― 陸 ―
翌日は、朝から空が鈍い灰色の雲で覆われている日だった。
早朝一番、携帯電話の呼び出し音で叩き起こされ、準は江戸川区にある橋の上に足を運んでいた。
電話の相手は、香取ではなく律だった。なんでも、変死した警察官の遺体が見つかった現場を再度調べたいとかで、その際には準にも立ち会って欲しいとのことだった。
「やれやれ、ようやく来おったんか? ウチが電話入れてから、どんだけ経っとると思ってんねん?」
待ち合わせの場所に駆け付けると、律は準が挨拶するよりも先に文句を言って来た。相変わらず、気の強い女である。偏見はよくないと知っているが、関西の女性とは、皆このような性格なのだろうか。
「す、すいません……。急な呼び出しだったもので……」
寝起きのまま、髪を梳かすことさえもしない頭で、準は息を切らして言った。電話を受けて、大慌てで家を飛び出したものの、それでも随分と律を待たせてしまったようだった。
「本当に、申し訳ないです……って、あれ? その犬、なんですか? もしかして、警察犬……とか?」
ふと、改めて見ると、準は律の隣に大柄な犬が腰を降ろしているのに気が付いた。
こちらを見据える鋭い視線。片時も油断せず、常に警戒を怠らない姿勢は、警察犬というよりも猟犬に近い何かを感じさせる。おまけに、身体も随分と大きく、襲われたら無事では済まないだろう。
こんな犬を、いったいどこから拝借して来たのだろうか。それとも、この犬もまた零係の一員だと……そう、律は言いたいのだろうか。
迂闊に頭を撫でるわけにも行かず、準はしばし考え込んだまま、犬との距離を測っていた。そんな彼の姿を見て、律は軽く諌めるような手振りで犬を後ろに下げると、これまた実に当たり前のように、流れるような口調で準に告げた。
「ちょいと、ウチが知り合いから借りたんよ。別に、警察犬の訓練はさせとらんけどな。そやけど、そこいらの犬なんかよりも、よっぽど役に立つことだけは保証するで」
「そ、そうですか……」
警察犬ではない。その言葉に、準は適当に相槌を打って、頭を軽く下げるしかなかった。
知り合いから借りたという話が真実であれば、これは民間人の飼っている犬なのだろうか。しかし、それならば、何故そんな犬をわざわざ拝借し、あまつさえ捜査に協力などさせるのか。
相変わらず、零係の人間の考えることは解らない。このまま自問していても無駄だと悟り、準は話の方向を変えることにした。
「あ、そういえば、香取さんは? 今回の捜査には、加わらないんですか?」
「それがなぁ……昨晩、ま~た警察官が誰かに襲われる事件が起きよってな。一足先に、そっちの捜査に向かってもろてんねん。今度は人間だけやのうて、パトカーまでグチャグチャにされたっちゅう話やで」
「パ、パトカーまで!? それって、かなりヤバい事件な気がするんですけど……」
「なぁに、心配要らへんよ。雄作ちゃんは、『よみがえりの香取』なんて呼ばれとるんやで。荒事に関しては、ウチらの中でも群を抜いた実力者や。泥船……もとい、大船に乗ったつもりで、ドンと構えとっても問題あらへんよ」
律がにやりと笑う。まるで、香取がどんな場所で、どんな危険な捜査を任されても、決して死ぬことはないと確信しているように。
よみがえりの香取。その二つ名を再び耳にして、準の脳裏に昨晩の記憶が蘇った。軍隊式の格闘術を用い、いとも容易くヤクザを捩じ伏せ、あまつさえ貴重な情報の断片を聞き出した手並みを。
つくづく、彼は人間の常識を越えていると、準は改めて感心していた。超常の力を駆る律や、気配を消す特技を持っている氷川もそうだが、やはり香取は別格だ。彼は、霊能力の類はないと言っていたが、そんなものなくとも十分に強い。少なくとも、自分の知っている警察関係者の中では最強であると。
(パトカーを大破か……。そんな事件の捜査なら、確かに香取さんじゃないと駄目かもな……)
零係に捜査の依頼が舞い込んで来たということは、パトカーを大破させた存在が、超常の者である可能性も懸念されているということだ。それは、強大な力を持った、漫画や映画の中にしか登場しない怪物だろうか。それとも、今回の事件に超常の者は絡んでおらず、単なる頭のネジが外れた者の犯行なのだろうか。
