― 序 ―
東京、江戸川区。
発展を続ける都心部とは対照的に、そこは東京23区の中でも、下町の情緒を色濃く残す場所だった。
街の片隅にある駄菓子屋には、今日も近所の小学生たちが集まっている。商店街にあるのは、和菓子屋の老舗だけではない。手作りの漬物や佃煮を販売する店が、大型店舗の進出にも負けずに暖簾を守り続けている。
昼時になれば、駅前の定食屋は肉体労働者達で溢れ返った。土曜や休日になると、ここに運動部の学生達の姿も加わる。決して上品な空気の漂う場所ではなかったが、そこには確かに、生きた人間達の生み出す一種の趣のようなものが感じられた。
最近はこれに加え、カレー屋やインド料理屋の店舗も増えている。居住する外国人の大半が、インド人であることが理由だろう。90年代は初頭には100人にも満たなかった彼らの数は、この数年で爆発的な増加を見せ、今では2000人を下らない。
下町にも、徐々に変革が訪れていたのだ。それは、逃れられない時代の波。人が歴史を紡ぐ上で、決して避けることができないもの。そして、それらの変革は時として、正と負の双方を街へと運んで来る。
河沿いの道を吹き抜ける風を受けながら、秋元勝は目の前に奇妙な光景が広がっていることに気が付いた。
河に掛かった橋の上。そこに横並びになっていたのは、明らかに違法な改造を施されたと思しきバイク。そして、ド派手な刺繍が施された上着を身に纏った、いかにもガラの悪そうな若者達だった。
(暴走族の集団か? まったく、懲りもせずよく……)
思わず、辟易したような溜息が零れる。特攻服を着て路上を暴走するような学生は姿を消して久しかったが、暴走行為に快感を覚える者がいなくなったわけではない。
驚くべきことに、最近の暴走族は、自ら警察を呼ぶことが多いのだ。なぜ、そんなことをするのかといえば、それは実に下らない理由からだった。
速度制限を無視した、本気のカーチェイスを楽しみたい。それが彼らの持つ理由だった。自ら警察に通報し、集まって来た交通課の白バイやパトカーから逃げ回ることでスリルを得る。通称、リアル泥警とかポリ鬼などと呼ばれるそれは、今や秋元の配属された区内でも、決して珍しいことではなくなっていた。
時代も嫌な方へと変わったものだ。自分が学生だった頃を思い出し、秋元は再び溜息を吐いた。昔も今と同じように不良はいたし、下手すれば今よりも性質の悪いのもいたかもしれない。
金属バットや鉄パイプで校舎を破壊する者、派手な化粧をして煙草やシンナーに手を出す者、果ては教師に暴力をふるい、学校に火を放とうとする者まで。80年代、日本を震撼させた校内暴力に比べれば、直接的な暴力による問題は、少なくとも教育現場からは影を潜めたといって久しかった。
だが、時代の変革に伴って、彼ら不良も変化した。それも、稚拙な思考回路はそのままに、しかし携帯電話やインターネットの存在により、狡猾で陰険な存在へと姿を変えた。
今や誰でも簡単に欲しい情報を得られ、同時に発信することのできるようになった時代。それは不良達に中途半端な知識を与え、新たな違法行為を助長する機会も与えてしまった。
例えば、先のポリ鬼にしても、携帯電話が普及する前は不可能だった遊びだ。警察を呼び出すために、わざわざ公衆電話の前に集まって暴走行為の準備をする。そんな面倒臭いことをするくらいなら、街中を気が済むまでカッ飛ばした方が清々したであろうから。
少年達の関わる犯罪が、徐々に陰湿で始末の悪いものに変わっている。詳しいことは秋元にも解らなかったが、よくない流れであることは感じ取っていた。
少年法を盾に、臆することなく警察に刃向う者が現れた。不良の多い高校では、既に煙草程度では注意しないし、できない。インターネットを経由して、やろうと思えば未成年でも危険な脱法ハーブが容易に手に入る。もしくは、鬱病と偽って精神科医から抗鬱剤を処方してもらい、それをドラッグ代わりに用いる者もいる。掛け算の九九も満足に言えない癖に、そういったことや屁理屈を考えることだけには、妙に頭の回る連中が後を絶たないと聞く。
そんなことを考えながら、秋元は橋の手前で自転車を止めた。同時に、無線を通じて応援を頼んでおくことも忘れない。いざ、何か問題が発生すれば、自分一人で抑えきれるとは思っていなかった。
一発殴って、鑑別所送りにして終わりにできれば、どれだけ楽なことだろう。無論、そんなことはできないし、意味もないことは秋山も知っていた。
