第二十九話
翌日ものどは痛かったけれど、熱が下がったので出勤した。
周囲に気を使ってマスクをして。
駅で会った榊さんは、俺を見て少しうろたえた。
けれど、すぐに気持ちを固めたように微笑んで、いつものように話をしてくれた。
ただ、俺の方をまっすぐには見てくれなかったけれど。
途中で知り合いが合流すると、彼女の態度は普段どおりに戻った。
どうやら榊さんは、二人で話しているときの方が緊張するらしい。
その週はずっとそんな調子だった。
その週の金曜日、帰りに榊さんを食事に誘った。
二人でいることに緊張するばかりの彼女がリラックスできるようにと考えて、俺が飲み過ぎたスペイン料理の店に。
狙いどおり、彼女はあの日のことを思い出して、少し笑ってOKしてくれた。
会社を二人で一緒に出るとき、榊さんはやたらとおどおど、キョロキョロしていた。
帰りに一緒になることなんて、ずっと前から何度もあったのに。
これでは俺たちがこれから他人に知られたくないことをしに行くと宣伝しているようなものだ。
そう指摘すると、彼女はぎょっとした顔で俺を見た。
そして、いきなりわざとらしい笑顔を作って話し出した。
店に着いて案内されたのは、偶然にも前回と同じテーブルだった。
知った顔がないことに安心した榊さんが、向かいの席でふっと緊張を解いたのが分かった。
そのあとに俺に向けた微笑みは、この一週間で一番自然な笑顔だった。
俺が、今日は酒を控え目にすると言うと、彼女が笑った。
「酔っ払ったことを気にしてるの? あれはあれで面白かったのに。」
「そうですか?」
「うん。あんなにご機嫌な紺野さんは滅多に見られないもん。紺野さんは楽しくなかったの?」
そう尋ねた榊さんはにこにこしていた。
俺が失敗だったと思っていたことは、彼女にとっては本当に、ただの面白い出来事に過ぎなかったのだ。
俺の失敗を咎めないからと言って次の日に彼女を責めたのは、まったくの筋違いだったということだ。
「楽しかったです。だから余計に飲み過ぎちゃって。」
申し訳ない気持ちを添えながらそう答えると、榊さんが一層にっこりして「ね?」と頷いた。
「あの次の日にね。」
榊さんが前回の話を持ち出したのは、店を出てからだった。
美味しい料理と適度なお酒で、体も心もリラックスしていた。
12月に入っている今日は、二人とも冬の装いになっているところがこの前とは違う。
でも、歩いている二人の間の距離はほとんど変わっていない。
「紺野さん、あたしのことを怒ったでしょう? “どうして飲み過ぎたことを怒らないのか” って。」
「はい。」
「それは紺野さんに期待してないからからなのか、って言われて……いろいろ考えちゃった。」
バッグを両手で後ろに持ってゆっくりと歩きながら、前を見つめたまま彼女は言った。
その姿も前回の記憶と重なる。
「すみませんでした。勝手なこと言って。」
「ううん、いいの。」
彼女はゆったりと微笑んだ。
「あたし、言われて初めて、そう感じる人もいるんだって分かったの。もしかしたら、怒らないのは、あたしがほかの人のことを軽く? …… “どうせ怒っても無駄だから” って、見ているからなのかな、って考えてみたんだ。」
「榊さん……。」
俺がよく考えずに言った言葉をそんなに気にしていたんだ。
「本当に ――― 」
「ああ、違うの。あれは、言ってもらって良かったの。だから謝らないで。」
微笑んだままそう言って、彼女は続けた。
「考えた結果ね、あたしはべつに、ほかの人を軽んじたりしていないって確信を持った。そういう気持ちで接したことは……ゼロとは言わないけど、ほとんどないよ。怒らないのは、怒って言ったって意味がないと思うからだよ。分かってもらうなら、気持ち良く分かってもらいたいの。それが、あたしの信頼関係の作り方なの。」
「はい。」
「でもね、あたしが他人に期待しないっていうのは、部分的には当たってるの。それはね、自分のことに関して。」
「自分のこと?」
「そう。他人が自分に何かをしてくれるっていう期待。それは持たないの。どんな小さなことでも。」
きっぱりと言い切った榊さんの表情は穏やかで、決意や諦めのようなものは見えなかった。
彼女にとって、 “他人に期待しない” ということは、彼女の生き方の一部になっているのだ。
「なんだか意地を張っているみたいに聞こえるかな? でもね、あたし、他人の重荷になるのが嫌なの。」
「重荷だなんて。」
俺が口をはさむと、彼女はちらりと俺を見て、「ふふっ。」と笑った。
