第二十八話
榊さんが買ってきてくれたのは、大量のレトルトのおかゆやスープだった。
うちに鍋や包丁があるかどうか分からなかったから、と笑って言った。
俺は、食事を用意する榊さんをベッドから見ていた。
だるい体は横になっていると気持ちが良かったし、彼女を見ていると安心できた。
ときどき彼女が何か話しかけ、俺はそれに簡単に答えた。
仕度ができると、彼女は俺が起きるのを手伝ってくれた。
靴下を履かせてもらったり、パーカーを着せてもらったり、甲斐甲斐しく世話を焼かれるのは照れくさかった。
でも一方では嬉しくもあり、具合が悪いことを自分で言い訳にして甘えていた。
おかゆは苦手だったけど、温泉たまごを乗せたら結構美味しく食べられた。
榊さんも買ってきたおにぎりを一緒に食べていた。
途中で洗濯機が動いている音に気付いて慌てた俺に、榊さんは「あたしはスイッチを入れるだけだもん。」と笑った。
そんな食事のあいだ、彼女は何度か俺の方を窺うように見た。
けれど、そのたびに諦めたような顔をして目をそらした。
俺はそれには気付かないふりをして、普通の話をしていた。
温かいものを食べて体が温まると、人心地がついて、とても楽になった。
「俺が電話をかけ直さなかったら、どうするつもりだったんですか?」
そう質問をしたのは、再びベッドに入ったとき。
俺を注意深く布団でくるんでから、榊さんはベッドの脇に座った。
「そのまま帰るつもりだったよ。」
明るく微笑んで答える彼女。
その表情は、「それ以外にないでしょう?」と言っているようだ。
「そうですか。じゃあ、すぐに気が付いて良かったな。」
そう言いながら、榊さんは高校生のころと変わっていないんだと思った。
ノートを返してくれと言えなくて立ち去ったあの頃と。
こんなに近くまで来ていながら、それ以上の自己主張はできずに。
「本当はね……。」
少し憂いを含んだ微笑みで、彼女が俺を見つめる。
「来るかどうか、ものすごく迷ったの。」
当然だろう。
俺だって、まさか来てくれるとは思ってもみなかった。
「でもね、来ないと後悔するような気がして、思い切って来たの。」
(あ……。)
同じだ、と思った。
榊さんがノート男に手紙を出したことと。
その話をしてくれたとき、彼女は、迷った末に思い切ってやったあとは必ず後悔する、と言っていた。
事実、ノート男に手紙を出したことを酷く後悔していた。
でも、ここに来てくれたことを後悔なんかしてほしくない。
「嬉しいです。」
気持ちを言葉にしてみると、一緒に気持ちがあふれてきた。
微笑みも一緒に。
榊さんはぽかんとした顔をした。
それを見たら、ますます彼女のことが愛しくなってしまった。
「来てくれて、メチャクチャ嬉しいです。」
布団から手を出して、そっと彼女の頬に触れる。
彼女はハッとして、ゆっくりとした動きでその手をはずして握った。
それから、少し悲しそうな目で俺を見た。
そして。
「……どうして?」
静かな問いかけ。
静かで、悲しげな。
「どうして、あんなことをしたの?」
(やっとだ……。)
思わず目を閉じる。
ゆっくりと、その言葉を味わった。
それが心の奥まで沁み込むまでのあいだ。
ようやく満ち足りた気分になって、安堵のため息をつく。
目を開けると、俺の指先を握ったままの榊さんが、静かに俺を見ていた。
「やっと言ってくれましたね。」
「え……?」
「『どうして?』って。」
「あ……。」
動揺した彼女が、俺の手を離そうとしたのが分かった。
その片手をつかまえて、静かにベッドの上に引き寄せる。
「そう訊いてくれるのを待っていました。」
榊さんは困った様子で俺を見た。
でも、無理に手を引っ込めようとはしなかった。
「どう…して?」
「それが、榊さんが俺の答えを聞く覚悟ができた合図だと思ったからです。」
「覚悟……。」
そうつぶやいて、彼女は遠い目をした。
「そうかも知れない……。」
諦めたように下を向きながら、ふふっ、と笑う。
「よく分かったね。」
「榊さんのこと、たくさん考えましたから。」
「ああ…、あたしも。」
また、彼女の微笑みに淋しさが混じった。
「たくさん考えて、どうしても理由を聞かなくちゃって…思ったの……。」
「…ありがとうございます。」
とうとうこの瞬間がやって来た。
榊さんが悲しそうな顔をしているのは、心のどこかで予想していたような気がする。
だからそれは気にならなかった。
「榊さんのことが、好きだからです。」
彼女が緊張したのが、手から伝わって来た。
俺は握った手に力を込めて、彼女をまっすぐ見て、続けた。
「好きで好きで仕方ありません。だから……、同窓会のことが心配で、待ってたんです。」
俺の言葉を聞きながら、彼女はますます悲しそうな顔になってしまった。
悲しそうで、困って、途方にくれたような。
「あ…、あたし………」
そこまで言って、急に榊さんはしゃっくりをした。
驚き慌てる榊さんにお構いなしに、しゃっくりは「ひっく」「ひっく」と続き、榊さんは本当に困った顔をした。
それが可笑しくて、俺は笑ってしまった。
「俺のことは嫌いですか?」
助け船を出そうと訊いてみる。
すると彼女は首を横に振った。
「い、いいえ、そんな、ひっ…く、こと。」
「じゃあ……好き?」
その質問には困った顔。
「わ、ひっく、分から…ない。」
ちょっとがっかり。
でも、諦めない。
「これは……嫌?」
握っている手を少し持ち上げて見せると、彼女はますます困った顔をして、首を傾げた。
そして、答えはそれだけだった。
(嫌われてはいないようだけど……。)
彼女は自分の気持ちが分からないのだろうか?
