第三十話
榊さんと俺の関係は、社内では秘密にしていた。
“秘密” と言っても、そうしようと打ち合わせて決めたわけではない。
なんとなくそうなってしまっただけ。
榊さんが周囲の視線が気になるようなので、俺は、社内では彼女とあまり話せなくなってしまった。
彼女の場合、 “視線が気になる” というのは “知られたくない” という意味とは違うのだけど。
先に進めばそれも含むのかも知れないけど、それよりもっと手前の話。
とにかく恥ずかしいのだ。
まあ、俺の “話せない” は、それほど厳密ではない。
だって、もともと仲が良かったことは周囲に知られているわけだから、急に話さなくなる方が怪しい。
もちろん、恋人同士の会話は社内ではしない。
でも榊さんは、そういうことは頭では分かっていても、俺が近くに行くだけで緊張すると言う。
実際、微妙な顔つきをしている。
「ドキドキして、どうしたらいいのか分からなくなるんだよ。」
と、夜中の電話で、情けない声で言っていた。
俺は、そんな榊さんがものすごく可愛いと思ってしまう。
まるで10代の少女のように恥ずかしがる。
そしてそのことを、その当事者である俺に言ってしまう。
俺が近くにいるとドキドキして……なんて、俺のことを好きだと言っているようなものじゃないかと思うのに、そのことには気付かないんだ。
誰にも聞かれたり見られたりしない電話でも、彼女は俺に「好き」なんて言葉は囁いてはくれないけれど。
まあそういう具合で、俺たちの関係は秘密のままだった。
それでも俺たちは、仕事帰りのデートや夜中の電話を重ね、少しずつ、二人のスタイルを形づくって行った。
そして、初めてのクリスマスは夜景を見に行こうと約束した。
「今年のクリスマスは、みんな一人なの?」
久しぶりに里沢さんも都合を合わせて、槙瀬さん、榊さん、俺の4人が揃った内輪の忘年会は、クリスマスの一週間前だった。
酒が進み、話題が一段落したころ、里沢さんが俺たちを見回して尋ねた。
俺はドキッとして榊さんを見てしまった。
けれど、彼女は何でもない笑顔を里沢さんに向けた。
「里沢さんは、今年もご主人とデートですか?」
「もちろん! やっぱりクリスマスは特別だもの。まあ、普段は休みの日でもゴロゴロしててデートなんかしないから、その穴埋めみたいなものだけど。」
「いいですねぇ、仲が良くて。」
榊さんがにこにこしながら、里沢さんのグラスにビールを注ぐ。
それを見ながら、俺は次に誰が何を言うのかと、緊張して聞き耳を立てていた。
「何言ってんの? 榊ちゃんだって、本当は誰かいるんじゃないの?」
(やっぱり……。)
こういう展開になりやすい話題だ。
榊さんは俺の方はまったく見ずに、笑顔のまま自分のグラスを取った。
「ええと、あたしは、まあ……。」
曖昧に返事をして、その話題をスルーようとする。
俺に気を使って、「そんな相手はいない」と言うことができないのかも知れない。
彼女が困っているのは分かるけど、俺も、彼女と俺のあいだに何も無いふりをするのは嫌だ。
黙っているだけならいいけれど。
「なによ? まだ “あたしなんか” とか言ってるわけ?」
「ええ、はい。いいんです、あたしは。」
「そんなこと言ってないで、一度誰かと出かけてみたらいいんだよ。適当に選んだ相手の方が、案外、上手く行ったりすることもあるんだよ。」
里沢さんは、もうかなり飲んでいるらしい。
豪快に「あははは! そうだよ、そうしなよ!」と笑い、俺に「ほら、榊ちゃんにお湯割り。」と命令した。