その、どちらでも、今の準には違いなどなかった。怪物であるか否かなど関係なく、この平和な日本でパトカーを大破させるような者を相手にするには、自分は力も度胸も不足していると痛感していた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
江戸川に掛かる橋へ辿り着くと、そこには誰もいなかった。
事件の現場となったであろう橋は、既に平穏を取り戻している。報告によれば、この場に折れ曲がった警棒が転がっていたらしいが、今はその跡もない。
交通事故の類でない以上、献花の類も見られない。時折、何かを積んだ軽トラックが橋の上を通り過ぎる以外は、通行人の姿も見当たらなかった。
「ほな、さっそく調べよか。頼むで、茶々丸」
そう言って、律が連れて来た犬に周囲の臭いを嗅がせて回った。茶々丸と呼ばれた犬は、特に何かの反応を示すわけでもなく、淡々と作業をこなしている。
(あの犬……まるで、香取さんが化けているみたいだな)
大柄で無愛想な茶々丸の姿が、準の中で香取の姿と重なった。素手で戦った場合、大型犬を取り押さえるのは成人男性でも難しいという。ましてや、警察犬というよりは軍用犬のような雰囲気を纏った犬が相手では、下手をすればこちらが殺される。
猛犬というよりは、闘犬というに相応しい存在。そんな茶々丸が、小柄な律に連れられて従順にしている様は、なんというかミスマッチではある。
「ん? なんぼか、おもろいもん見つけよったか?」
突然、足を止めた茶々丸に、律が尋ねた。当然のことながら、犬は言葉を返さない。ただ、低い唸り声を上げて、まるで主人を何かから守るような仕草は見せていた。
「どうしたんですか、印藤さん?」
「まだ解らへん。ただ、茶々丸がこんなに唸るっちゅうことは、そんだけヤバいもんが、この橋の上で何かやらかしよったってことや」
さも、当たり前のように、律が準の問いに答える。もっとも、彼女と違い茶々丸のことを知らない準にとっては、何が何だか解らないままだった。
「そういう新人君こそ、なんぼ感じるもん、あらへんのか?」
「いえ……僕は、特には……」
唐突に話を振られ、準は申し訳なさそうに頭を掻いた。人に見えない物が見える警察官。そんな存在として零係に引き抜かれた準だったが、しかし彼は、霊能力者としての修業を積んだ者ではない。
いかに優れた感性を持っていたとしても、その力の使い方が解らないようでは、『少し敏感なセンサー』程度にしか役に立たないのだろう。それでも、何の力も持たない一般人を同行させるよりはマシであるが、今回に限っては準が律の期待に応えられそうなことは何もなかった。
「ん~、新人君なら何か感じると思うとったけど……ちょい残念やね。まあ、ええわ。ウチも、ほんの少しだけ、獣みたいな臭いを感じるだけやったし」
多少、名残惜しそうにしつつも、律は直ぐに気持ちを切り替えて準に言った。獣臭いのは、そちらが連れている犬のせいではないか。そう、準が言おうとした言葉を遮って、律は茶々丸と一緒に歩き出した。
「ここの捜査は、とりあえず終わりや。次は、ウチらも雄作ちゃんと合流して、例のパトカーがぶっ潰されたっちゅうロータリーを調べるで」
「えっ!? ……あ、ちょっと待ってくださいよ、印藤さん!」
置いてきぼりを食らいそうになり、慌てて駆け出す準。早く来いと笑いながら手を振る律とは対照的に、茶々丸は尻尾を振ることもなく、真っ直ぐに歩道を進んで行った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
準と律がロータリーに到着したのは、正午に近い時刻だった。
最初の事件現場であった橋と、次の事件現場であったロータリーは、比較的近い場所にあった。ただ、迷路のように入り組んだ下町の住宅街を抜けねばならず、それなりに時間を要してしまった。
「ふぅ、ようやく着いたわ。それにしても……警察で仕事するんやったら、ちっとは足腰鍛えんとあかんで。生活安全課の刑事やったのに、自分の足で聞き込み捜査とかしとらんかったんか?」
ロータリーに着くなり、律は後ろで軽く息を切らしている準に尋ねた。
「そ、そんなこと言われても……印藤さんと、その犬が早すぎるんですよ! 競歩どころか、軽いマラソンと同じくらいのスピードで歩くなんて……」
額の汗をハンカチで拭い、準は呼吸を整えつつ反論した。自分とて、刑事として常に聞き込み捜査や夜間の街の見回りをして来た経験はある。だが、そんな彼の足を持ってしても、ともすれば引き離されそうになってしまうくらい、律の足は速かった。