俺のことをずっと仲の良い同僚だと思っていたから、急に違うと言われて戸惑っているのか。
(あれ? でも……。)
すぐ目の前にある彼女の手を見つめてみる。
彼女はそれを拒否してはいない。
榊さんなら、いくら俺の状態に責任を感じているとしても、嫌なら嫌だと言うはずだ。
上手に冗談めかして「何やってるの?」なんて笑って「ダメ」って。
でも、手の向こうの榊さんは、ようやく止まりそうなしゃっくりの気配に、ほっとした様子で胸をたたいているだけ。
(もしかしたら。)
「榊さん、好きです。」
いきなり言ってみると、彼女がチラッと俺を見て、また困った顔をした。
(やっぱり恥ずかしがってるのか……?)
その考えは、妙に納得できた。
仕事中はほとんど慌てたり、困ったりすることがない榊さん。
仕事以外でも、あの同窓会の話以外では、そんな顔を見せたことがなかった。
そして、彼女の恋の話は一度も聞いたことがない。
だから、そういう話で照れているところも見たことがない。
(だとしたら……。もしかしたら……。)
榊さんは極度の恥ずかしがり屋なんじゃないだろうか。
「好き」なんていう言葉を口にすることはもちろん、嬉しくても、それを表すことができないのかも。
そういうところを俺に見られることも恥ずかしくて。
だからあんなに困っているんじゃないのだろうか。
(だって、嫌がってはいないわけだし…。)
そもそもここに来てくれた。
責任を感じただけで、ただの同僚にここまでするだろうか?
よく考えたら、 “男が苦手” っていうのは、それが原因なんじゃないか?
始まった時期だって、思春期と重なっている。
男が苦手だという話をしたとき、榊さんは何て言ってたっけ……?
(思い出せない。でも、今は……。)
榊さんは確かに嫌がってはいない。
困った顔をしているだけ。
ということは。
「俺じゃダメですか?」
そう尋ねながら、心の中に希望がふくらむのを抑えきれない。
首を傾げて心底困った様子で、彼女が小さな声で言う。
「そんなこと…ないけど……。」
(なんだ。そういうことか。)
嬉しい気持ちが胸の底から湧いてくる。
彼女の手を握る手に力がこもる。
恥ずかしがり屋の榊さんと、ちょっとずつ、恋人として仲良くなる ――― 。
そう考えたら、とても楽しくなってしまった。
しかも、俺は彼女にとって初めての彼氏だ。
恋人同士のどんなことも、彼女にとってはすべてが初めてのことなのだ。
(初めてだなんて……。)
急に、責任重大な気がしてきた。
そして、とても神聖なことのようにも。
同時に、なんだか俺まで恥ずかしい。
「榊さん。」
彼女がおずおずと俺を見る。
相変わらず困った顔で。
それが恥ずかしがっているからだと思うと、愛しさで胸がいっぱいになって、落ち着かなくなってしまう。
「よかったら、試してみませんか?」
「試す……?」
「榊さんが、俺でもいいかどうか。」
彼女は少しのあいだ俺を見たまま考えて、「うん。」と頷いた。
そして、やっとほっとした様子で微笑んでくれた。
このくらいの言葉を使えば、恥ずかしがり屋の榊さんでも頷くことができるらしい。
そのまま彼女を抱き締めたかったけれど、風邪をひいている身でもあるし、いきなりそれでは彼女がびっくりするだろうと思って我慢した。
安心したら眠くなってあくびをした俺に、榊さんは急に先輩みたいになって、
「勝手に帰るから、眠っていいよ。」
と言った。
そう言ってから、それでは鍵を開けたまま帰ることになると気付いて彼女は迷った。
俺は玄関まで見送ることができないほどではなかったけれど、せっかくだから合い鍵を渡すことにした。
「お試し期間中はずっと持っててください。」
俺の言葉に彼女はまた困った顔をして、コクンと頷いた。