。
「あ……ぐ……。な、なに……しやがった……」
「ち、畜……生……。か……ら……だ……が……」
それはさながら、少年達の時間だけが、一方的に止められてしまったかの如く。動きたくとも動けない。声を出したくとも叫べない。まるで、見えない何かに押さえつけられているかのように、少年達の身体は固まったまま動かない。
「名付けて、螺旋禁縛呪や。中に何かが混ざっとるやつ相手にするには、身体ごと縛り付けるに限るで、ホンマ」
律がにやりと笑う。彼女の袖口から伸びた二本の縄鏢が、螺旋を描くようにして彼女の足元に広がっている。銀河を思わせる糸の軌跡。それが生み出すのは、彼女の支配する絶対領域。
肉体と魂の区別なしに縛る。それが『浪速の呪縛師』を自称する律の得意技だった。彼女は高い霊能力を持っているが、除霊や浄霊の類は決して得意ではない。聞き分けのない者を、強制的に縛り、封じ、抑え込む。霊に関する力の中でも、彼女はとりわけ封印に特化した力を好み、操る。
「な、なんだ……あれは……?」
廃工場の天窓から射す満月の光。それが凶器を握った少年達の手を微かに照らしたところで、準もようやく異変に気が付いた。
金属バットや鉄パイプを握る手は、どれも獣のような毛で覆われていたのだ。否、手だけではない。シャツの胸元から覗く首から下の部分。ズボンの裾と靴の間にある微かな隙間。それら全てに、およそ人のものとは思えない体毛が密生していたのである。
「やっぱり、ウチが思っとった通りや。現場に残ってたんは、こいつらの毛で間違いないで」
バットを振り被ったまま硬直している少年の手をまじまじと見ながら、律が独り、納得したように呟いた。河川敷で警邏中の巡査が殺された際、現場に残されていた謎の生物の毛。その正体こそ、この不良少年達の全身を覆っている、謎の体毛に他ならなかった。
「さしずめ、人狼ならぬ人犬ってところかいな? よう飼い慣らしたもんやけど……所詮、犬っころは犬っころや。正面から戦ってウチに勝てると思うなんちゅうのは、百万光年早過ぎるわ」
そう、律が叫んだ瞬間、足元に広がっていた縄鏢の先端が一斉に動き出した。百万光年は時間ではなく距離だろうと、そんな野暮な突っ込みを入れている暇さえなかった。
少年達の身体の隙間を縫うようにして、刃の頭部を持った蛇が駆け抜ける。細く強靭な糸が、人の頭と獣の身体を持つ存在を、文字通り縛り上げて行く。
「どんな術を使うたかは知らんけど、あんた達の魂は、もう犬っころと混ざって切り離すこともできへん。そやから……せめて、二度と表に出て来んよう、きっつい仕置きをかましてやるで」
指先に縄鏢の糸を絡めながら、律は複雑な印を結んだ。少年達を縛る糸は、ともすれば力技で引き千切れそうなものだったが、しかし誰も力で抗おうとする者はいない。
霊的な力量とは、肉体ではなく魂の強さ。何の修行も積んでいない不良どもが、本物の力を持った律に敵う道理などないのだ。
「あ……ぎゃぁぁぁっ!」
最後の印を律が結んだところで、彼女の指先から一瞬だけ閃光が迸るのと、不良達が悲鳴を上げるのが同時だった。
縄鏢の紐が絡み付いた箇所から、音を立てて白い煙が上がっている。何も燃えているものなどなく、物が焦げる臭いさえしない。だが、そんな不良少年達の胸元に、準は一瞬だけ苦しみ悶える獣の顔が重なって見えた。
(今のは……もしかして、犬……なのか?)
