― 参 ―
警察署の地下に足を一歩踏み入れると、不快な冷たさが律の頬を撫でた。
辺りには、事故車や回収された放置自転車等が無造作に置かれている。一見して物置か、もしくは産業廃棄物の処理場にしか見えないが、しかしここは立派な警察署の一部だった。
(うわぁ……酷い事故やねぇ……。たぶん、運転手はもうこの世におらんやろな、これは……)
フロントカウルが大きく潰れたバイクを見て、律は心の中で呟いた。物体に残された思念を霊視することはできなかったが、それでも事故者にベッタリと付着した死の臭いが漂って来たことで、運転手の末路は容易に想像できた。
重く、肩に圧し掛かるような空気を掻き分けながら、律は地下の奥に設けられた扉へと向かって歩き出した。扉の上で赤く輝いている非常灯には、『霊安室』の文字が浮かんでいる。
そう、ここは死者の眠る場所へと続く地下通路なのだ。事故車の存在を抜きにしても、辺りに死の臭いが漂っているのは当然のこと。
(さしずめ、現代の黄泉比良坂ってところやね)
神話に残る常世と現世の境目を思い出し、律はドアノブに手を掛けた。そこまで重たい扉ではなかったが、それでも律には、この場に残された死者の無念が、扉を押さえているように思えて仕方がなかった。
耳障りな金属音が響き、同時にムッとするような死の臭いが溢れ返って来た。普通の人間では感じない物まで感じてしまう体質が、この時ばかりは恨めしく思えた。
「お待ちしておりました……」
部屋に足を踏み入れると同時に声がした。服装からして、鑑識の人間だろうか。生真面目そうな男性が律を出迎え、台の上に寝かされている遺体の顔を覆った白布を取り払った。
「小松川署の秋元巡査です。本日の早朝、江戸川の河川敷で発見されました」
名乗りも上げず、男は淡々とした口調で律に告げた。無言で頷き、律も遺体へと視線を降ろす。隣に立っているのが零係の末端捜査員であることは、事前に律も知らされていた。
「死因は溺死ではなく、頚椎の損傷及び頸動脈破裂による失血です。よほど、強い力で捻じ曲げられたのでしょうね。普通だったら、こんな死に方はしませんよ……」
それこそ、交通事故にでも遭わなければと男は続けた。無論、目の前で動かなくなっている秋元巡査の死因が、そんなものではないことは承知の上だ。遺体の発見現場は元より、巡査の遺留品である曲がった警棒が発見された場所にもまた、事故の痕跡を示すものは何も残っていなかったのだから。
「ま、そんなんは、ウチらの扱う事件やったら、いつものことやろ? それよりも……なんぼ、目立って奇妙なもんとか、遺体や遺留品に残されてへん?」
男の言葉を軽く流し、律はさも当然のように聞き返した。霊的な感性を持つ者と、持たざる者の違い。自分にとって当たり前と見逃してしまうことが、男に違和感を抱かせる場合もある。その、些細な隙間から真実を手繰り寄せることが、零係に所属する者のいつものやり方だ。
「奇妙なもの、ですか? 詳しい検視報告書は、後日改めて提出させていただきますが……」
男の顔が少しだけ曇った。常識では考えられない方法で殺害されているとはいえ、秋元巡査の遺体からは、奇妙な物は見つかっていない。だが、しかし……。
「それとは別に、現場からこんな物が発見されました。正確には、橋の上で発見された遺留品から、ですが……」
そう言って、男は透明の袋を律の前に取り出した。一瞬、中には何も入っていないように見えたが、よくよく眼を凝らすと、うっすらと糸のような物が入っているのに気が付いた。
「ふぅん……見たところ、なんかの獣の毛やね。猫の毛やない……犬とか狸の毛に近い何かなん?」
「それは、私にも判りません。ただ、これは現場に落ちていたというわけでもありません」
それ以前に、そもそも動物の毛が道端に落ちていたところで、普通は気にも留めないだろう。問題なのは、あくまで体毛が発見された場所。いや、この場合は、付着していた場所と言った方が正しいのかもしれない。
男の話では、体毛が発見されたのは、折り曲げられた警棒からとのことだった。伸縮式の警棒の隙間に挟まっていたものを、鑑識が発見して保管しておいたのだ。
「なるほどなぁ……。警棒のシャフトの隙間に挟まってたっちゅうわけやね。なかなかオモロイことんなってきよったでぇ……」
律がにやりと笑う。勿論、本当におかしくて笑っているのではない。
香取が自分をここに寄越した理由。それが、ほんの少しだけ解ったような気がした。現場で発見された妙な代物。それに違和感を覚えることはあっても、霊感のない香取では、それ以上の何かを見つけることは難しいということだろう。
