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― 伍 ―

 店の路地裏に回ると、そこには生臭いゴミの臭いと、それから硫黄のような臭気が漂っていた。


 大通りへ続く道を塞ぐ形で、店のオーナーと思しき男が仁王立ちしている。その後ろには、いつの間に現れたのだろうか。ラグビーや柔道の選手と見紛うような巨漢が二人、やはり黒尽くめのスーツを身に纏って立っていた。


 片方は髭面、もう片方はスキンヘッド。どちらも鬼瓦のような顔つきをしており、堅気の人間でないことは明白だ。だが、そんな巨漢達を前にしても、香取は怯むことなく彼らに尋ねた。


「さて……。それでは、改めて聞かせてもらおうか?」


 口に煙草を咥え、香取はごく自然な流れのままに火を付ける。どう見てもヤクザとしか思えない男達を前にしても、何ら物怖じする素振りは見せることなしに。


「この店に案内されたとき、一番安くて3000円からだって言われたんだがな。それが、ゼロ一つどころか二つも違う金額を吹っかけて来るってのは、さすがに詐欺じゃないのか?」


 煽るような口調で言いながら、香取は煙を目の前に立っている男達に吐きかけた。後ろで見ている準の目からしても、男達が苛立っているのが表情から手に取るように解った。


 零系の捜査内容は、基本的に極秘事項。それにも関わらず、こんな場所で揉め事を起こしていいのだろうか。そうでなくとも、単に警察手帳を見せれば黙らせられそうな相手に対し、わざわざ挑発的な態度を取る理由はなんだろうか。


 共に仕事をして短いというだけでは、準には今の香取の行動を理解することができなかった。案の定、男達は舐められていると思ったのか、今までの紳士的な態度を脱ぎ捨てて怒鳴りかかって来た。


「調子に乗ってんじゃねぇぞ、コラァッ! 席料に指名料、全部ひっくるめて30万、払うか払わねぇか、ハッキリしろや!!」


 先程までの、穏やかな物腰は既にない。オーナーの男がドスの効いた声で叫び、後ろにいた巨漢の一人が香取の胸倉を掴んで壁に押し付けた。


「おう、テメェ……あんまり調子こいてると、少し痛い目に遭ってもらうことになるぜ?」


 準の二倍はあろうかという剛腕で、スキンヘッドの巨漢が香取の胸元を締め上げて言った。だが、次の瞬間、巨漢の顔が急に苦悶の表情に歪んだかと思うと、身体を丸めて崩れ落ちた。


「か、香取さん!?」


「下がっていろ、寺沢。余計な怪我をしたくなければな」


 蹲ったまま震えている髭面の巨漢に回し蹴りを食らわせて倒し、香取は残る二人の男達と対峙した。仲間が倒されたことを知って、もう一人の巨漢が間髪入れずに殴りかかって来た、香取はそれを軽く身体を逸らすことで避け、代わりに相手の髪を掴むと、顔を仰向けになるよう捻り上げた。


「ぎゃっ!?」


 髭面が悲鳴を上げるのと、香取の拳が顔面に食い込むのが同時だった。


 仰向けになった相手の顔に、香取は素早くパンチを叩き込んだのだ。それも、一発ではなく、一度に複数発の打撃を鼻面と口元を性格に狙って振り下ろした。


「野郎……ブッ殺してやる!」


 先程、蹴り倒されたスキンヘッドの巨漢が立ち上がり、懐に手を差し入れた。


 あれは拙い。相手の動作から本能的に危険を感じ取り、後ろで見ていた準も懐へ手を伸ばした。だが、彼が拳銃を引き抜くよりも先に、香取の鋭い蹴りの一撃が、スキンヘッドの右手を拳銃ごと蹴り飛ばしていた。


「銃があれば勝てると思ったか? ……ガタイは良くても、所詮素人だな」


 冷徹な視線を向けつつ、それでも香取の身体は自然と次の攻撃へ移っている。相手の手を引いて抑え込み、今度は胸に合わせて三発の膝蹴りを叩き込んだ。


「この親父……舐めんな!」


 巨漢の二人が相次いで倒され、とうとうオーナーの男まで襲い掛かって来た。その手に握られているバタフライナイフの刃が香取の頬を掠めたが、しかし彼の身体に傷をつけることはできなかった。


「おわっ!?」


 髭面の身体を横に押し退けると同時に、香取の手がナイフを突き出した相手の腕を掴んで引き寄せたのだ。こうなると、もう完全に流れは香取のものだ。身体を捻り、男が抵抗する素振りを見せたが、それよりも早く放たれた香取の肘打ちが、男の顔面に鈍い音を立てて食い込んだ。


「この距離で刃物を選んだのは正しいが……相手に見える位置で抜いた時点で、貴様もまた素人だな」


 顔面を抑えて転げ回っている男に香取が告げた。


 戦闘でナイフを使うプロは、相手を傷つけるぎりぎりまで刃を見せることを良しとしない。こちらの武器を相手に見せてしまうことで、有効な間合いやリーチ、刃の軌道を悟られるのを防ぐためだ。


