第五話
「大丈夫ですよ。」
追加で頼んだビールを注ぎながら榊さんに言う。
彼女が悩みを話してくれたことで、俺はなんとなく彼女より上の立場にいるような気分になっている。
しかも、その悩みというのが予想していたほど深刻ではなかったことで、心が軽くなっていた。
まあ、本人にとっては深刻であることは間違いないけれど。
「集まる半分は女性ですよね? 男に近付かなくてもいいじゃないですか。」
「だけど……。」
「なんですか?」
「会いたくない人がいる。」
「あ、例の……?」
榊さんがコクンと頷いた。
それから両手でグラスをゆっくりと回し始めた。
(最初に言ってた人か……。)
どんな相手なんだろう?
彼氏じゃないって言っていたけど。
「近付かないで、無視しちゃえばいいじゃないですか。」
「それはそうなんだけど……。」
「顔を見たくないほど嫌いとか?」
「そうじゃなくて……。」
「好きだったんですか?」
軽い気持ちでそう口にした途端、ひどく傷付いた顔をされた。
(しまった……。)
調子に乗り過ぎたらしい。
元気付けるつもりで余計なことを言ってしまった。
「すみません……。」
俺が謝ると、榊さんはふっと息を吐いた。
それから淋しそうに微笑んだ。
「好きだったかどうか分からない。今も。」
「そうですか……。」
無言になると悲しくなるような気がして、少し気軽に尋ねてみる。
「その人のことは、怖くなかったんですか?」
「え? ああ……、平気っていうわけじゃなかったけど、その人が話しかけてくれたから。」
「話す用事があったから?」
「うん。雑談をしたわけじゃなくて、なんか……、いつもノートを借りに来て。」
(榊さんのことを好きだったんじゃないのか?)
…という疑問は口に出さなくてよかった。
「その人、彼女がいたのにさあ、ノートを借りに来るのはあたしのところだったんだよね……。」
「そうなんですか……。」
彼女がいたのなら、また事情は違う。
「チャラいヤツだったんですか?」
「え? ううん、全然。大きな声ではしゃいだりしないし、真面目で、どっちかって言うとおとなしい人。」
「へえ……。」
まあ、だから榊さんがこんなに悩んでいるのかも知れない。
「一度、テスト前に貸したノートを返してもらえなくてね。」
「え?」
「でも、その人のところに行って、『返して』って言うことができなくて……。」
(男が苦手だからか……。)
相手が用事で話しかけてくるのは平気でも、自分の用事で話しかけることはできなかったってことらしい。
心の中に、紺色のブレザーとスカートの制服(俺の高校の制服だ)を着た榊さんが、言おうかどうしようかと迷っている姿が浮かぶ。
彼女の気持ちを思ったら、俺も胸が痛いような気がした。
「テスト前日の帰りに、急いで参考書を買いに行っちゃった……。」
「榊さん……。」
(話しかけるよりも、参考書を買う方が楽だったなんて……。)
それほど男が苦手だったのだ。
どう言ってあげたらいいのか分からなくて黙っていると、彼女は当時の思い出をゆっくりと話してくれた。
「修学旅行の班行動のときにね、その人の彼女がいつも集合に遅れて来てね。」
「ええ。」
「そのことをね、あたしに『どうしてそのくらいのことができないんだろうな?』って言うんだよ。」
「なんで……?」
「わからない。あたしには言い易かったのかな…と思って……。」
自分で彼女に言えばいいのに……と思うのは俺だけか?
「一度席が近くなったときに、よく話しかけられて……。英語の予習とか、消しゴム貸してほしいとか……、勉強に関係ないこともちょっとだけ。」
「ええ。」
「誰とでも話しているのかと思っていたんだけど、隣にいた女の子にはそうでもなかったらしくて、その子にちょっと嫌味言われたり……。」
「榊さんからその人に話しかけてたわけじゃないのに?」
「うん……。だから……、普通の女子よりはお友達なのかなあって……。」
なんだろう、それって?
