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13/23

― 肆 ―

 店の中で案内された席に着くと、準は隣から漂って来た甘過ぎる香りに思わず顔を顰めた。


 派手な衣装に身を包んだ女。香りは、その女の髪から出ているようだ。香水か、それとも何か別の化粧品の類なのだろうが、いささか付け過ぎの感じは否めなかった。


「ねえ、お兄さん。仕事、何やってるの?」


「えっ!? あ、あぁ……その、普通のサラリーマンだよ、うん!」


 話のきっかけを作ろうと質問して来たキャバ嬢の言葉を適当にかわして相槌を打つ。正直、これではどちらが接客をしているのか解らない。


 生まれてこの方、準はこういった店を訪れたことがなかった。別に、真面目を気取っていたわけではない。ただ、夜の街の商売というものに、あまり興味が持てなかっただけの話だ。警察官という立場上、そういった場所を訪れることに、どこか後ろめたいものを感じていたというのもある。


 ふと、香取の方へと目をやると、彼の方は特に問題なくキャバ嬢達との会話をこなしていた。普段の武骨で無愛想な雰囲気と違う姿に、思わず遊び慣れしているのではないかと思ってしまう。が、しかし、それでも準は香取の目が、いつもと変わらぬ鋭さを残していることに気が付いてはいた。


 こうしている間にも、香取は店の中を行き来する人間達を、つぶさに観察するのを忘れていない。少しでも不審なものはないか。変死した女性、金周美に繋がるものはないかと、油断なく捜査の目を光らせているのだ。


(やっぱり、香取さんって凄いよな……。それに比べて、僕はいったい何をやっているんだろうか……)


 その場の空気に飲まれ掛けていることを感じ、準は自分が物凄く情けない人間に感じられてならなかった。仕方なく、目の前に注がれた酒を飲んで気を取り直そうとしたが、口に含んだ瞬間、その強さに驚いて噎せ返った。


「きゃぁっ! 汚~い!!」


「ちょっと、やだ! お兄さん、粗相は勘弁してよ!」


 席に着いていたキャバ嬢達が、悲鳴を上げながら準の側から離れた。もっとも、仕事着を汚されることを考えた場合、彼女達の反応は至極当たり前のものであるのだが。


「ごほっ……ご、ごめん……」


 未だ焼けるような痛みの残る喉を抑えながら、準は半分だけ目に涙を浮かべて謝罪した。こんな強い酒、生まれてこの方、飲んだこともない。おまけに、味も最悪だ。なんというか、消毒薬をジュースで薄めたような味しかせず、口の中に不快な感触がいつまでも残っている。


「ゆかりちゃ~ん! 御指名入ったから、こっちのお客さんの相手してくれな~い!?」


「はーい、今すぐ行きま~す!」


 店の奥から呼ぶ声に、準の隣に座っていたキャバ嬢が立ち上がった。どうやら、常連客から本指名を受けたらしい。


「そういうわけで、ちょっと失礼しま~す! お兄さんも、無茶な飲み方したら駄目だからね♪」


 先程、本気で怒っていたのはどこへやら。ゆかりと呼ばれたキャバ嬢は、露骨な営業スマイルと共に甘い声で準に告げて去って行った。


 なるほど、これが接待のプロというものか。半ば感心した表情で準が去り行くゆかりの背を見つめていると、代わりに長い黒髪をしたキャバ嬢が隣に腰を下ろした。


「あ、あの……」


 準の顔色を窺うようにして、遠慮がちに口を開く。先程、同じ席に座っていたゆかりとは違い、随分と控え目な印象だ。ヘルプ席に入らされていることから、もしかすると、まだ仕事を始めたばかりの新人なのかもしれない。


「ゆかりさんのヘルプで来ました……あさみと言います。宜しくお願いします」


 何のことはない自己紹介。しかし、準はあさみと名乗ったキャバ嬢のイントネーションが、純粋な日本人のそれとは違っていることに気が付いた。


 東北や九州など、地方で用いられる方言のイントネーションとも違う。どちらかと言えば、日本語を覚えたばかりの外国人が喋っているような。


(もしかして、中国人か? 今じゃ、どんな場所で外国人が働いていても、珍しくないとは思うけど……)


