第二十七話
翌月曜日の朝、俺はしっかり風邪をひいていた。
起きたときにはのどが痛くて、つばを飲み込むのもやっと。
声を出そうとしても、掠れた声しか出ない。
なんとなく体も重い。
でも、榊さんの手前、仕事を休むわけにはいかない。
傘とストールも返さなくちゃいけないし。
……と思って出勤したら、昼になる前に熱が上がってしまった。
朝から変な声だった俺が、赤い顔をして明らかに具合が悪そうになると、周囲が警戒した。
隣の席の女性には
「うちには3歳児がいるのよ! あたしが風邪ひくわけには行かないんだから! 早く帰りなさい!」
と叱られた。
係長には
「無理すると、向こうの新人みたいになるぞ。」
と諭された。
榊さんの隣の新人は、結局一週間も休んでしまったのだ。
隣の席の女性が会社の近所の医者を教えてくれて、必ず寄ってから帰るようにと念を押された。
反対する元気もなく、俺は頷いて職場を出た。
榊さんの方は、ずっと見られないままで。
帰ると思ったら、気が抜けたせいか、歩くのも辛くなった。
医者ではその場でインフルエンザの検査をしてくれて、結果は陰性だった。
やっぱり、きのうの寒さが原因らしい。
電車で座ると、立ち上がるのが億劫だった。
薬を飲むために買ったコンビニのサンドイッチは、のどの痛みと気持ちの悪さで3口くらいしか食べられなかった。
とにかく薬を飲んで、着替えて、ベッドにもぐりこんで寝た。
(………。)
目が覚めると、部屋が暗かった。
解熱剤のせいなのか、汗をかいていた。
ぼんやりした頭を動かすと、暗い中にふわりと光が見えた……と思ったら消えた。
(何だ? ……あ、スマホ?)
手を伸ばして枕元を探る。
暗いのは、日が暮れてしまったせいらしい。
何時間もぐっすり眠っていたようだ。
(目が覚めたのはこれのせいか? 仕事で何かあったのかも…。)
ぼんやりしたまま画面に触れる。
そこには着信の知らせがあった。
(誰? ……え?)
表示された名前は<榊 琴音>。
寝ぼけているのかと思って、もう一度見直す。
でも、それは変わらず……。
(え? 今……だよな?)
着信時間は19時35分。
つい1分前。
たぶん、この気配で目が覚めたのだ。
(心配してくれたのかな…?)
ふわふわした頭でそんなことを思って嬉しくなった。
心配させたままじゃ悪いので、すぐに掛け直すことにした。
彼女はすぐに出た。
そして、彼女の声を聞いて幸せな気分になっている俺に謝った。
『あの、ごめんね、具合が悪いのに。寝てたんだよね?』
「あ、いえ。大丈夫です。」
しゃべるとのどが痛い。
でも、帰ってきたときに比べれば、体が楽な気がする。
『そう? あの……、具合、どうかな、と思って。』
「ああ、まあ……それなりです。」
『ええと……、ごめんね。』
「え?」
『きのう、寒い中、ずっと待たせちゃって……。』
(ああ、そうか……。)
榊さんは、自分の責任だと思ってるんだ。
純粋に俺を心配してくれたわけじゃなくて。
「そんなこ……と、こほっ。」
『ああ、ごめん。』
榊さんが電話の向こうで慌ててる。
『あのね、食べるものとか…どうしてるかと思って、買って来たんだけど……。』
「買って……?」
(来た?)
その表現は変だ。
ぼんやりしていても、それくらいは分かる。
「榊さん、今、どこに……?」
『たぶん、紺野さんの部屋の下……。』
(え!?)