なんだか腹が立つ。
榊さんの話だと、高校生のときの彼女は、たぶん目立たない部類に入っていたんだと思う。
こう言っては失礼だけど、容姿も特に際立っていたわけではないだろう。
だから、特別扱いされる謂われはなかった。(……と、本人は思っている。)
なのにその男は榊さんに近付いた。
ほかの女子が気付くほどだから、その接近の度合いは明らかだったんだと思う。
でも、そいつには彼女がいた。
たぶん榊さんは、おとなしくても勉強はできたに違いない。
そして、やっぱり今と同じように親切だったんだと思う。
俺には、そんな榊さんを、その男が単に便利に利用しただけに思えてしまう。
「あたしさあ……、」
「あ、はい。」
「その人と普通におしゃべりができたら楽しいんじゃないかなあ、って…思ってたんだ……。」
「普通に…ですか?」
「うん。ただ、テレビ番組のこととか、好きな本のこととか……くだらない冗談とか。」
「俺とか槙瀬さんと、みたいに?」
「ああ、うん、そう。」
榊さんがにっこりと微笑む。
その笑顔は幸せそうで、自分が彼女の役に立てているのだと思えて、こんな話の最中だったけれど嬉しくなった。
「でもね、できなかった。」
フッと、息を吐いて。
「あたしがね、どんな男の子とでも話せていれば問題がなかったんだけど、ほかの人とは話さないのに、その人とだけ話すのは……変でしょう?」
「そう…かな?」
「だってさ、あたしがその人だけを特別に思ってるみたいに思われちゃうかも知れないし……、彼女がいる人だし……。」
もう一度、ため息。
「それに、やっぱり普通に話なんかできなかったと思う。」
淋しそうな榊さん。
臆病で自信のない高校生だったころの思い出……か。
(……ん?)
急に思い当たった。
同窓会って、当時の好きだった相手に会ったりするのも楽しみの一つなんじゃないだろうか。
話はしなくても、当時のことを思い出したりして。
しかも28歳という年齢だと、それぞれ大人になって、見た目も中身も格好良くなっている可能性があるのに。
「その人に会いたくないんですか?」
「うん。」
「でも、普通はそういう相手に会いたいって思ったりしませんか? どうなってるかなーって。ちらっと見るだけでも。」
「無理。絶対。目が合ったりしたら困るもん。」
「そんなに恥ずかしいんですか?」
やっぱり好きだったんじゃないのか?
「 “恥ずかしい” じゃ、済まないんだもん……。」
「どうしてですか?」
「だって……、あ〜〜〜〜〜……。」
榊さんはまた苦しい顔になって両手で顔を押さえた。
そんなに会いたくない理由があるのだろうか?
「やっちゃったんだよ……。」
テーブルに肘を付いて頭を抱えたまま俺を見て低くつぶやく。
「何を……?」
つられて俺も声をひそめる。
「卒業したあとの春休みにね、」
「はい。」
「手紙を出しちゃった。」
「ええええええぇ!?」
意外にも思い切った行動だったので、びっくりした。
話しかけることはできなかったけど、手紙は出せたのか、と。
「意外と大胆ですね。」
「ときどきあるんだよね……。」
そう言って、ため息をついた。
「ものすごく迷ってね、最終的に “やらないよりは、やる方がマシ!” って思うの。」
「ああ……。」
「でも、そういうときって、必ずあとで後悔するんだよね……。」
わかるような気がする……。
「あ〜〜〜〜!」
また両頬に手をあてて、彼女が言い訳をした。
「だって、もう会わないと思ったんだもん。」
「はい……。」
「もう会わないから、言わなくちゃいけないことがあるような気がして。」
「ええ。」
「書いたら気持ちを整理できるような気がしたし。」
気持ちを……って。
「何を書いたんですか?」
「え……?」
「告白したんですか?」
「いや、まさか。」
榊さんが恐ろしそうに否定する。
「さっき言ったでしょ、好きかどうかわからないって……。」
「ああ、そうでしたね。じゃあ……?」
「お礼。」
「お礼?」
「何て言うか……、話しかけてくれてありがとう、みたいな?」
それはお礼を言うようなことなのか?
さっきの話では、まったくそうは思えないけど。
「あと……。」
まだあるんだ?
「もう少しお話ししたかった、とか……。」
「ああ……。」
なんか……可愛い。
「それだけですか?」
「たぶん……そんな感じ……。」
押さえていた頬から手を離すと、頬が赤くなっていた。
それは手の跡じゃなく、今の話をしたせいらしい。
片手で顔をあおぎながら、コップのビールをぐいっと飲んだ。
「あ〜……、きっと、意味不明の変な女だと思われてるよ……。」
俺はそのあとずっと、「来ないかも知れませんよ。」「手紙のことは忘れてますよ。」などと慰め続けた。
けれど榊さんはそんな言葉には納得せず、ずっとネガティブな想像にはまり込んだままだった。