もっとも、いかに律といえど、ここで毛を見たからといって、何かが瞬時に解るわけでもない。ただ、透明の袋越しにも漂って来る微かな匂いから、飢えた獣のようなそれを敏感に感じ取ってはいたのだが。
「とりあえず、毛についてはそっちに任せるわ。DNA鑑定かけるとして、どんだけ時間が必要になるん?」
「早くて二日……いえ、三日といったところでしょうか? それでも、判るのはあくまで、何の動物の毛かということだけですが」
「ああ、それで構へんよ。どうせ、使うちゅうたって、あくまで参考までやからね。少なくとも、なんや普通の生き物の毛でないことくらい、ウチかて解っとるねん」
最新の科学捜査でさえも、向こう側の世界の住人が相手では、あくまで参考程度にしか成り得ない。どこぞの幽霊退治映画と現実は違うのだと、それだけ言って、律は改めて台の上に寝かされている秋元の遺体に目をやった。
生前の肉体であれば、霊傷から死因を特定することができたかもしれない。霊的な存在による攻撃は、人間の肉体ではなく魂そのものを削るからだ。その削られ方、削られた部位によって、相手の能力や目的、行動パターンを探ることもできたかもしれない。
だが、当然のことながら、目の前の秋元は既に冷たい肉の塊になっていた。生を奪われ、魂を失ってしまった肉体は、律からしてみればヒトの形をしたタンパク質の塊に過ぎない。原因こそ不明だが、それでも頚椎骨折という死因がはっきりしている以上、今の律に死体から見つけられることは、あまり残されていなかった。
「ほな、鑑定の方は任せたで。ま、ウチはいつ大阪に帰らなあかんとも限らんからな。できれば連絡は、雄作ちゃんの方にお願いするわ」
「判りました。では、結果は香取警視正を通してご報告させていただきます」
警視正。その部分を殊更強調して、男は律に言った。公安四課の一部でしかない係に勤める者の階級としては、あまりに高過ぎる階級だった。
通常、公安の警察内部において、最高の階級は警視監とされている。公安部の部長に就く者の役職であり、その下に警視長と警視正が続く。どちらも参事官を任される階級であり、その内の一人は絶対にキャリア組出身であることが決まっている。
公安の一部署である以上、零係も本来であれば、この原則に反することはないはずだった。課長や隊長は警視で、係長は警部。主任を警部補が勤め、それより下の係員は、巡査部長か巡査である。末端の捜査員の階級は、交番勤務の警察官と大差ないのだ。
だが、公安部の一般的な常識に反し、零係の人間に与えられた階級は、どれも常識の範疇を越えていた。所轄の警察署を含め、各地に存在する連絡員達の階級こそ低いが、主力の人間には超法規的措置とも呼べるほどに、高い階級を与えられている。
いつ、どこで、どのような事件が起きたとしても、その現場を抑えて階級の枷に縛られず動けるように。そのような配慮から、係長の香取に与えられた階級は警視正。殉職してもいないのに二階級特進とは、死霊を相手にする人間だけに、なかなか笑えない冗談を含んでいる。
ちなみに、律に与えられている階級は、一つ下の警視だった。無論、それとて一般の警察官からすれば雲の上のような存在であることに違いはなく、その辺の交番に勤務する制服警官は元より、所轄の刑事でさえ軽々しく意見できる立場ではなかった。
(ま、階級なんて、所詮は飾りみたいなもんやけどな)
ふと、そんなことを心の中で呟きながら、律は一足先に部屋を出た。どれだけ高い階級にあろうと、人間、死ぬ時は死ぬ。秋元巡査が亡くなったのは、その階級が低かったからではない。何の霊的な力も持たない警察官が人間の常識を越えた化け物を相手にした場合、待っているのは例外なく、変死という名の殉職だけだ。
(そういう意味では、あの新人君は、なかなか強運の持ち主やったのかもしれへんな。こりゃ、意外と鍛えたら、なかなか使い物になるかもしれへんわ)
先日、零係に新しく配属された準のことを思い出し、律はにやりと笑みを浮かべた。霊的な存在と戦うことを考えた場合、今の彼にできることは少ない。が、普通の人間に比べても高い霊感の持ち主である以上、今後の鍛え方次第では化けるかもしれないと。
今は香取と一緒に捜査をしている最中だろうが、機会があれば、自分も彼を捜査に同行させてみようか。そんなことを考えつつも、律は徐にポケットから携帯電話を取り出した。
「さて……。それじゃ、ウチはウチで、秋元巡査が殉職したっちゅう現場も見とかなあかんね。妙な毛も見つかったっちゅうことやし……市川のおばちゃん、元気しとるとええけどなぁ」