 酒を噴き出さないように気をつけつつ、準は軽く口に含むフリをしながら考えた。今度は、誤って飲み干すような真似はしない。こんな質の悪い酒、下手に流し込んだら二日酔いで済めばマシな方だと思っていたので。


 改めて見ると、あさみはキャバ嬢にしては随分と化粧気のない顔をしていた。それだけ、元の顔も美しいのだろう。ただ、スタイルは細身というよりも痩せ身に近く、雑誌のグラビアを飾るアイドル達のようなグラマラスさはない。


「あ、お客さん! ここ、濡れてますよ」


 テーブルの上の手拭きを取って、あさみが叫んだ。見れば、確かに準の右太腿部分が濡れている。どうやら、口から噴いた酒で汚してしまったらしい。


「ああ、大丈夫だから。そんなの気にしないで……」


 そう言って適当にあしらおうとする準だったが、しかし、あさみは気にせず彼の脚を噴き出した。


 キャバ嬢にしては、随分と細かな気配りができる。一瞬、そんなことも思ってみたが、どうせこれもサービスの一環だろうと思うと、急に気持ちが冷めてしまった。


 ゆかりと違い、あさみはヘルプを任されるような嬢だ。本指名も少なく、それ故に、自分を売り込むことに必死なのだろう。こうやって、初対面の人間であろうと献身的なところを見せることで、自分を高く評価してもらおうという作戦なのかもしれない。


「えっと……もう、十分だから、本当に大丈夫だよ。それより、君ってどこの生まれなのかな? たぶん、東京じゃないと思うけど……」


 冷めた気持ちを悟られないよう、準は唐突に話題を切り替えた。本当は、適当に趣味の話でも聞けばよかったのかもしれないが、咄嗟のことで頭が上手く回らなかった。


「はい。私、生まれた国は韓国です。まだ、日本語も覚えたばかりなので……難しい言葉、よく解らないかもしれません。ごめんなさい……」


 あさみが、少しばかり申し訳なさそうな顔で答える。やはり、キャバ嬢としては、彼女は随分と押しが弱い。もっとも、こうして男性の保護欲を刺激することで好感を得ようとしているのであれば、彼女もまた相当な策士ということになるのだが。


「韓国? それって……」


 そこまで言って、準は慌てて自分の喉まで出掛った言葉を飲み込んだ。


 韓国。あの、鶯谷のホテルで変死していたという、金周美という女子大生も韓国人だった。そして、この店は他でもない、生前に周美が働いていたという場所だ。


 もしかしなくても、目の前の女は周美のことを知っているのではないか。そんなことを考えると、今直ぐにでも問い詰めたい思いに駆られたが、辛うじてそれは押し止めた。


 ここで焦って行動したところで、ボロを出すだけだということくらい準にも解る。この店の者達には、自分や香取が警察の人間だということを教えてはいない。


 水商売のようなグレーゾーンの仕事に就く者は、警察の目を人一倍気にするものだ。それこそ、下手に正体を明かしたら、今後の捜査に支障が出る。


 次に何を言っていいか解らず固まってしまった準に代わり、香取がグラスの酒を飲み干して尋ねた。質の悪い酒を口にしているにも関わらず、酔っている様子は欠片も見せない。


「あさみさん、だったかな? こう見えても、俺は昔、仕事で海外を回っていてね。少し、あんたの国のことについて教えてくれないか?」


「私の国、ですか……。それは……」


 口籠るあさみ。控え目にしているというには、随分と動揺しているのが見て取れる。


「ごめんなさい。私、生まれたところ、田舎だから……お客さんが楽しめるような思い出、あまりないと思います」


 実に申し訳なさそうな顔で、あさみは大きく頭を下げた。それは演技などではなく本心だったのかもしれないが、しかしキャバ嬢のトークとしては、完全に失敗だった。


 接待のプロであるキャバクラ嬢は、客を楽しませることが至上命題。こういう場合、どれだけ自分の中に後ろ暗い過去があったとしても、それを表に出してはいけない。適当に作り話をして客の話に合わせられなければ、折角の雰囲気を壊してしまい兼ねないからだ。


(もしかして……こんな調子だから、彼女はヘルプ要因なのかもしれないな)