「こら、君達! そんなところに集まって、何してるの?」
橋の上に屯していた不良達に、秋山は毅然とした態度で懐中電灯を向けた。普通なら、ここで文句を垂れながら、こちらに悪態を吐いて突っかかって来るはずだ。だが、彼らは悪態を吐くこともなく、ただ厭らしい笑みを浮かべながら、ヘラヘラとした表情を向けて来るだけだった。
薄気味悪い。最初に抱いた感情は、それだった。特に、リーダーと思しき大柄な少年の目が危険だ。シンナーか危険な薬でもやっているのか、どこか焦点が合っていない。
拙い、と直感的に思った。相手がトリップして幻覚でも見ていた場合、刃物を持って見境なく暴れ出すかもしれない。
応援が到着するまで時間を稼ごう。そう思って、秋元は腰の警棒に手を伸ばしつつ、不良達との距離を取った。
河の水面を撫でる風が、雲を運んで来たのだろうか。雲に隠され、月明かりが絶たれた。橋を照らすものが街灯の明かりだけになり、辺りが少しだけ薄暗くなる。完全な闇には程遠かったが、それでも今まで見えなかったものが、目立つようになったことには変わりなかった。
「……!?」
間合いを測る脚を止め、秋元はそれ以上声が出なかった。
グループのリーダーと思しき少年の瞳が、宵闇の中で青白く輝いている。光の加減で、そう見えるのではない。カラーコンタクトの類とも違う。まるで、燃えている燐のような輝きを、瞳の中に湛えている。
今まで感じたことのない不気味さを覚え、秋元は無言のまま腰の警棒に手を伸ばした。だが、次の瞬間、彼が反応するよりも早く、目の前の少年が飛び掛かって来た。
「何をするか!」
咄嗟のことに、避ける暇もなかった。振り下ろされた腕を掴み、投げ飛ばそうとしたが、反対に秋元の方が勢いに負けて橋の上に転がされた。
腰の警棒を引き抜いて、秋元は少年を取り押さえようとした。しかし、こちらの動きを全て見切っていたかのように、少年は繰り出された警棒の一撃を軽々と片手で受け止めて見せた。
「な、なに……うおっ!?」
身体が宙を舞う感覚に、秋元の目が思わず丸くなる。少年は掴んだ警棒諸共に秋元の身体を持ち上げて、そのまま橋の上に叩き付けたのだ。
勝ち誇ったような薄笑いを浮かべ、少年が秋元の前に何かを放って捨てた。酷く捻じ曲げられた棒状の物体。それが、先程まで自分が握っていたアルミ合金製の警棒だと解り、秋元は自分の目を疑った。
喧嘩慣れしているというだけでは、あまりに説明のできない力だった。身体に走る痛みを堪えて立ち上がろうとしたが、それよりも先に、少年が秋元の前に転がっていた制帽を踏みつけた。
「……死ねよ、おっさん」
少年が、秋元の頭に手を伸ばす。五本の指が頭に直接食い込んだところで、秋元は声にならない悲鳴を上げた。
指の食い込んだ場所から、赤い血が流れ出して秋元の制服を染めて行く。万力で頭を締め付けられているような痛みに、出そうとした声まで枯れて行く。
「おらぁっ!」
プラスチック製の玩具を投げるかの如く、少年は再び秋元の身体を放り投げた。指先を離す直前、軽く手首を捻って回したことで、秋元の頭もまた不自然な方向へと捩れて曲がった。
深夜の河に水音が響く。風が勢いよく橋の上を吹き抜けて、雲の切れ間から月が再び顔を出す。
気が付くと、そこには誰もいなかった。応援の警官達が近くの交番や警察署から集まって来た時には、橋の上には踏み潰された制帽と、醜く曲がった警棒の残骸だけが転がっていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
金属製の書棚が立ち並ぶ無機的な部屋で、寺沢準は山積みにされた捜査資料の山に目を通していた。
警視庁公安部第四課零係。通称、死霊管理室と呼ばれる影の部署。数日前、この場に配属されたばかりの準にとって最初の仕事は、今までに零係の捜査員達が『検挙』して来た、数々の事件について知ることだった。
様々な色のカラーファイルに納められた捜査資料の束を、準は流すようにしてめくり、読んで行く。その内容は、つい先日まで一般の警察官でしかなかった準にとっても、目を疑うようなものばかりだった。
『首なしライダー』、『こっくりさん』、『口裂け女』などの典型的な怪談話や都市伝説の数々から、廃屋の探索に出掛けて発狂した大学生グループの話や、果ては洋の東西を問わずに集められた怪物、怪人の話まで。捜査資料というよりは、世界都市伝説・怪談全集と呼んでも差支えないような内容が、どのファイルにもぎっしりと納められていた。