否、恐らくは、律の足が速いのではないのだろう。あの、茶々丸とかいう犬。あいつの足が、犬にしては速すぎるのだ。おまけに、普通の散歩などと違い、途中で小便をすることもなければ、壁や雑草の臭いを嗅ぐこともしなかった。
律は民間人から借りて来た犬だと言っていたが、果たして本当にそうなのだろうか。ふと、そんな疑念が準の頭を過ったところで、彼の横から聞き覚えのある声がした。
「印藤と寺沢か。そちらの状況は?」
いつの間にか、そこには香取が立っていた。氷川ほどではないにしろ、彼もまた気配を消して人に近づく術を持っているのだろうか。
「茶々丸の見立てでは、とりあえずクロやね。後は、この場所でパトカー襲った連中の跡も調べて、比べさせへんと判らんけど……そっちの方は、どんな感じやったん?」
現場の様子を横目に、律は香取に尋ねた。黄色い立ち入り禁止テープの向こう側では、未だに捜査員達が忙しなく動いているのが嫌でも解る。
「殺された二人の巡査は、共に死亡が確認された。一人は、以前の秋元巡査と同じく頸椎を損傷したのが原因だが……問題なのは、もう一人の方だ」
そこまで言って、香取は少しだけ声のトーンを落とし、押し殺すような声で話を続けた。普段は人目を気にするようなこともない彼が、明らかに周囲の様子を気に掛けている辺り、かなり拙い話であるということは言わずとも理解できた。
「殺された二人目の方は、頭が原形を留めない程に変形していた。否、この場合は、砕かれていたと言った方が正しいのか? 俺も直接見させてもらったが、鉄パイプで殴られた程度では、あんな死に方はしない」
それこそ、普通の暴力では不可能である。そう結んで香取は改めて律と準へと視線を合わせた。
ちなみに、地元警察は今回の事件を、暴走族による襲撃として発表している。実際、この界隈は性質の悪い暴走族が縄張りとしており、それに悩まされる付近住民からの苦情も多かったと聞く。
「暴走族か~。最近のガキんちょは、確かに加減を知らへんからね。勢い余って人を殺すなんて、珍しくもないっちゅうんが恐い話やで」
「そ、そうですね……。でも……」
何ら動ぜずに話を聞いている律とは対照的に、準の方は随分と顔色が悪かった。香取の話を信じていないのではなく、信じているからこそ、無駄にリアルな想像が頭の中を駆け巡っているようだった。
「頭を砕くって……それ、完全に人間業じゃないですよね……」
口元をハンカチで抑えつつ、辛うじてそれだけ準が口にした。ホラー映画のワンシーンでも思い浮かべてしまったのか、明らかに嫌悪感を露わにしている。
「まあ、ウチらみたいな仕事やってるもんからしても、それが普通の反応やね。そやけど……被害者の頭が砕かれてたって話、ホンマかいな? バイクや車で頭を轢いたとか、金属バットでフルボッコにしたとか、そういう可能性もないんか?」
だが、その一方で、律は普段の調子を崩すことはしなかった。仕事柄、変死に遭遇することも少なくないとはいえ、なんというかタフである。
「轢死か……。それで済めば、こちらとしても楽なんだがな。なんだったら、お前達も被害者の遺体を見てみるか? あれを直接見たら、そんな考えも一変するはずだぞ」
そう言って、香取は二人を黄色いテープの中に案内すると、遺体に被せられたシートをまくり上げ、その頭部を目の前に露わにした。途中、明らかに訝しげな視線を向けて来る鑑識官が何人かいたが、香取の階級を知っているのか、口を挟んでくることはしなかった。
「これを見て、人間業と思える方が不思議だろう? それこそ、プレス機を持ち出して頭を潰すか、高速で打ち出されたボーリングの玉をぶつけられでもしなければな」
完全に変形し、赤い塊となった被害者の頭部を前に、香取は律と準に向かって語ってみせた。
ちなみに、人間を素手で殺そうとした場合、首の骨を折るには100kg近い握力が必要になるという。プロの格闘家の拳や蹴りは、時に1t近い破壊力を生むが、それとて常に放てるわけではない。当たり所によっては防弾ガラスを砕くことも可能だが、裏を返せば、それだけの力がなければ人の頭を砕くことなど不可能である。
「うげ……。いや、もう結構です……」
淡々した口調で語る香取に、準はとうとう堪え切れずに顔を背けた。だが、相変わらず律は平然とした様子で苦笑するだけで、あまり気にしていないようだった。