 所詮は喧嘩殺法しかしらないチンピラか。侮蔑とも取れる表情を浮かべる香取。そして、一連の様子を後ろで目の当たりにし、呆気に取られたままの準。


 上野の路地裏に、異様な空気が流れていた。チンピラの喧嘩は珍しくない。しかし、香取と巨漢達の戦いは、明らかに普通の喧嘩とは異質なものだ。


 素人が、生兵法でプロに挑んで返り討ちに遭う。アクション映画の中でしか見たことのなかった光景に、準は完全に毒気に当てられてしまっていた。


「か、香取さん……これって……」


 そう、震える口調で尋ねるも、そこから先が思い浮かばない。そうこうしている内に、痛めつけられた巨漢達が立ち上がり、再び香取と準の二人を睨みつけて来た。


「テメェら……こんなことして……ただで済むと思ってんのかぁ……?」


「俺達の後ろにゃ……隅澤会すみざわかいの組長がいるんだぜぇ……」


 未だ身体にダメージが残っているのか、先程と比べて口調が弱々しい。それでも、バックにいる暴力団の名前を出して脅して来る辺り、彼らの目はまだ死んではいない。


 隅澤会。確か、関西方面に本拠地を持つ、広域暴力団の下部組織だ。関東での勢力範囲は、主に東京を中心とした大都市圏。そちら側の人間でなくとも、親元の組織の名前を聞いたことのある人間も数多い。


 相手がヤクザの一員ともなれば、これ以上の揉め事は更なるトラブルを引き起こすことにも成り兼ねない。今度こそ、本当に止めねばと思う準だったが、それよりも早く香取が動いた。


「隅澤会か。だから、どうした?」


 それだけ言って、香取は少し身体を後ろに下がらせると、徐に懐へ手を伸ばして拳銃を抜いた。さすがに、これには巨漢達も目を丸くしたが、香取は彼らに構うことなく、銃口を下に向けて近くに置かれていたゴミバケツを撃ち抜いた。


「……っ!?」


 警告なしの発砲をされるとは思っていなかったのだろう。両目を丸くして、男達はしばし動かないまま砕け散ったゴミバケツを見つめていた。バケツの一部が吹き飛んだことから、威力の程も理解したようだ。


 拳銃は、下に向けて発砲した場合、思ったよりも大きな音を出すことはない。おまけに、ここは繁華街の裏路地である。銃声は直ぐに街を飛び交う様々な雑音に混じってしまい、人々の耳に届くこともない。


「この距離なら、俺はお前達の身体を外しはしない。さあ……これでも、まだ抵抗を続けるか?」


 再び男達へ銃口を向け、香取が尋ねた。先程、少しだけ身を引いたのは、拳銃を使う際に最も有効な間合いを取るためだ。離れ過ぎても当たらず、近過ぎれば引き金を引くよりも早く敵に距離を詰められる。それを知っているからこそ、最後まで安易に銃を抜くことをしなかった。


「テ、テメェら、何者だ? さては……覇堂組はどうぐみの回し者か? それとも、チャイニーズドラゴンか!?」


 蹴られた胸元を抑えつつ、髭面が震える声で叫んでいた。完全に立場が逆転したことで、香取のことを対立組織の鉄砲玉か何かと思っているようだった。


「貴様達には関係のないことだ。それよりも……金は払ってやるから、代わりにいくつか質問に答えろ」


 淡々とした口調で、香取が尋ねた。ここに来て、準はようやく、香取の思惑に気が付いた。


(もしかして……香取さん、最初からこうなることを知っていて、相手から情報を聞き出せる流れに持って行ったんじゃ……)


 そうだとすれば、なかなかどうして、香取も策士だ。


 キャバクラ『Pinky・Dream』のバックに暴力団の影がある以上、警察である自分達の身分を明かせば、捜査に協力してもらえないのは明白である。だが、客を装って店に潜入したところで、やはり得られる情報には限界がある。


 この店のキャバ嬢であった金周美の情報を得るためには、店のオーナーに近づく必要があった。その上で、互いの力関係を理解させて、必要な情報を収集する。かなり強引で暴力的な方法ではあったが、確かに一番手っとり早い方法でもある。


 今までのことは、すべてこの時のための準備だったのだ。本当のことを告げられず振り回されたことで、準は一瞬だけ香取のことを恨みはしたが、しかし直ぐに考えを改めた。


 この店に来る前に作戦の全てを聞かされていたら、果たして本当に自然体で客を装うことができただろうか。正直、準には自信がなかった。いくら警察官とはいえ、その全てが潜入捜査のプロではないのだ。


「この店で働いていた女で、金周美という韓国人の留学生がいただろう? そいつが関係を持っていた客や、男について知っていることを話せ」


「金周美? ああ、みずきちゃんのことか? お前、まさか彼女の男とか……」


「余計な質問はするな。身体に風穴が開くぞ」


 男の胸元に狙いを定め、香取が言った。情け容赦の欠片もない瞳。脅しではなく、人を殺したことのある者が、本当に人を殺す時の目だ。


「もう一度、聞く。この店で働いていた、金周美という女。そいつと、その周りにいた人間について、知っていることを全て話せ」


「し、知らねぇよ! あいつ、しばらくは店にいやがったが、稼ぎにならねぇって直ぐに辞めちまったんだ!」


「辞めた?」


「ああ、そうさ! 調度、俺達の兄貴が来たときに、そんなことを愚痴りやがって……それで、兄貴が『もっと稼げる商売を紹介してやる』って言って、そのまま引き抜いて行きやがったんだ」