「うふふ、そんなに簡単には行きませんよ。あ、何か追加で頼みましょうか?」
榊さんがにこやかにメニューを取り、話題をそらそうとした。
俺はポットのお湯を注ぎながら、ほっとする気持ちと残念な気持ちを、半分ずつ味わっていた。
少しだけ、このメンバーには言ってしまいたい気もしていたから。
「なんなら、俺とどっか行く?」
低く響く声が聞こえたのはそのとき。
声の主は、俺の隣にいた槙瀬さんだった。
手元のグラスを見つめた状態で、俺の体がピタリと固まる。
「ああ、いいんじゃない!? そうだよ、槙瀬さんと榊ちゃんならバッチリ! ねえ?」
「行きたいところがあれば、お姫様のリクエストにお応えしますよ。」
盛り上がる里沢さんと、冗談めかしたセリフで誘う槙瀬さん。
二人の上機嫌の勢いが危ない気がする。
(ど、どうしよう……。)
ドキドキして汗が流れる。
グラスを渡しながら榊さんを見たら、彼女もちらりと俺を見た。
彼女もどうしたらいいのか分からないのだ……と思ったら、すぐに笑顔を作って槙瀬さんに向けた。
「やだなあ、槙瀬さん。里沢さんに調子を合わせなくてもいいんだよ。」
どうやら彼女は冗談で済ませるつもりらしい。
相手が槙瀬さんならそれで済むと思ったのだろう。
(でも、今回は済まないかも……。)
なにしろ槙瀬さんは、榊さんとなら結婚してもいいと思っているのだ。
この機に乗じて一気に話を進めるつもりだという可能性もある。
(もしもそんなことになったら……?)
「いつも、クリスマスにわざわざ混んでるところに出かけるなんて面倒だって言ってたじゃない。」
何も知らない榊さんが、笑顔でその話題を続けてしまう。
「うん、そうだな。」
「気取ったレストランなんか好きじゃないって。」
「今だってそう思ってるよ。」
「ほらね?」
「でも、榊とならいいぞ。」
「え?」
(本気か!?)
思わず槙瀬さんを凝視する榊さんと俺。
「ほらー、いいじゃん。行っちゃいなよ。」
俺の向かい側で、里沢さんが嬉しそうに榊さんの肩をたたいた。
(そんな!)
「だっ、ダメです!」
自分で出した声にびっくりした。
3人が同時に俺の方に顔を向ける。
「だ、ダメです、ダメ。絶対にダメ。」
3人をかわるがわる見ながら、必死に言葉を探す。
「あの、榊さんは、俺と出かけることになってます。だから、ダメです。」
やっとのことでそこまで言い切ると、里沢さんがにや〜と笑って榊さんに尋ねた。
「榊ちゃん、ホント?」
「え、は、はい。ホントです。」
小さな声で言って、下を向く榊さん。
彼女が肯定してくれたことで、俺はものすごくほっとした。
すると、次の瞬間。
「くっ。」
「ふっ。」
槙瀬さんと里沢さんが笑い出した。
(え……?)
俺と榊さんは、驚いて二人を見た。
それを見て、さらに吹き出す二人。
「ほらー。俺の勝ちですよ、里沢さん。あはははは!」
「ほんとだねー。やだもう。こんなに早くまとまるとは思わなかったわ〜、あははは。」
(え? なんだこれ……?)
榊さんが状況が飲み込めない顔をして、そうっと俺を見る。
俺はそれに首を傾げてみせるだけ。
「あはははは、ごめんね〜。あたしたち、賭けをしててさあ。あはははは。」
「そうそう。紺野と榊がクリスマスまでにまとまるかどうかって。ははははは。」
「あたしはもう少し時間がかかると思ってたんだけど、早かったねー。いや〜、さすが若いと違うわ〜。」
「ああ……、え?」
(賭けって……。)
いつの間に決めたんだろう?
どうしてそんな話になったんだろう?
槙瀬さんの「結婚しても」は、いったい……?