「なんや、情けないな~、新人君は。まあ、ほんでも、雄作ちゃんが言うなら間違いないんやろね。にしても……人の首の骨折るだけやなくて、今度は頭まで潰しよるとか、ちょい人間離れし過ぎやで。もしかせんでも、かなりヤバい相手やろな、これは……」
「そこを調べるのが、お前達の仕事だ。お前が茶々丸を借りて来たのも、犯人の正体に目星が付いているからだと思ったが?」
香取が律に、探るような視線を向けた。それでも律は、しばし考えた素振りを見せた後、健康的な歯を見せながら、悪戯っぽく笑うだけだったが。
「ん~、とりあえず、ウチの仮説が正しいかどうか、まだ完全に証明されたわけやないしね。茶々丸に調べさせて、結果が出てから報告するんでええか?」
「……解った。では、俺は一足先に、別件の仕事を片付けさせてもらう。後のことは、お前達に任せたぞ」
「なんや~、雄作ちゃんも、ホンマ忙しいな~。この後、時間あるんやったら、近くのステーキハウスで一緒にランチしようかと思っとたのに」
「悪いが、それは寺沢と一緒にやってくれ。こちらは、少々厄介な相手と話をせねばならないんでな」
そちらの趣味に付き合うつもりはない。それだけ言って、香取は一足先に、準と律の前から去って行った。相変わらず、愛想の欠片もない男だ。社交辞令という言葉は、どうやら彼の辞書にないらしい。
「仕方あらへんね。ほな、新人君。ここの捜査が終わったら、ウチと一緒に飯食いに行かんか?」
気を取り直し、律が準を誘う。もっとも、顔の潰れた死体など見せられた後では、とても肉を食べたいなどと思える気分になれなかった。
「否……さすがに、あんなのを見た後じゃ、ちょっとステーキって気分じゃ……」
「な~に、軟弱なこと言うとんねん。さっきのは人の肉、ウチらが食べるのは牛の肉。割り切って考えへんと、人生損するで」
何ら動ぜず、飄々とした態度で口にする律。やはり、警察官であることを抜きにしても、彼女は並みの女性とは比べ物にならないくらいタフだ。完全に常人には理解できない感性を持っているのか、それとも単に慣れているだけなのか。
香取とは別方向の強さを持っている律に、準はそれ以上、何も言えないまま従うしかなかった。顔を潰された死体のことを思い出すと気が滅入りそうだったが、贅沢を言っている時間も余裕も、今の彼には残されていなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
薄暗い雑居ビルの一室へ足を踏み入れると、そこに待っていたのはサングラスを身に着けた羽振りのよい男だった。
「上野で『Pinky・Dream』という店を経営している男がいるだろう? その上司というのは、お前のことか?」
扉を開けて男の姿を見るなり、香取は何ら臆する様子も見せずに口にした。瞬間、デスクの向こう側にいる男の側近と思しき者達が険しい表情で睨み返して来たが、男はそれを無言で諌め、香取に尋ねた。
「何者じゃ? カタギにしては、妙にスレた顔しとるが……」
投げ掛けられた問いに、香取は無言のまま一枚の名刺を差し出した。昨晩、『Pinky・Dream』のオーナーが、逃げ出す前に置いて行ったものだ。
「なるほど……。昨日は、ワシの舎弟を随分と可愛がってくれたようじゃのう。もっとも、詫びを入れに来たっちゅうわけでもなさそうじゃが……用件は何や?」
男の名前は、後藤といった。殺し屋のような人相と体格の香取を見ても、後藤は何ら動ずることなしに、凄むような視線を向けて来る。だが、その程度では香取も引きはしない。修羅場を潜って来た経験だけで考えれば、彼もまたヤクザ者に引けを取らないだけのものがある。
「単刀直入に訊こう。金周美という女について、何か知っていることはないか?」
余計な詮索は入れず、香取は用件だけを簡潔に述べた。この手の輩に対して駆け引きを持ちかける場合、最も重要なのはタイミングであると知っていた。今はまだ、その時ではない。
「金周美……ああ、みずきちゃんのことかいな? まあ、知ってるちゅうたら、知っとるかもしれへんが……それを教えて、ワシらに何の得があるんじゃ、ええ?」
怪訝そうにしつつも、後藤が香取に再び尋ねた。その口から出た『得』という言葉を、香取は聞き逃すことなしに畳み掛けた。