 既に、オーナーの男と取り巻きの巨漢達からは、先程の高圧的な様子は消えていた。暴力でも覚悟の大きさでも敵わないということを、身を持って叩き込まれたのでは無理もない。


 脅える様子の男達に、香取は最後に、金周美を引き抜いたという男の連絡先を尋ねた。右手に握った拳銃は降ろさず、オーナーの男に名刺を放り投げさせる。薄汚れた路地裏に落ちたそれを準に拾わせて、香取は男達に消えるよう告げた。


「こいつは酒と女の代金だ。席料と指名料、それに酒の代金としては妥当な額だろう?」


 男達の目の前に万札をばら撒いて、香取はそれを拾うよう目配せした。金額は、合わせて5万円にも満たないだろう。提示された額よりもかなり低いものだったが、それでも男達は慌てて金をかき集めると、捨て台詞を吐いて去って行った。


「ふぅ……。な、なんとか、助かりましたね……」


 目の前から強面の男達が去ったところで、準は額の汗を拭った。警察官として、悪漢と戦うことを経験していないわけではなかったが、さすがに相手が銃を取り出した時には肝を潰した。


「それにしても……上野とか鴬谷の辺りにも、まだこんな酷い店があったんですね。ぼったくりバーってだけでも酷いのに、おまけに銃刀法違反とか……。普通に、ガサ入れできるんじゃないですか、これ?」


 先程、男達が暴力団の名前を出したことを思い出し、香取に尋ねる準。だが、香取は興味があるのかないのか、あまり驚いた素振りも見せなかったが。


「街というものは、道を一本挟んだだけで、顔を変えることもあるんだ。鴬谷とは違い、上野はまだ浄化が完全に終わっていない……それだけのことだ」


 淡々とした口調で、香取は告げる。欲望の渦巻く夜の街は、少し場所を変えるだけで、そこに漂っている空気もまた異なる。


 警察の見回りが強化されている鴬谷に比べ、上野は未だに暴力団関係者の経営する店が幅を利かせているところもある。ここ最近では、関西から流れて来た組織と地元のヤクザ達が水面下で抗争を続けており、そこにチャイニーズドラゴンと呼ばれる海外マフィアも絡んで来ているとされている。


 人情溢れる江戸の下町。そんな表の顔とは反対に、裏の世界は新宿や渋谷、池袋などと同じくらい、混沌とした空気に汚染されているのだ。普通に暮らしているだけの人間であれば、彼らに関わることもない。が、しかし、一度彼らの世界に足を踏み入れてしまったが最後、それが生み出す混沌の渦に、嫌でも巻き込まれてしまうことになる。


 『Pinky・Dream』で働いていた金周美も、その渦の中に飲み込まれてしまったのだろうか。だとすれば、やるせないと準は思った。


 世間では、こういった時に自己責任という言葉をよく用いる。確かに、彼女がどのような理由で夜の世界に足を踏み入れたのかは解らないし、それを知るための術もない。だが、だからと言って、彼女が無残な殺され方で、命を奪われて良いという道理もまたないはずだ。


 自分がもっと強ければ。ふと、そんな思いが準の脳裏を掠めて消えた。そういえば、以前に香取達と初めて出会った際の事件でも、自分は何もすることができなかった。


「ところで、香取さん。さっき、あの男達を倒した技……あれ、なんですか?」


 拳銃を懐に納めた香取に、準は思い出したようにして尋ねてみた。もしかすると、自分も鍛え方次第では、あのように戦えるのではないか。そんな淡い期待に縋る思いもあったのだが。


「ああ、あれか。イスラエル軍式護身術クラヴ・マガだ。本来ならば、立ち上がれなくさせることも可能だったんだが……一応、手加減はしたつもりだぞ」


 なぜなら、喋れなくなって情報が聞き出せなくなると拙いから。それだけ言って、香取は一足先に歩き出す。後から慌てて追いかける準だったが、それ以上は何も聞こうとはしなかった。


 イスラエル軍式護身術クラヴ・マガ。そんなもの、生まれてこの方、見たことも聞いたこともない。おまけに、拳銃を持った相手を一方的に叩き伏せ、それでさえ手加減していたというのだから恐ろしい。


 やはり人間、身体も心も、そう簡単に強くなるのは難しいようだ。ならば、自分は自分のできる範囲で、やれることをやるしかない。


(『よみがえりの香取』か……。確かに、あんなの見せられちゃ、誰もが香取さんのことを不死身だって思うよな……)


 夜の雑踏に紛れて消えそうになる香取の背が、準には少年時代に読んだ漫画の傭兵や殺し屋と重なって見えていた。

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