「だって、例えば『いつでも頼りにしてくださいね。』って言われても、それは単なる社交辞令かも知れないじゃない。そんな相手に期待したら悪いでしょ? それにね、」
彼女が遠くの空を見る。
「人の気持ちは変わるものだから。未来はどうなるか分からない。そのたった一言で、あたしなんかのために、自分の未来を担保に入れる必要はないのよ。あたしだって、『あのとき、こう言ったでしょう?』なんて言いたくない。どんなに仲がいい相手でも、手伝ってもらえるはずだとも思わない。相手にそんなつもりがなかったら、嫌な思いをさせるし、自分も傷付いてしまうもの。」
そう言って、今度は少し淋しそうな顔をした。
「あたしはそういうふうに生きてきたの。自然と周りに助けてもらえる人もいるけど、あたしはそっち側じゃないから。」
その言葉で、高校生のころの彼女が目に浮かんだ。
そして、彼女の言っていることはよく分かった。
だけど。
「もしも、相手が待っているとしたら?」
「え?」
「本当に、心から、自分を頼りにしてほしいって思ってるとしたら?」
彼女は少し首を傾げて考えた。
それから、微笑んで言った。
「あたしなんかのために、時間や労力を使わせるのは申し訳ないな。」
(ああ、そうだった……。)
榊さんはいつも「あたしなんか」と言う。
まるで、自分に価値がないように。
そんなことはないのに。
「 “榊さんなんか” じゃありません。俺にとっては、 “榊さんだから” です。」
「……え?」
「榊さんだから頼ってほしいんです。心配したり、手伝ったりしたいんです。そうできることが嬉しいんです。」
彼女がぼんやりと俺の顔を見上げる。
「どんなに小さなことでもいいんです。くだらないことでも。榊さんのために、何かしたいんです。」
「あたしのために……?」
「はい。」
「何かって……?」
「そうだなあ……、靴を履かせてあげるとか?」
「やだ、そんなの。いらない。」
彼女がぞっとしたような表情をし、それから二人で吹き出した。
「じゃあ、まずは練習しましょう。」
意味が飲み込めずに、彼女は不思議そうに俺を見た。
俺は何も言わずに彼女のバッグを取り、空になった彼女の左手を俺の右腕につかまらせた。
「ほらね? これで、俺がちゃんと駅まで連れて行けますから、榊さんはぼんやりしてていいですよ。」
「歩きにくいよ。」
困った顔をして、彼女が言った。
「すぐに慣れます。」
榊さんは疑わしそうな顔をしたけれど、それ以上は何も言わずにそのまま歩いてくれた。
最初はおずおずとつかまっていた彼女の手は、次の曲がり角に着くころには、しっかりと、確かな手ごたえに変わっていた。
その変化が、二人の関係が確かなものに変わっていく証のような気がした。
「あ、ねえ、紺野さん。」
彼女が楽しそうに俺の顔を覗き込んだ。
自分の体が俺の腕に触れていることも気にならない様子で。
「あたし、紺野さんを頼ったことがあるよ。ほら、先週、地下倉庫で。寺下さんを泥棒かと思ったとき。」
「ああ。あはは、そうでしたね。」
榊さんがあまりにも得意気な顔をしているのが可笑しい。
自分が怖がったことをこんなに自慢げに言うなんて。
「ね? ちゃんと頼りにしてたじゃない?」
「ええ、そうですね。」
そう答えてからふと思いついた。
「あそこにいたのが俺じゃなかったら、どうでしたか?」
「え? 離れてるよ、絶対に。」
……と、答えてすぐ、彼女は慌てて手で口を塞いだ。
そして、す…っと下を向く。
(あれれれ。)
恥ずかしいんだ。
本音だったんだ。
“俺だから” なんだ。
(たったあれだけのことを言っただけなのに、こんなに恥ずかしがるなんて。)
一気に嬉しくなったけど、そこでもう一つの可能性が浮かんだ。
「榊さん。」
「はい。」
「俺じゃなくて、槙瀬さんだったら?」
「え? 槙瀬さん?」
真剣な顔で考える彼女。
それから、そっと上目づかいに俺を見た。
「同じかな……?」
「どっちと?」
「………紺野さん。」
そっとつぶやくと同時に、手が離れていく気配。
それをしっかりと押さえてつかまえる。
「そうだと思いましたよ。」
彼女はなんとも申し訳なさそうな顔をした。
けれど、そんな顔をする彼女に愛しさがこみ上げて、俺は胸が苦しくなってしまう。
「でも、腕を組むのは俺だけですからね。」
一応、真剣な顔をして釘を刺した。
すると、彼女は少し恥ずかしそうに笑った。
「大丈夫だよ。そんなことにはならないもん。」
「約束ですよ?」
「……ん。」
榊さんの困っていない恥ずかしそうな笑顔は最高に可愛い。
しかも、こんな顔を見ることができるのは、世界中で俺一人なんだから!