 謝罪するあさみの姿を見て、準はふと、そんなことを考えた。


 夜の街には、夜の街の掟がある。ルールを守れない者が出世できないのは、昼の世界でも夜の世界でも同じこと。


「ごめんなさ~い、お待たせしました~♪」


 突然、後ろから底抜けに明るい声がした。振り返ると、そこには指名客の相手を終えたゆかりが、実に作り物めいた笑みを浮かべて立っていた。


「そ、それでは……私は、これで失礼します……」


 本命が戻ってきたら、ヘルプの役目はそこで終わりだ。おずおずと、実に決まりが悪そうに、あさみは店の奥へと去って行く。


 あんな調子では、きっと店でも厄介者扱いされているのではあるまいか。一瞬、あさみのことを不憫に思った準だったが、直ぐに気持ちを切り替えた。


 この店には、あくまで捜査の一環で来たのだ。彼女が何を知っており、金周美と関係があるかどうかも不明な現時点で、下手な同情は刑事としての目を曇らせる。


 感情を整理するのは苦手だ。そういう意味では、目の前の香取のことが羨ましくさえ思えて来る。彼のように、いつも冷静沈着に、私情を挟まず行動できたらどれだけ良いか。


 下らない自己嫌悪の念が込み上げてきたところで、準はそれを忘れるべく、グラスに注がれた酒を煽った。相変わらず、喉が焼けるような最悪の味だ。しかし、その不味さに抗おうと耐えることで、余計なことを考えずに済むのは幸いだった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 夜の街のロータリーに、一台のパトカーが停車していた。


 車内には、深夜の警邏に駆り出された、若い警察官の姿もある。時折、無線で報告を入れながら、不審なことはないか、外の様子を窺っている。


 このロータリーは、夜になると近所の非行少年達の溜り場と化す。故に、最近はパトカーを常駐させて、彼らが不法に道路を占拠したり、暴走行為で住民に迷惑を掛けたりしないように見張っている。


 だが、その日に限ってロータリーには、暴走族どころか通行人の影さえ見えなかった。元より、夜になると人通りも少なく、治安もよくないとされる場所。人影がないのは当然といえば当然なのだが、それにしても人の気配がなさ過ぎる。


 もしかすると、今日は誰も現れないかもしれない。もしくは、暴走族を始めとした非行少年達が、集まる場所を変えてしまったのだろうか。


「今日は、この辺で帰りませんか、先輩?」


「馬鹿を言うな。俺達がいなくなったところで、何か問題でも起きてみろ」


 助手席に座っている警察官を、運転席に座っている警察官が嗜めた。時刻はまだ、深夜の0時を回っていない。街は徐々に眠りについているが、しかし全てが眠ったわけではないと。そう、思った時だった。


 数台のバイクが、列を成してロータリーへと入って来た。改造されたマフラーから漏れる不快な音。しかし、それ以外は何の音も発していないことが、却って異質さを際立たせていた。


 夜の通りを走るのに、ライトも付けず、排気音以外の音も鳴らさず。全員がフルフェイスのヘルメットを着用しており、外からは表情さえも解らない。


「なんだ、お前達は!」


 数台のバイクがパトカーを取り囲んだことで、運転席にいた警察官が声を荒げて窓から顔を出した。が、次の瞬間、何かが凄まじい力で警察官をパトカーから引き摺り出すと、そのまま激しくバイクのアクセルを踏んで発進させた。


「ぎゃぁぁぁっ!」


 路上に響く悲鳴。車内に残されたもう一人の警察官は、自分の目の前で起きていることが信じられなかった。


 警邏の相方を引き摺り出したのは、他でもないバイクの運転手だ。彼は片手で引き摺り出された警察官の身体を掴んだまま、バイクでロータリーを走り回っている。


 当然、そうなれば掴まれた警察官もまた、ロータリーを引き摺り回される。首元を掴まれ、抗おうにも抗えず、冷たいアスファルトに身体を擦りつけられて。


「先輩! 今、助けます!」


 もう、黙って見てはいられないと、車内に残された警察官が飛び出した。目の前で自分の先輩を引き摺っている相手の力が、人間のそれを凌駕していること。あまりに常識外れな事態が起きているにも関わらず、彼にはそれを理解するだけの余裕が残されてはいなかった。