幻覚などではない。自分は確かに、はっきりと見た。大型犬も小型犬もいたが、あれは確かに犬だった。
「ふぅ……。とりあえず、これで一通りの片は付いたってとこかいな? まったく……最近のガキどもは、ホンマに後先考えずアホなことしくさりよって」
袖口に縄鏢を戻しながら、律が誰に言うともなくぼやいていた。拘束を解かれた不良少年達だったが、彼らが立ち上がる様子はない。皆、一様に白目を剥いて、口からはだらしなく涎を垂らしたまま倒れている。
「い、印藤さん。今のって……いったい……」
あまりに荒唐無稽な展開に、準はそれだけ言うのが精一杯だった。だが、そんな彼の様子を察したのか、律は軽く溜息を吐いた後に、どこか哀れみを含んだ口調で語り出した。
「そういえば、新人君は他の二人と違って、ウチと同じもんが見えるんやったね」
自分の力を完全に失念している準に、確かめるようにして尋ねる律。しかし、その哀れみは彼に対してのものではなく、もっと別の者に向けられているようだった。
「あいつらは、身体ん中に犬っころの魂を入れとったんよ。たかが犬やと、馬鹿にしたらあかんで。一つの身体に魂が二個あれば、それだけで二人力や。否、この場合は足し算やなくて、掛け算の強さになると考えた方がええ」
「犬の……魂?」
最後の瞬間、不良少年達の胸元に見えた犬の顔が準の脳裏に蘇ってきた。もしかすると、あれが律の言っていた、犬の魂というやつだったのだろうか。そして、彼女の話が真実ならば、あの少年達は犬の魂を手に入れたことで、通常では考えられないような怪力を発揮する存在になったというのだろうか。
「ただ、これは残念な話やけど……」
一瞬、準から視線を逸らし、律の顔に影が差した。それでも、直ぐに顔を上げて気を取り直すと、彼女は軽く咳払いしてから話を続けた。
「魂を身体に入れて使うにも、二通りの方法があってな。一つは身体に魂を縛り付けて、無理やりその力だけ使う方法。ただし、この場合は力が足し算にしかならんから、大したパワーアップもせえへん」
当然、警官を素手で殺すような、馬鹿げた力も発揮できない。だが、これが異なる方法を用いた場合においては、話はまったく違ってくる。
「問題なのは、魂と魂を合体させて使うた場合や。この方法やと、さっき言うたみたいに、力は掛け算の強さになる。ただ、合体した魂は、二度と再び切り離せん。そのまま放っておけば完全に混ざり合って、まったく違った人でも獣でもない代物になってしまうねん」
古来より、人はそのような存在を、鬼や妖怪、物の怪といって忌み恐れた。それは、人が到底制御しきれぬ禁断の技。絶大な力を得る代わりに、人としての心まで失ってしまう禁忌の術。
あの少年達が、どのようにして犬の魂を自分の身体に取り込んだのかは判らない。ましてや、本来であれば精神の部分まで完全に同化してしまうところを、何故か彼らは頭部だけは人の姿を保ちつつ、それ以外のところを獣化させることで力を得ていた。
およそ、素人が用いることは想像できない、かなり高度な術といっても過言ではない。唯一の救いは、犬の魂と融合しつつも、人格としては少年達の魂が大きく出ていたこと。だからこそ、律は彼らを殺すのではなく、犬の魂の部分だけを、心の奥底に封じ込めるという策に出たのだ。相手の魂に負担のかかる方法ではあったが、それでも魑魅魍魎として討伐されたり、心を壊されて廃人になったりするよりはマシだろうと。
「で、でも! それじゃ、いったい誰が、彼らの身体に犬の魂を? ……ま、まさか!?」
何かの気配に気づき、準が言葉を飲み込んだ。同じ気配を感じていたのか、香取と氷川も廃工場の奥にある、鉄柱の影へと目をやった。
「さあ、そろそろ出てきたらどうだ? 貴様の手足になるガキどもは、全て印藤が始末したぞ」
出て来なければ、容赦なく撃つ。そう、香取が告げたところで、鉄柱の影から目元までフードで覆われた、パーカー姿の少年が顔を見せた。
「へぇ……。あれだけいたのに、あんた一人でやっつけちゃったんだ。警察にも、僕みたいな力を持った人がいたなんて、驚きだよ」
何ら悪びれることのない口調と、どこか人を小馬鹿にしたような態度。今風の若者といえばそうなのかもしれないが、それにしても纏っている空気がどこか異質だ。
「貴様、何の目的でガキどもに妙な力を与え、警察官を殺させた? フザけた動画で警察と社会に喧嘩を売った理由は何だ?」
凄むような口調で、香取がパーカーの少年に迫った。が、それでも少年は怯えることもなく、むしろ嬉しそうに口元を笑みの形に曲げて見せた。
「あれ? あんた達、もしかして僕のこと知っているの? それじゃ、話が早いね」
敵対する関係にありながら、追い詰められたことを嘆くよりも、自分の名が広まっていたことを喜ぶ始末。どうにもずれている感覚に、さしもの零係の者達もかける言葉が見当たらず。
「そう……。もう、気づいていると思うけど……僕が、あのサイトの管理人、『R』だよ」
少年がパーカーのフードを取り払い、ゆっくりと顔を上げて正面を見据えた。闇の中に映える白金色の髪。幽霊を思わせる、真っ白な肌。そして、煌々と光る二つの瞳は、血のように赤い色に染まっていた。