登録されていた番号を呼び出して、慣れた手つきで電話を掛ける。だが、相手は外出でもしているのか、無機的な呼び出し音が繰り返し聞こえて来るだけだった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
駅の改札を抜けて夜の街に出ると、そこには下町独特の酒の香りが漂っていた。
東京、上野地区。JRの線路を挟んで東側には、上野公園を中心に国立の博物館や多数の寺が立ち並ぶ。その一方で、西側には昭和通りに添うようにして、高校や大学の施設からホテルまで、実に雑多な建物が立ち並ぶ。
そんなビルとビルの隙間、駅から出て南へ伸びるアーケード街には、未だ昭和の雰囲気を漂わせる下町の飲み屋が並んでいる。
昔ながらの立ち飲み屋。安い酒とつまみを求め、労働者達が集まる場所。しかし、それは既に過去のものとなって久しいのだろうか。今となっては、このような形の飲み屋も珍しく、むしろレトロな空気を味わいたい人間達が集まる観光地と化していた。油臭い工場の制服に身に包んだ者の姿は少なく、お洒落なファッションを纏った女子大生や、休暇で日本を訪れた外国人の姿も数多い。
それら、赤と黄色に彩られた街の光の間を抜けて、香取と準は大通りから少し離れた場所にある、煌びやかな建物を目指し歩いていた。陽が落ちるには少しばかり早い時間ではあったが、周囲の店は、早くもアフターファイブを楽しむ若者達の姿で溢れ、どこも満席に近い状況だった。
「ここか……」
手帳に書き込まれた何かと建物の看板を見比べて、香取が低い声で呟いた。看板にはピンクのネオンが『Pinky・Dream』という文字に輝いており、そこがどのような店なのかは、足を踏み入れるまでもなく理解できた。
「あの、香取さん?」
少しばかり恐縮した様子で、準は香取に声を掛けた。
「なんだ? 言っておくが、これは捜査の一環だぞ」
後ろを振り返ることもなく、香取が準に答える。反論は許さない。そんな態度を言葉から察し、準はそれ以上、何も言うことができなかった。
(はぁ……。それにしても……捜査の一環とはいえ、まさかこんな店に入ることになるなんてなぁ……)
溜息混じりに顔を上げ、改めてピンクのネオンサインを見る。目の前の店は、誰がどう見てもキャバクラだ。生まれてこの方、夜の店になど縁のない真面目な人生を送って来たはずの自分にとっては、足を踏み入れるのも躊躇したくなるような場所である。
それでも、これも仕方のないことだ。そう、自分の中で割り切って、準は大きく息を吸った。
鴬谷のラブホテルで発見された女性の変死体。亡くなった韓国人留学生の金周美について調べる内に、辿り着いたのがこの店だ。
彼女の通っていた大学の知人や、それから何人かの知り合いに話を聞いたところ、周美はどうやら、キャバクラでバイトをしていたらしい。学費を稼ぐためか、もしくは交遊費を集めるためか。恐らく、その両方なのかもしれない。
最初、その事実を知った準は驚いたが、香取は特に慌てる素振りも見せなかった。周美の変死体が発見された場所が場所だけに、そういった産業に関わる何かと繋がっていると踏んでいたのだろうか。
自分から好んで、夜の店で働く女性達の気持ち。残念ながら、準にはそれが解らなかった。もっと、色々と人生の経験を積んで、男としての視野を広げれば、いずれは解る日が来るのだろうか。そんな考えが浮かんで来たところで、突然、黒服に身を包んだ若い男が、香取と準の二人に声を掛けて来た。
「あ、お兄さん達! もしかして、どこか飲めるお店とか探してる?」
この店の店員だろうか。妙に気さくでノリが良く、笑顔が無駄に明るい。髪は先端まで金色に染まっており、日焼けサロンで焼いたのか、肌の色が不自然なまでに黒い。
「まあ、そんなところだが……生憎、この辺は不案内でな。できれば、いい店を紹介してもらえると助かるんだが……」
落ち着いた口調で、香取は何ら不自然な様子も見せず男に告げた。お世辞にも『お兄さん』と呼べる年齢ではないが、相手に合わせたということだろうか。
「そういうことだったら、是非ともうちの店へどうぞ! うちは可愛い子も揃ってますし、3000円からでご案内できますよ!」
隣で呆気に取られる準を余所に、客引きの男は作り物めいた笑いを浮かべ、目の前の店へと案内を始めた。こちらが頼んでもいないのに、男は自分の店のセールスポイントを執拗に売り込んで来る。
典型的な客引きだ。悪質な場合は取り締まりの対象になるが、今は香取も準も、風営法の違反者を検挙しに来たわけではない。