これらは全て、今までに零係が関与して来た事件の詳細だ。無論、その全てが真実というわけではなく、中には見間違いや単なる悪戯とされているものも多かった。
所詮は下らない噂話の類。本当に零係が動く必要のあった事件は、全体の1%程度でしかないだろう。しかし、それでもと準は思う。
この日本だけでも、警察が関与しなければならない事故や事件、犯罪は、それこそ山のように起きている。当然、その中には未解決とされる事件もあるだろう。そして、それらの更に1%が、実際に現代の科学では説明のつかない、不可解な現象が絡んでいるのだとしたら。
(実際は、『本物』の絡んだ数だけでも相当なものになるよな……)
自分で考えながら、準は背中を冷たいものが走るのを感じていた。マスコミを通じて世間に公表されているこの内、果たしてどこまでが真実なのか。この世の理の裏に存在する世界を知ってしまった今、数日前までと同じような生活を送るのは難しいのかもしれない。
何とも言い表せない靄のようなものが、彼の心の中でくすぶっていた。気が付くと、指先は次のページを求め、捜査資料をめくっている。内容だけ見れば、何の信憑性もないオカルト話の類だというのに、そこに惹かれ、ともすれば魅せられている自分がいる。
ページをめくる指先が固い物に触れたところで、準は思わず我に返った。捜査資料の一部として保管されていた犠牲者の写真。猟奇殺人犯に殺されたとしか思えないグロテスクな被害者の姿に、思わず顔を顰めた時だった。
「精が出ますね、新人君。配属されてから直ぐに勉強とは、なかなか感心しますよ」
突然、背中を叩かれて、準は声を上げて椅子から転げ落ちた。驚き過ぎではないかと思われるかもしれないが、しかしこの場合は仕方がない。
準の肩を叩いた者は、その気配を何ら悟らせることなく、彼の側まで近付いていたのだから。いくら資料を読むのに集中していたとはいえ、それこそ凄腕のスパイか忍者を思わせる足取りで。
「ひ、氷川さん……。脅かさないで下さいよ……」
椅子にもたれかかる形で、身体を起こしながら準が言った。しかし、準の肩を叩いた眼鏡の青年は、何ら悪びれる様子もなしに、穏やかな笑みを浮かべているだけだったが。
氷川英治。クラッキングに関する技術を始め、コンピュータを使わせれば彼の右に出る者はいないとされる、零係きっての電子の申し子。その卓越した手腕を活かし、捜査に必要な情報を誰よりも早く入手する能力は、零係になくてはならない存在だ。
だが、それは彼の持っている能力の、ほんの一部でしかないと準は知っていた。いや、実際は知っていたというよりも、思い知らされたといった方が正しいか。
氷川の持つもう一つの力。それは自らの放つ気配を極限まで消すことで、誰にも存在を悟らせなくするという能力だ。しかも、生きている人間は言うに及ばず、なんと幽霊に対しても効果があるという。
配属されたばかりの準を、氷川はこの力を使って今のように弄ることが多い。本人は冗談のつもりかもしれないが、仕掛けられる度に寿命が縮みそうになる感覚は、どうしたって慣れるものではなかった。
氷川自身が多くを語らないこともあって、準は彼が、どのようにしてこれらの力を身に付けたのかは不明だった。彼曰く、『自らの持つ電気の膜を一時的にクリアな状態にする』とか何とか言っていたが、準にはまったく理解のできない話だった。
電影の氷川。準がこの場に配属されてから聞かされた、氷川の二つ名のようなものだ。無論、普段は彼が自らそれを名乗ることもなく、電影の意味も本来の『稲妻』という意味とはかけ離れたものなのだろうとは思う。
ふと、部屋の片隅に目をやると、そこには競馬新聞を大きく広げたまま、豪快な姿勢で椅子にもたれかかっている女性がいた。
(印藤さんは……どうせ、また次のレースの予想に一生懸命なんだろうな……)
心の中で呟きながら、準は思わず溜息を零した。
この零係には、彼の他に三人の捜査官がいる。一人は、先程の氷川英二。もう一人は、この零係を取り仕切るベテラン、香取雄作。そして……最後の一人が、目の前で怠惰な時を満喫している女、印藤律だ。普段は関西方面を中心に活動しているようだが、要請があれば香取の下へと顔を出す。
そんな律であったが、厳格な香取や真面目で正確に仕事をこなす氷川と比べ、彼女の勤務態度は新人の準から見ても酷いものだった。