「止まれ! 止まらんと、撃つぞ!」


 拳銃を引き抜き、バイクへと向ける。だが、お約束の台詞を前にしても、バイクの運転手は言葉さえ発さずに、ひたすら捕えた警察官の身体を甚振っているだけだ。


「貴様……本当に撃つぞ!」


 今度は脅しではなく、本気で叫んだ。その言葉に、バイクの動きが一瞬だけ止まる。が、運転手はフルフェイスのヘルメットの奥で不敵な笑みを浮かべると、なんと片手で警察官の身体を持ち上げ、もう一人の警察官へと投げ付けた。


「な……に……!?」


 自分の前に飛んで来る、見慣れた男の変わり果てた顔。映像がスローモーションのように視界へと飛び込み、徐々にこちらへと迫って来る。


「うおっ!!」


 放り投げられた同僚の身体が自分に衝突したところで、銃を手にした警察官は、鼻腔を刺激する妙な臭いに気が付いた。


 生臭く、そして濃厚な臭い。間違いない。これは血だ。


「せ、先輩……?」


 身体を起こして尋ねるものの、返事はない。放り投げられると同時に、首を曲げられ、骨を圧し折られたのだろうか。同僚が事切れていることを知り、残された警察官の怒りは頂点に達した。


「き、貴様達……よくも、先輩を!」


 憤怒の形相で、警察官は拳銃を構える。恐怖心よりも、それを上回る怒りと正義感が、彼を奮い立たせていた。


「暴走行為、公務執行妨害及び、殺人容疑の現行犯で逮捕する!」


 片手で銃を持ったまま、警察手帳を取り出し叫ぶ。その言葉に、バイクが一瞬だけ動きを止めるが……直ぐにそれは、周囲で巻き起こった小さな笑いに掻き消された。


「警察ぅ? だから、どうしたってんだよ? あぁん?」


「マッポが一人だけで、俺達に勝てるつもりかよ!」


 嘲笑するような笑いと共に、一斉に罵倒が飛んで来た。声の調子からして、まだ10代の若者か。だが、しかし、彼らの様子はいつものロータリーに集まっている暴走族とは違い過ぎる。


 いったい、これは何の騒ぎだ。そして、彼らは何者なのだ。残された警察官が困惑するのを必死で堪える中、彼の同僚を殺したバイクの運転手が、徐にヘルメットを取り外した。


「な、なんだ……あの眼は……」


 それ以上は、警察官は何も言葉が出せなかった。


 ヘルメットの奥から現れたのは、燐光のような光を放つ瞳を持った少年の顔。暗闇の中、二つの青白い光だけが、煌々と輝きこちらへ射抜くような視線を向けて来る。


「……死ねよ、雑魚が」


 そう、ヘルメットを外した少年が口にするのと、周りに待機していたバイクが一斉に動き出すのが同時だった。


 待ち兼ねたとばかりにライトを照らし、騒音を鳴らして突撃して来るバイクの群れ。おまけに、運転している者達の片手には、それぞれチェーンや鉄パイプといった物騒な凶器の数々が。


「き、貴様ら、何を……うぉっ!」


 発砲する余裕などなかった。擦れ違い様に後頭部を鉄パイプで叩かれ、その一撃で警察官は崩れ落ちた。


「オラオラァッ!」


「マジで最高だぜ!」


 倒れた警察官の霞む視界に、スクラップにされて行くパトカーの姿が飛び込んで来た。「やめろ!!」と叫びたかったが、残念ながら、掠れた声しか出なかった。


 コツ、コツ、という音と共に、何かが後ろから近づいてくる。それはまるで、生者を常世へ誘うことを生業とする、死神の刻む足音のように。


 朦朧とする意識の中で、倒れた警察官は、最後に自分を見下ろす二つの青白い光を見た。


 燐光を瞳に宿した少年が、狂った笑みを浮かべて足を上げた。次の瞬間、少年の足が倒れていた警察官の足を踏み抜いて、何かの弾けるような音がした。


 先程まで人間の頭部だったもの。それは今や、単なる赤黒い潰れた塊と化していた。脚に飛び散った血痕をまるで気にせず、少年は煌々と燃える瞳で、冷たくなった警察官の身体を見下ろしていた。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 指名客の相手を終えて戻ってきたゆかり。彼女と適当な話をしている間も、準は先程の嬢、あさみのことが気になって仕方がなかった。


