第二十六話
(帰って来ない……。)
榊さんの使っている駅に着いたのは9時少し前。
8時に終了だった場合の時間を見計らって。
それから一時間半。
まだ彼女は現れない。
(たぶん、2軒目に行ったんだよな……。)
その可能性も考えていた。
だから待つことは構わない。
こうやって行動を起こしてしまったら、気持ちが落ち着いたし。
待っている間に、余計な考えは少しずつ消えて行った。
残っているのは同窓会に対する不安ではなく、榊さんは俺を見て何て言うのだろう、ということ。
理由を尋ねてくれるだろうか?
「どうして?」と言ってくれるだろうか?
それだけを考えている。
(それにしても寒いな。)
雨が降ってくるとは予想外だった。
しかも、風も結構強い。
湿気を含んだ冷たい風が吹きつけてくる。
暖かいつもりで選んだ厚手のニットの上着は、強風に対してはあまり役に立たないようだ。
履いてきたジーンズも、冷たい空気で冷えてしまった。
靴も、ときどき吹きこむ雨で湿って冷たい。
最初は改札口の中で待っていたけれど、なんとなく居づらくなったので外に出てしまった。
自動販売機で暖かい紅茶を買い、改札口が見える場所に陣取っているうちに雨が降り出した。
残念なことに、この駅の改札口は道路に向かって設置してあって、改札口の外側は1.5メートルくらいの屋根があるだけ。
壁際に寄っていても、風は避けられない。
(また中に入るのも、なんかなー……。)
駅員は俺のことなんか見ていないかも知れない。
でも、変なところで格好が悪いと思ってしまう。
榊さんに連絡して何時に帰るのか訊くのも変だし……。
(あー、寒い。)
手が冷たい。
首や耳に風が当たるとぞくぞくする。
手袋やマフラーはまだ早いと思ってたけど、遅くなる可能性は分かっていたんだから……。
(とにかく、榊さんの顔を見るまでは。)
ここまで待ったんだから、あとどれくらい待っても同じことだ。
(あ。)
ホームからの階段を降りてきた彼女を見付けたのは、11時を少し過ぎたとき。
体が芯まで冷えてしまったらしく、奥歯を噛みしめずにはいられなくなっていた。
そろそろ諦めた方がいいかと弱気になり始めたときだったのでほっとした。
榊さんは見慣れたベージュのトレンチコートに今日は大きなストールを巻いて、バッグの中を探りながら足早に歩いて来る。
毛先がくるりと丸まった髪が、肩の上でふわふわと揺れている。
(榊さん!)
名前を呼んで手を振りたいのをどうにかこらえる。
榊さん本人を見たらなんだかひたすら嬉しくて、自分が何をしに来たのか忘れそうになった。
バッグからパスケースと折りたたみ傘を取り出した彼女が顔を上げた。
と同時に、目を丸くして立ち止まる。
(びっくりしてる。当然だよな。)
俺に視線を向けたまま小走りに改札を抜けてくる榊さん。
その彼女に小さく頭を下げた。
「お、お帰りなさい。」
寒さをこらえてずっとあごに力を入れていたので、上手くしゃべれなかった。
一言言ったあと、背中に悪寒が走った。
「紺野さん……、何してるの?」
“信じられない” という表情で榊さんが言った。
理由を尋ねてもらえなかったことで、心の中に失望が広がる。
(でも、まだ分からない。)
「榊さんを待ってたんです。」
「『待ってた』って……何時から?」
「ええと…9時、かな。」
「9時!?」
彼女が慌てて腕時計を確かめる。
「今11時過ぎだよ!? 2時間以上も!?」
「はい。」
「こんなに寒くて……、雨も降って来ちゃったのに……。」
俺を見つめる目が悲しそうだ。
彼女はどうしたらいいのか分からないでいる。
(ダメか……。)
胸の中でため息をつく。
今日はこれで終わりにしよう。
「ノート男には会ったんですか?」
笑顔を作って尋ねると、榊さんは「え?」と首を傾げた。
「ほら、榊さんが会いたくないって言ってたヤツですよ。」
