第六話
帰る前に、榊さんは俺に、何度も何度も「絶対に誰にも話さない。」と約束させた。
俺はもちろん、真面目に約束を守るつもりだ。
先に電車を降りる榊さんを見送ったあと、彼女から聞いた話を一人でぼんやりと思い返してみた。
今とは違う、高校時代の榊さん。
男とは話すことができなかったという、おとなしい少女。
俺の頭の中の彼女は、不安そうな、困ったような表情を浮かべている少女。
片手を胸の前で握り締め、もう片方の手はスカートのひだを握って。
視線の先にはあの男の背中。
少しの間、そうやって見つめたあと、ふいっと背中を向けて立ち去る ――― 。
(はぁ……。)
俺まで切なくなってしまう。
たぶん、初めてノートを貸してほしいと言われたときは、どうして自分なのかと思っても、それも口に出せなかったんだろう。
それとも、彼女は「分からない」と言っていたけれど、そいつと親しくなりたいという気持ちがあったのかも知れない。
何か頼みごとを作って好きな相手に話しかける、というのは誰だって使う手だ。
ただ、そういう場合は自分も相手に何か ――― まあ、自分の愛情、かな ――― を提供する心づもりがあるのが普通だろう。
だけど、榊さんの話の男には彼女がいた。
そいつはノートを借りる代わりに、榊さんに対して何を返したんだ?
友情……なのか?
もちろん、友情だってOKだ。
実際、少しは物の貸し借り以外の話もしたらしいし。
でも、それはたぶん、本当に “少し” だったに違いない。一度に一言か二言くらいの。
でなければ彼女が「もっと話したかった」なんて、思うはずがないじゃないか。
考えれば考えるほど納得がいかない。
腹が立つ。
榊さんの話だと、相手の男は真面目でおとなしいタイプだったらしい。
だとすると、女子に気安く話しかけるような男ではなかったはずだ。
さっきの話の中でも、榊さんが話しかけられることで、ほかの女子に嫌味を言われたっていう部分があったし。
榊さんがあんなに悩んでいるのは、それが一番大きな原因なのだと思う。
その男の真面目さと曖昧な態度。
彼女がいるのにノートを借りに来る。
ほかの女子よりも話しかけては来るけれど、友達というほど親しくはなく。
なのに、自分の彼女の愚痴をちらりとこぼしたりする。
俺には、その男が榊さんを利用したようにしか見えない。
思わせぶりな態度をとって、優秀で親切な榊さんの宿題や予習を見せてもらっただけ。
もしも榊さんがその男を好きになったとしても、「自分には彼女がいるから」という理由で断ることができる。
(だけど……。)
榊さんがあんなに悩むのは、その解釈が当てはまりきれないからなんだろう。
あまり話をしなくても、同じクラスにいれば、相手がどんな性格なのか、ある程度は分かる。
まして、榊さんはそいつのことを、ほかの男よりはよく見ていたはずだから。
きっと、自分勝手な理由で他人を利用するようなヤツじゃなかったんだろうな……。
でなければ、とてもお芝居が上手だったとか。
榊さんが自分でイメージを創り上げているとか。
(そう言えば。)
榊さんは、話している間、一度も「どう思う?」とは言わなかった。
別れた俺の彼女は、悩み事や嫌なことがあったとき、よく俺に「どう思う?」と尋ねたものだけど。
榊さんは、当時の友達にも、そいつとの微妙な関係については話したことはないと言っていた。
他人の意見を求めないのは怖いから?
それとも、自分で結論を出しているからだろうか?
考えてみると、「どう思う?」という質問には期待が込められているような気がする。
“わたしの気持ち、わかるでしょ?” という期待。
あるいは、自分の考えを否定してほしいとき……?
もしかすると、榊さんは自分に都合のいい意見を聞きたくなかったのかも知れない。
そいつのことを好きにならないために。
(いや、でも……。)
やっぱり好きだったんじゃないだろうか。
10年経った今でも、あんなに忘れられないでいるなんて。
誰にも話さなかったのは、希望を持たないため。
彼女がいて、諦めるしかない相手だったから。
きっとそうだ。
(それにしても……。)
「ふふっ……。」
思わず思い出し笑いがもれてしまった。
榊さんがあんなに困り果てている姿を見たのは初めてだ。
あれほどネガティブな考えに突き進んでいるところも。
俺が何を言っても、「無理。」「ダメ。」ばっかり。
同窓会一つのことで、あんなに弱気になって、くよくよ考えてしまうなんて。
(なんだか、ちょっと可愛かったよな。)
今まで見てきた彼女とは全然違う。
自信がなくて、恥ずかしがり屋で。
まるで、俺の方が先輩みたいな気分になってしまうほど。
それに、男が苦手だなんて。
ただ、年齢限定っていうのも不思議な感じがする。
高校生のころからだというから、学校という場所に原因があるのかも知れない。
今は仕事では平気なようだけど、まるっきり大丈夫という話ではなかった。
大丈夫なのは仕事の用件のときだけで、雑談は苦手だと。
あそこの職場はいろんな人が出入りして、気楽に話をして行く人もいる。
人付き合いの良い榊さんは、いろいろなところから飲み会の誘いも多い。
俺は3年間隣に座っていたし、何度も同じ飲み会に参加していたのに、ちっとも気付かなかった。
その苦手な対象者が多くはなかったのかもしれないけど、きっと、気付かれないように、努力もしていたんだろうな。
言ってくれていれば、少しは助けてあげることもできたかも知れないのに……。
(そうか……。)
誰にも言うなと何度も念を押された。
槙瀬さんにも里沢さんにも言ってはダメだと。
今日は、俺が具合が悪くなりそうだと言うから話したのだと。
つまり、俺しか知らないこと。
ということは、俺しか助けてあげられないってことだ。
もちろん、年がら年中くっついて見てあげる、ってわけじゃない。
ときどき様子を見て、手助けが必要そうなときに助けてあげよう。
それくらいのことは、してあげたっていいはずだ。
翌朝、職場で会った榊さんは、照れ隠しのつもりか、俺にちょっとおどけた顔をしてみせた。
俺はいつもどおりにあいさつをしながら、「誰にも言いません。」という気持ちを込めて頷いてみせた。
そのとき、ほんの一瞬、弱気な笑顔を見たような気がした。