「俺は警視庁公安部の人間だ。昨日の騒ぎは、そちらも知らないわけではあるまい? 銃刀法違反に、傷害および強迫の罪。隅澤会の名前を出して、そんなことをやらかしたら……そちらとて、暴対法を知らんわけではないだろう?」
昨晩、上野のキャバクラである『Pinky・Dream』で起きた騒ぎ。香取と準に店のオーナー達が法外な値段を吹っかけた挙句、返り討ちにされた事件のことだ。
舎弟を痛めつけられたことは、ヤクザ者の面子を潰すことと同じである。場合によっては激昂して落とし前を付けようとする者もいるはずだったが、今回に限って、それはなかった。
「……ヒロシ! あの餓鬼が、調子に乗り腐りおってからに!」
後藤の顔が、見る間に赤く染まり震え始めた。香取に対する怒りではない。恐らくは、『Pinky・Dream』の経営を任されているオーナーの男、ヒロシという名前の舎弟に対する怒りだろう。
近年、暴対法が大幅に改正されてからは、ヤクザ者に対する取り締まりも厳しくなった。銃刀法は勿論のこと、ヤクザの名前を使ってカタギを脅しただけで罪となる。下手に名前を使えば組全体に迷惑を掛けることになり兼ねず、故にヤクザ者の中でも安易に組の名前を使って恐喝や強迫を行うのはタブーとされる。
昨晩、香取と準にヒロシが行ったことは、完全にそのタブーに触れていた。ましてや、知らずとはいえ警察の人間にそれを行ったとなれば、もはや知らぬ存ぜぬは通らない。
ここで香取を始末し、全てをなかったことにする。そんな選択も、後藤にはあった。だが、彼とて相手の力量を知らずに喧嘩を吹っかける程の馬鹿ではない。海千山千のヤクザ者と関わって来た経験から、相手の力量を雰囲気から察する程度の術は持っていた。
「こちらの用件は、先程の通りだ。情報さえ渡してくれれば、昨晩のことは見なかったことにさせてもらう。そちらも、まさか下っ端の不始末で、組長宅までガサ入れされるのは本意ではあるまい」
淡々と告げる香取。その言葉に、後藤は何も言い返せなかった。が、それでも、部下の手前というのもあるのだろう。あくまで平静を装いつつも、微笑を浮かべながら香取に尋ねた。
「こりゃ、なかなかキツい冗談じゃのう。警察がヤクザと取引するなんぞ、末代までの恥とちゃうか?」
「何とでも言え。こちらが欲しいのは、金周美に関する情報だけだ。それさえ手に入れば、後はそちらの商売に口を出すつもりもない」
「まあ、そういうことなら、教えてやれんこともないがのう。ただ……期待する程、ワシらも情報を持っとるとは限らんのじゃ。姫の過去なんぞ気にしとったら、こちとら商売にもならんのでなぁ」
「姫、だと?」
そこまで聞いて、今度は香取の方が顔を曇らせる番だった。
「なんや、ヒロシから聞いとらんかったんかい? ワシらの商売は……姫の宅配サービスじゃ」
さも、当然のように、後藤が香取に告げる。それを聞いた瞬間、香取にも全てが理解できた。
後藤が経営に関わっているのは、派遣型の風俗店だ。恐らく、ヒロシの言っていた『キャバ嬢よりも稼げる仕事』というのが、それだろう。
より多くの金を欲してか、それとも他に事情があったのか。とにかく、金周美が風俗店に勤務していたのは事実であり、その結果として、あのような悲惨な最期を迎えたとも考えられた。
「まあ、どうしても知りたいっちゅうんなら、後は『Pinky・Dream』にいる、あさみちゃんに聞くことじゃのう。ヒロシの言っておった話が正しいなら、あの二人は同じ学校に通うとる友達だったちゅうことじゃ」
それ以外のことは、何も知らない。それだけ言って、後藤は再び不敵な笑みを浮かべつつ、完全に口を閉じてしまった。
もう、この場で探れることは何もない。仮に、それ以上のことを後藤が知っているとしても、聞きだすにはこちらのカードが不足している。
「解った……。近々、また店に立ち寄らせてもらおう。場合によっては、金を落としてやらんこともないが……あくまで、適正な価格であればの話だ」
「努力させてもらうわい。どの道、ヒロシのやつは、少々仕置きが必要そうじゃからのう。下手打ってパクられるような間抜けや、組の名前にケチ付けるようなアホには、店を任せるつもりもない。当分は、安心して遊んでくれて構わんで」
去り際にそれだけ言って、後藤は部下の男達に香取を見送らせた。
キャバクラ『Pinky・Dream』に勤める、あさみという女。準の隣にヘルプで付いた地味なキャバ嬢の姿が、香取の頭の中に浮かんで消えた。