まず、服装が警察官のそれではない。くたびれたシャツに穴の開いたジーンズという、どう考えてもラフ過ぎる格好。化粧気はないが、恐らくは最初からするつもりがないのだろう。薄茶色の髪を後ろで適当に縛っているだけなことからも、彼女が世間一般の女性に比べ、外見を気にしない部類の人種であることを窺わせる。
他の者達が仕事をする傍ら、律は机の上に競馬新聞を広げて読み耽っていることが多かった。たまに出掛けるとなれば、馬券を買いに行くかパチンコに行くかだ。どうやら、それなりに強いらしく、そこそこ勝っては色々と戦利品を持ち帰って来ていた。
正直、準は律のことが苦手だった。強面な香取のような人間は、生活安全課に所属していた頃から何人か見て来たから良い。だが、律のような女を捨てているタイプの人間は、どう接して良いのか解らず距離を置いていた。
だが、それでも、彼女もまた歴とした零係の一員だ。難波の呪縛師の二つ名が示す通り、彼女は霊的な存在を束縛して封印することを得意とする。この零係において、極めて数少ない本物の霊能力を持った人材。だからこそ、こんな酷い勤務態度であったとしても、お目こぼしを受けているのかもしれないと準は思った。
重たい金属質の扉が開く音がして、準はふとそちらに顔を向けた。ソフト帽を被った体格の良い男。捜査から戻った香取が目の前に立っていた。
相変わらず、他人を近寄らせないオーラを纏った男だ。思わず息を飲んで何も言えなくなった準に代わり、捜査資料と思しき紙の束を片手に氷川が挨拶した。
「お帰りなさい、香取さん。新しく見つかったミイラについて、何か情報は?」
「現状では、鶯谷の事件との関連性は不明だ。窓ガラスが大きく破損していたことと、現場に男のミイラが残されていたことだけは同じだな。ただ……」
言葉を濁らせる香取。それの意味するところを知って、氷川も自然と眉根を吊り上げながら眼鏡の位置を直して訪ねた。
「何か、よくない状況に?」
「確証は持てん。しかし、現場に残されていたのは男のミイラだけだ。女の遺体の方は、今回は見当たらなかった」
女がいない。ただ、それだけのことだったが、香取の言葉は氷川の心に薄気味悪い何かが進んでいることを思わせるには十分だった。
以前、鶯谷で発見された遺体は、男と女の両方が揃っていた。男性の方は完全にミイラ化、女性は腹部が酷く損傷した状態での失血死。
状況としては似ている。違いは女の遺体の有無のみ。だが、ラブホテルが何をする場所で、どのような者達が利用する場所なのかを考えれば、それが極めて奇妙だということに、気が付かない者はいないだろう。
男だけが死に、女が消えた。ならば、その女が男をミイラ化させた本人なのだろうか。だとすれば、いかなる方法で。疑問は尽きず、同時に得体の知れない怪物が夜の街を跋扈していることを仄めかす現場の状況が、香取達の不安と焦りを否応なしに煽っていた。
無言のまま、氷川が唐突に香取へ資料の束を手渡した。受け取った香取はしばらくの間、同じく無言のまま目を通していたが……やがて、押し殺すような重苦しい口調で、紙をめくる手を止めて氷川に告げた。
「鴬谷のホテルで見つかったミイラの男は、運送会社の従業員か。だが、女の方は……」
「金周美。韓国人留学生ですね。何であんな死に方をしていたのかは、未だもって解りませんけど」
しばしの沈黙。度重なる厄介事を前に、二人とも冗談抜きで胃が痛くなるのを感じていた。
心霊事件の可能性がある事案は、ただでさえ扱いを慎重にせねばならない。だが、そこに外国人の被害者が絡んで来ると、事態は途端に面倒なことになる。
宗教が形骸化して久しい日本と違い、海外には未だ根強く信仰の力を持って世界に影響を及ぼす者達がいるのだ。それらの存在が介入して来た場合、香取達だけで事態を収拾することは難しい。場合によっては幽霊よりも厄介な者を相手にせねばならず、そうなれば事件を隠蔽することは一層困難になる。
今回の被害者は、一見して宗教絡みの事件とは関係がなさそうなのが救いだった。が、それでも油断はできない。単なる旅行者が事故で亡くなったのとは違い、留学中に学生が変死したとなれば、騒ぎが大きくなるのは素人でも解りそうなものだ。
張り詰めた空気の中、律が大きく両腕を上げて欠伸をした。
「なんや、ま~た海の向こう絡みの事件かいな。心霊現象も、いよいよ国際化っちゅうやつか?」
場の空気を和ませようとしてのことだろうか。もっとも、その程度では香取も氷川も、緊張した面持ちを崩そうとはしなかった。