男に案内されるままに、二人は『Pinky・Dream』の看板が輝いている店の扉を潜った。薄暗い店内の奥からは、談笑する男女の声と共に、聞いたこともないアーティストの音楽が熱気と混ざって流れて来た。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
庭の池で鯉が跳ねる音を聞きながら、律は古めかしい日本家屋の一室で、湯呑みに注がれた茶を啜っていた。
風鈴が揺れる音が耳に響き、どこからか涼しげな風が運ばれて来る。時刻は、夜を迎えたばかり。しかし、それを抜きにしても、都会を覆う熱気とは対照的な空気が流れていた。それこそ、ここが同じ東京の、それも23区内にある場所なのかと疑いたくなるほどに。
「ふぅ……。ほんま、遅くに申し訳ないで。忙しいんやったら無理せえへんで、明日にでもウチに連絡くれれば良かったんやで」
軽く溜息を吐いてから、律は湯呑みを置いて、目の前に座っている初老の女性に言った。
「いえいえ。折角、律さんが大阪からいらっしゃったのです。ご挨拶が遅れて、私の方こそ申し訳ございませんわ」
湯呑みに茶を入れ直し、初老の女性は落ち着いた口調で語る。白髪と皺の目立つ顔をしていたが、しかし気品は失っていない。紫色の着物に身を包んだ佇まいからは、若き日の美しさが思い起こされるほどだ。
「生前、父はあなたのお父様に、それはそれはお世話になりましたもの。我が市川家が、こうして存続できているのも、一重に律さんのお父様のお陰でございます」
ともすれば恐縮するように、女性は律に軽く頭を下げた。市川蒔絵。それが律の知っている、この女性の名前だった。
蒔絵曰く、彼女の父は、生前に律の父の世話になったことがあるという。詳しい話は、律も知らない。だが、律が既に高校生くらいの歳の頃から、蒔絵との関係は変わっていない。
恩人の息女。ただ、それだけの理由で、蒔絵は律を自分の娘のように溺愛した。否、溺愛という言葉は、この場合は正しくないかもしれない。蒔絵の律に対する態度は、まるで使用人が主人に接する際のそれか、もしくは神仏に対する敬いのようなものに近かった。
正直、腫れ物に触るような扱いをされるのが、律はあまり好きではなかった。が、それでも、今は気にしている場合ではない。彼女は別に、蒔絵の顔を見るためだけに、この家を訪れたわけではない。
「積もる話があるのは解るんやけど、ウチもこう見えて、なかなか忙しいねん。悪いけど、先に要件だけ言わせてもろうて構へんか?」
何ら飾ることなしに、単刀直入に律は尋ねた。自分でも無遠慮だとは思ったが、そもそも飾り立てする際に使うような言葉を、律はあまり知らなかった。
「ウチの仕事の関係で、ちょっち拙い案件があってな。詳細は話せへんのやけど……おばちゃんとこの、茶々丸を貸して欲しいねん」
「茶々丸を? それは構いませんが……」
突然、律の口から飼い犬の名を出され、蒔絵がしばし戸惑った表情を見せた。
茶々丸は、この市川家で飼われている秋田犬だ。気性が激しく、番犬としては申し分ないのだが、時に人間以外の者にも吠えかかって行くのが玉に傷である。無論、その対象には、既にこの世の生を終えてしまった存在も含まれている。
警察犬ならぬ、霊犬といったところだろうか。当然、心霊事件の捜査を担う零係であっても、そんな犬をホイホイと手元に置けるはずもない。だからこそ、気安く借り受けることも難しいことは、律も十分に承知していた。
「もち、タダでとは言わへんよ。それに、危ないことも、させるつもりないで」
最後の方は、特に念を入れて律は言った。彼女は知っているのだ。特殊な犬であるか否かに関係なく、蒔絵が茶々丸をいたく気に入り、可愛がっているということを。
風鈴の音が止み、しばしの間、静寂が場を支配した。風が止まったことで、部屋には微かに湿気を含んだ空気が戻ってくる。が、庭の鹿脅しが鳴ったところで、蒔絵が静かに口を開いた。
「解りました……。律さんの頼みとなれば、聞かないわけにはいきませんものね」
「ほんま、忝いわ。けど、今回の件は、どうしても茶々丸の力を借りへんと難しいねん」
警察署の霊安室に寝かされた秋元巡査の遺体。その横で捜査員から見せられた毛のような物体のことを思い出し、律は改めて蒔絵に頼んだ。
(警棒から見つかった毛……。ウチの勘が合っとるなら、あの手の輩は必ず現場に臭いを残すと決まっとる……)
警邏中の巡査を襲い、恐るべき力で死に至らしめた存在は何か。正体こそ掴めていなかったが、それでも律の頭の中では、その犯人像がおぼろげながら固まりつつあった。