「なんで……?」
呆然としている俺と榊さんに、槙瀬さんが笑いながら言った。
「だって、紺野が彼女と別れた原因って、榊じゃないか。」
「え?」
「やだ、違うでしょ!?」
俺も榊さんもすぐに否定。
でも、槙瀬さんと里沢さんは、「何言ってんの〜。」と笑っている。
「え、だって、俺は……。」
あのときは榊さんのことは何とも思ってなかった。
気になったのは、榊さんの様子がおかしくなってからで……。
「だってさあ、あのときの話聞いてたら、ねえ? うふふふふ。」
「そうだよ。お前、別れた彼女の話しながら、『榊さんなら絶対にこんなことしません』って何度言ったことか。」
「そうそう。まるで榊ちゃんだけが完璧な女性で、あとのひとはみんなダメ、みたいな。」
「榊だって欠点はあるのにさあ、紺野にはそれもいいところにしか見えないんだから。あれを聞いたら分かりますよねえ、里沢さん?」
「そう! もう、これは時間の問題だなって思ったよ。」
(あの日のことか……?)
榊さんが来られなかった飲み会。
前の彼女と別れた報告をしながら、自由になった気分でいたことは確かだ。
でも、そんなに榊さんの名前を出していたなんて……。
「あのあと槙瀬さんと飲みに行ったときに話が出てさあ、『やっぱりそうだよね!』って話になってね、あははは。」
「ちょうどほら、紺野が榊の行動が変だとか言ってきたあと。くふふふ。」
(あれもか……。)
まさか、自分で言いふらしていたようなものだったとは……。
「あーあ、負けちゃった。まさか2か月ちょっとで決まるとはねー。」
残念そうに里沢さんがため息をつく。
その里沢さんにビールを注ぎながら、槙瀬さんが言った。
「はは、俺の作戦勝ちですね。」
「ん? 作戦?」
里沢さんが眉をひそめて槙瀬さんを見た。
俺と榊さんも。
その俺たちをニヤニヤしながら見回す槙瀬さん。
「いやあ、紺野のことをちょっとね、焚きつけたって言うか。」
「え!?」
「なにそれ!?」
「ほら、本人が気付いてないとどうしようもないだろ?」
そう言いながら俺を見る。
つられて榊さんと里沢さんの視線も俺に。
(まさか、あの日の……。)
思い当たるのはあれしかない。
槙瀬さんと二人で榊さんの話をしたのは……。
「まあ、頃合いだと思ったし。それにしても上手く行ったなあ。くくくくく……。」
「あ……。」
(どうりで違和感を感じたわけだ!)
槙瀬さんが「結婚してもいい」って言いながら、「誰でもいい」なんて言うから。
あのとき、焼きもちを焼かないのは変だって思ったのは、こういうことだったんだ……。
俺は信じられない思いで、笑っている槙瀬さんを見つめるしかなかった。
それから俺たちは、さんざん質問されたり冷やかされたりした。
けれど、二人が俺たちのことを喜んでくれていることは間違いなかったし、誰かに知ってもらうことで俺たちの関係が確実になるような気がしたから、何を言われても嬉しかった。
でも。
俺はどうしても、槙瀬さんに訊かずにはいられなかった。
だから、帰り道で榊さんと里沢さんに聞こえないように、そっと尋ねた。
「もしも榊さんが、クリスマスに一緒に出かけてもいいって言ったら、どうするつもりだったんですか?」
槙瀬さんはニヤリと笑い、俺の背中をぽんとたたいた。
「んなこと、お前は考えなくていいんだよ。」
それから俺をまっすぐに見て微笑んだ。
「お前は榊を幸せにすることだけを考えろ。お前と榊と、二人でちゃんと幸せになるんだぞ。」
「……はい。」
いつもと変わりない槙瀬さんに、俺はただ返事をすることしかできなかった。
そして心の中で、榊さんを幸せにすることをあらためて誓った。
次回、最終話です。