 そもそも、この店には金周美のことを調べるために潜入したのだ。その、周美と同じ韓国人の女が店の奥にいるというのに、話を聞きに行くこともできないのがもどかしかった。


 いっそのこと、ここで警察手帳を出して、正体を明かしてしまおうか。焦りから、ふとそんな考えが浮かんだが、直ぐに気を取り直して踏み止まった。


 夜の世界での商売は、国家権力の監視を殊更嫌う。元より、グレーゾーンで商売をしているのだ。風営法に基づいた許可書を貰っているとはいえ、警察の捜査が入ることは店側の人間も良い気分にはならないだろう。最悪の場合、必要以上に警戒されて、本来であれば得られたはずの情報まで、無駄に隠されてしまうこともある。


 香取があくまで客を装って店を訪れたのは、このためだった。初動で相手に無駄な警戒心を抱かせないこと。それを解っていたからこそ、敢えて強引な手段には踏み切らなかった。


(それにしても……やっぱり、ちょっと意外だったよな。香取さんって、もっとアグレッシブに捜査するような人に見えたけど……)


 不味い酒を飲むフリだけして、準はちらりと香取の方を見やった。相変わらず、香取はキャバ嬢の話を適当に相手してかわしている。何ら焦りを見せず、本心さえ悟らせないベテランの顔。だが、そんな香取の表情が、請求書を受け取った瞬間に険しく曇った。


「おい……これは、いったいどういうことだ?」


 今まで、演技とはいえ見せていた、楽しげな様子が一変していた。請求書を持ってきた男を睨み付ける様からは、明らかに怒っているのが見て取れた。


「どういうことと申されましても……これが、この度の御勘定ですが?」


 飄々とした口調で、請求書を持ってきた男が答えた。だが、香取はそれでも納得しなかったのか、更に語気を荒げて請求書をテーブルに叩き付け問い質した。


「俺が尋ねているのは、そんなことじゃない。俺達が店に来てから頼んだもの……嬢の指名料を加えても、ゼロが一つは少ない額で収まると思うが?」


「ええ、仰る通りです。ですが、当店には別に席料というものがございまして……それを加えさせていただいた結果、こちらの金額になりました」


「ふざけるな! 席料が別に必要なんて話は、この店を案内されたときにはされていなかったぞ!」


 ドスの効いた恐ろしい声で叫びながら、香取が拳でテーブルを叩いた。グラスが揺れ、中に残っていた酒が飛び散った。


(な、なんだよ、この店……。まさか、噂に聞く『ぼったくりバー』ってやつだったのか?)


 一触即発な香取の様子に、準は何も言えなかった。客引きをしていることからして、何か後ろめたいことをしている店だろうと予測はしていた。が、警察官である自分がぼったくりの被害に遭ってしまうなど、果たしてどこまで想像できただろうか。


 一番安くて、3000円からのご案内。客引きの男は、確かにそう言っていたはずだ。もっとも、それらが全て、ぼったくりバーがカモを狩るための定番の手口であるとするならば、彼らがこの程度のことで退くはずがない。


「困りますねぇ、お客さん……。席料については、ちゃんと店の入り口に書いてあったじゃありませんか。それとも……まさか、気づかないフリして、代金を踏み倒そうってことですか?」


 案の定、男がこちらに嫌らしい笑みを浮かべながら、法外な代金の支払いを迫って来た。


 ちなみに、こういった店の場合、席料は店の入り口の最も目立たない場所に書かれていることが多い。男の言っていることは事実だが、敢えて客が気づかないであろう場所に席料を記載していることからして、故意に法外な料金を吹っかけているのは間違いない。


 さすがに、これ以上は黙って見ているのも限界だと、準は胸元に隠していた警察手帳へ手を伸ばした。だが、彼が手帳を抜き出すよりも早く、香取の方が先に動いた。


「どうやら、そちらも退く気はないようだな。ならば、少し店の裏で話すというのはどうだ? ここで言い争いをしていても、他の客の迷惑になるだろうからな」


 言葉だけ見れば店のことを気遣っているようにも聞こえるが、実際の口調は怒気を孕んでいる。それが意味することを悟ったのか、請求書を持ってきた男も、にやりと笑って頷いた。


「いいでしょう。こちらとしても、その方が助かります」


 互いに視線は逸らさない。険しい目付きでの睨み合いを続ける香取と男の後ろを、準は慌てて席を立ち追い掛けた。

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