急にばっちりと目が覚めた。
急いでベッドから降りて、窓に駆け寄る。
いきなり起き上がって動くなんて、寝起きが悪い俺には、健康なときでも滅多にできないことだ。
カーテンの隙間から下を覗くと、道路の向かいにある電柱の街灯の下に、白っぽい袋を提げた榊さんが見えた。
「ま、間違いなくうちの下です。」
この目で見ても信じられない。
頭の中はいろいろな感情が混じり合ってパニックに陥っている。
なのに口調はそれほどではないのが不思議だ。
『ああ、合ってて良かった。』
ほっとした声と同時に、下の道路の榊さんが建物を見上げた。
「あの、どうぞ上がって来てください。オートロックじゃありませんから。3階の真ん中、303です。」
『うん。食べ物を置いたらすぐに帰るから、散らかしたままでもいいからね。』
「あ、は、はい。」
そう返事をしたものの、頭の中では「そんなわけには行かないだろ!?」と叫んでる。
電話を切りながら照明のスイッチを入れ、床に脱ぎ捨ててあった服を次々と抱える。
置く場所に迷う時間も惜しくて、そのまま全部、脱衣所に入れて扉を閉めた。
テーブルに置きっぱなしだったサンドイッチの残りは冷蔵庫に。
表紙が微妙な雑誌は裏返しに。
ほかに片付けるものがないかと部屋を見回しながら、着ているものの冷たさに気付いた。
汗をかいたままだったので、冷えてしまったらしい。
とりあえず見苦しくないようにパーカーを羽織ったところで呼び鈴が鳴った。
玄関のドアを開けると、少し悲しそうな顔で微笑んでいる榊さんが立っていた。
「ええと、ごめんね、具合が悪いのに。」
榊さんがまた謝った。
全部自分が悪いと思っているんだろう。
きのう、あんなことをしたのは、俺の勝手な行動なのに。
「いいえ。あの、とりあえず、入ってください。」
のどが痛いので、あまりたくさんはしゃべれない。
申し訳ない想いでスリッパを出そうと屈んだら、頭がクラッとした。
思わず壁に片手をついて、目を閉じる。
「だ、大丈夫!?」
目を開けたときには榊さんが目の前にいて、肩に手が置かれていた。
「あたしのことはいいから、紺野さんは休んでて。ああ、本当にごめんね。」
背中を押されるようにして部屋に戻りながら、彼女の優しさがくすぐったくて嬉しくなった。
「熱は?」と尋ねられ、「うーん。」と首を傾げる。
ソファーに座ろうとした俺を彼女はベッドへと向かわせ、腰掛けたところで、額に手を当てられた。
「熱いってほどじゃ……ないかな……?」
榊さんの手がひんやりと気持ちいい。
すぐ横に膝を付いた彼女が俺を寝かせようと布団をめくり……ハッとした様子で動きを止めた。
(あれ!?)
何か見られちゃまずいものが出てきたのかと焦る。
けれど、布団の中には何もない。
「紺野さん、汗かいた?」
「え、あ、はい。」
もしかしたら、臭いのかも知れない。
でも、今日は仕方がないんだけど……。
けれど、焦る俺に彼女が言ったのは、「すぐに着替えなくちゃ。」だった。
「濡れたパジャマのままでいたらダメよ。」
そう言いながら、俺の背中や肩に手を当てて確かめている。
体に触られて、俺は照れくさいのに、彼女は平気な顔。
そこに榊さんの決意みたいなものを感じて、俺はなすがままになっているしかなかった。
榊さんは次々に俺の体調や物のありかを尋ねながら、テキパキと着替えを用意してくれた。
彼女が俺の部屋に来て世話を焼いてくれていることが心地良い。
俺はぼんやりとベッドに座って彼女を見ながら、問われるままに下着の場所も教えた。
「体を拭いた方がいいよ。タオルは?」
「脱衣所の棚に……。」
「ああ、玄関の方だよね?」
彼女が見えなくなってから、脱衣所に服を放り込んだことを思い出した。
驚く声が聞こえるかと思ってひやひやしたけれど、何も聞こえなかったから、見なかったことにしてくれたのだろうとほっとした。
けれど、温かい濡れタオルを持って戻ってきたとき、榊さんはスーツを一緒に持って来て、ハンガーに掛けてくれた。
やっぱり見過ごすことはできなかったらしい。
さすがに体を拭こうかとは言わず、彼女は買ってきたものを片付けるからと言って、玄関の方に行ってしまった。
この部屋は全体に仕切りがないから、見えない場所に移動するしかないのだ。
見えないとは分かっていても、榊さんの気配がする場所で着ている物を脱ぐのはドキドキした。
着替えが終わるとタイミング良く声が掛かって、バスタオルを何枚か抱えた榊さんが戻ってきた。
そして、手早くベッドのシーツをはずし、バスタオルをシーツ代わりに敷く。
それから俺にベッドに入るように言い、掛け布団ですっぽりとくるむと、洗濯物をまとめて運び去った。
脱いだ下着のことを思ってあたふたしたのは、俺だけのようだった。