「あ、ああ、あのひと。」
一瞬、彼女に苦々しい表情が浮かぶ。
でもそれはすぐに、諦めたような微笑みに変わってしまった。
「ううん、遠くから見ただけ。来てるのを確認して、あとは隠れてた。」
「そうですか。お疲れさまでした。」
「あ。」
彼女が何かに気付いたように、心配そうな顔で俺を見た。
「もしかして、あの話を心配して来てくれたの?」
(ああ、そう来ましたか。)
当然だと思ったら、自分が笑えてきた。
だって、ほかに解釈のしようがないじゃないか。
「ええ、そうです。」
笑っている俺とは反対に、彼女はしょんぼりとうなだれた。
「ごめんなさい。やっぱりあんなこと話さなければよかった。」
「榊さん、違います。」
彼女に自分を責めてほしくなんかない。
「俺が勝手に心配しただけです。どうせ暇なんだからいいんですよ。ね?」
上を向いた榊さんは、それでも悲しそうな顔をしている。
慰めたくて、その頬に指先で軽く触れた。
「榊さんの無事を確認したから帰ります。じゃあ ――― 」
「待って。」
気付いたら、彼女が俺の手をつかんでいた。
(あ……。)
両手で俺の手をそっと包むように握り、見つめる彼女。
その真剣な表情の意味は……?
(榊……さん……?)
「紺野さん。」
訴えるように俺を見上げる。
そして、俺の頬を包むように片手を当てる。
「……はい。」
(いったい何を?)
頬に当てられた手から、じんわりと温かさが伝わってくる。
(俺の気持ちが通じたのか……?)
奇跡が起こっているんじゃないかと、信じられない気持ちでいっぱいだ。
次に彼女が何を言うのかと、そっとその顔を見つめる。
「手が冷たいよ。顔も。」
「え……?」
自分の予想とかけ離れすぎていたせいか、何を言われているのか分からなかった。
「手袋は持ってないの? 傘は持って来た?」
「え……? え? あ、い、いいえ。」
ようやく理解して首を横に振ると、榊さんがテキパキと動き出した。
「じゃあ、このストールを貸してあげる。首があったかいとかなり違うから。」
「あ、ああ、はい。」
茶色と黒のストールが肩から首へと手際よく巻かれた。
「あと、この傘を持って行って。」
「え、でも。」
「大丈夫。あたしのうちはすぐそこだから。」
「あ……、だけど……。」
「ダメ。ピンク色だからってささないで帰ったりしちゃダメだよ。必ずちゃんと使って。分かった?」
まるで姉のような言い方だ。
そして、言われている俺は弟の気分。
「はい……。」
「それから、帰ったらすぐにお風呂に入って。」
「はい。」
「体がちゃんと温まるまで出ちゃダメだからね。」
「はい。」
「よし。じゃあね。」
頷きながら俺を見上げた榊さんは、決意に満ちた顔をしていた。
けれど、次の瞬間、それが優しく、心配そうな表情に変わった。
「大丈夫? 風邪ひかない?」
「大丈夫です。」
請け合うと、榊さんがほっとしたように頷く。
「分かった。じゃあ、早く帰って。」
「はい。おやすみなさい。」
改札口を入って振り向くと、心配顔の榊さんが小さく手を振ってくれた。
それに手を振り返し、ホームへの階段を上る。
かじかんだ手がパスケースを上手くポケットに入れられずに何度も探る。
(言ってくれなかったな……。)
彼女が見えなくなると、淋しい気持ちが湧いてきた。
俺の行動の理由を尋ねてもらえなかったことで。
(まあ、優しくしてもらえたからいいのかな……。)
びっくりさせてしまったし。
俺のことを心配してくれたのは間違いないし。
(うわ、寒い。)
風が吹き抜けるホームに出たら、寒さが一層身に沁みた。
頭の後ろがぞくぞくして、手は動かしにくいし、つま先には感覚がない。
(ダメだ。本当に冷えちゃったみたいだ。)
首に巻かれたストールに頬を当ててみる。
少しだけ、彼女の温もりが残っているような気がした。