金木犀の残り香に
空の色が淡さを増し、陽光が透き通り始める、十月。五年間の留学を経て帰国した彼を迎えたのは、許嫁の訃報であった。
聞けば、先日一周忌を迎えたばかりだという。
半ば家を追い出されるような形で焼香に訪れた彼を、許嫁の両親は温かく迎え入れ、彼女が風邪を拗らせて呆気なく息を引き取った事、最後まで彼の帰国を待ち侘びていた事などを、寂しげに微笑みながら教えてくれた。
心配りの行き届いた持て成しに、却って居心地の悪さを感じたのは、彼の胸にある悲しみの情が、義務の範囲を一歩として出ていなかった為であろう。
帰り道、彼宛に書かれたという彼女の手紙を弄びながら、彼は彼女の姿を思い浮かべようとしてみた。
ほっそりとした輪郭と、可憐という表現が許される程度の顔立ちをしていたように思う。しかし、良く言えば慎ましやかな、悪く言えば地味な印象がその姿に紗をかけて、明確な像を結ぶ事は出来なかった。
片手で間に合う程度しか顔を合わせた事が無いとはいえ、随分と薄情な事だ、と彼は小さく苦笑して、手紙を懐に押し込んだ。
彼は帰宅すると、親が待ち構えているであろう玄関を避け、庭を回り込んで濡縁から直接己の部屋へと上がり込んだ。そのまま、畳の上にごろりと仰向けになる。
悼ましげな表情を顔に貼り付け、当たり障りのない悔やみの言葉を絞り出すのに、すっかり気疲れしてしまった。
着物が皺になってしまうな、と埒もない事を頭の片隅で考えたが、疲労は心地よい重みで彼の身体を畳に押し付ける。
僅かな逡巡の後、彼はその誘惑に抵抗する事を諦めて、目を閉じた。
幾つかの快い夢の後に、ぶるりと身を震わせながら彼は目を覚ました。濃い夕闇が、部屋を、庭の景色を、空を侵食している。
肌寒さに羽織の前をかき合わせながら上体を起こした彼の鼻先を、涼やかでいながら甘さを孕んだ香りが掠めた。金木犀の香りだ、とすぐに気付く。
一体何処から。そう思って彼は首を廻らせ、──そして彼女と、目が、合った。
どうして、ここに。
驚きに目を見開き、腰を浮かせた彼とは対照的に、彼女は端然として縁側に座っていた。
次第に深まる闇の中で、尚も色鮮やかな珊瑚色の唇が、音もなく彼の名前を象って、艶やかに微笑む。甘やかな香りがゆらりと揺蕩って、彼は誘われるように彼女との距離を詰め、手を伸ばした。
彼女は座したまま、彼の瞳をじっと見返していた。闇よりもなお深いその眼差しの奥に、確かな熱が宿っているのを見付けて、彼は衝動のままに口付けた。
彼女の膚から金木犀の香りが色濃く立ち昇り、快い酩酊感を伴って彼の胸を満たす。ああ、もっと。
彼は陶然として彼女の首筋に顔を埋め、畳の上に組み敷いた。彼女は抵抗しなかった。
己までが、彼女の香りに染められてしまったかのようだ。彼女の柔らかな重みを感じながら、彼はそう思った。
しっとりと汗ばんだ白い背中に労りを込めて指を這わせると、彼の胸に頬を寄せる彼女が身じろぎ、顔を上げる。先程までの熱情の余韻が滲む瞳と、目が合った。
どうして彼女はここにいるのだろう。気怠い満足感に浸る彼の思考に、ゆっくりと最初の疑問が浮上した。
家族ぐるみの狂言に付き合わされたのか、それとも──。だが、彼はすぐに考えるのをやめてしまった。無粋な疑問で、この夢のような陶酔感から醒めてしまうのは、耐え難かった。
今、彼女がここにいる。膚を寄せ合い、彼の体温に彼女が交わり、彼女の香りに彼が染められる。それだけで充分だと彼は思った。
この感情を、何と表現するのであったか。そう考えて、彼の口許から、一つの言葉が転がり出た。
「──愛している」
彼女は目を瞠った。その言葉を吟味するような間が、暫し。
そして彼女は、花が綻ぶような微笑みを浮かべた。
「……嬉しい」
その瞬間、彼女の纏っていた香りが、ぶわりと音を立てるほどに強く、広がった。
呼吸すらままならない濃密な香りに驚く彼の腕の中で、彼女の身体がさらさらと音を立てて、崩れ落ちる。快い重みは呆気なく消え去り、無数の金木犀の花が、彼の身体を埋めた。
肺腑の深くまで吸い込まれた狂暴なまでに甘い香りは、血液に乗って彼の身体の隅々に廻り、神経毒のように四肢を麻痺させてゆく。それは不思議と、甘美な感覚であった。
このまま、骨の髄までこの香に浸され、橙色の海に溺れてしまえるなら。そう祈るように彼は思って、ゆっくりと瞼を伏せた。
深い深い所まで沈んでいた彼の意識に最初に触れたのは、何処か遠くから、か細く響いてくる虫の聲だった。
鳴いては絶え、絶えては再び鳴くその音色を追いかけて、彼は睡りの海から音もなく浮上した。
最初に漆黒の闇が、次いで開け放たれた襖の向こうの立待月が目に入る。どこか物足りなさを感じさせるその月をぼんやりと眺めながら、彼は緩慢な動きで身を起こした。
夢というにはあまりに鮮やかな記憶の、その残滓を求めて彼は視線を彷徨わせた。けれど、殺風景な彼の部屋の中には、温度もなければ、残り香さえも感じられなかった。
ふと彼女の手紙の存在を思い出して、懐を探る。かさりと渇いた感触。そこから零れ出てきたのは、手紙ではなく、枯れて錆色に変わり果てた金木犀の花々であった。
彼は花を掬い上げて、そっと顔を寄せてみる。しかしそれは、既に香りすらも抜け落ちた、只の花の亡骸に過ぎないようであった。
置いて行かれたのだ。彼はそう思って、かさかさに渇いた金木犀の花に顔を埋めた。滲んだ涙が花を濡らす。けれどその涙が、花を甦らせる事は無かった。彼女が、最早彼の元へと戻っては来ないのと、同様に。
透徹とした夜風が部屋へと滑り込む。彼の手から零れ落ちた花を、風は無言で攫っていった。