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第二十二話


残業は本当だった。

そして、休んでいる人の代わり、ということも。


(言われてみれば、最近、見なかったもんなー……。)


俺のあとに入った新人の姿を。


流行に突入する前のインフルエンザをどこかでもらったらしい。

熱を出しながら出勤してきた彼を、係長が、ほかの社員にうつされるのが一番困ると説得して家に帰したのがおとといのこと。

無理して出てきたせいで悪化して、まだ熱が高いとか。


「榊さんは大丈夫なんですか?」

「うつらなかったかってこと? 大丈夫みたい。」


榊さんは微笑んだ。


確かにこの3年間、彼女が病気で休んだという記憶がない。

普段から “うがい、手洗い” を欠かさない習慣が身についているからだと彼女は言う。

それがそれほど効果があるのかは分からないけれど、きちんと健康管理ができるところも、社会人として、俺は尊敬している。


急に休むことになってしまった新人は、期限のある仕事が片付いていなかったそうだ。

彼の教育係でもある榊さんがそれに今朝になってから気付き、大急ぎでやっていると言った。


「手伝いましょうか?」


去年まで俺が担当していた業務で、難しくはないけれど面倒だ。

それに、他人のパソコンは、保存してあるデータを見付けることに時間がかかることがある。


「ううん、大丈夫。」


榊さんは笑顔で言った。


「紺野さんだって自分の仕事があるでしょう? 最終の締め切りは月曜日だから、なんとかなるよ。」


そう言われたら、それ以上は言えない。

それに、仕事のできる榊さんのことだから、本当に大丈夫なのだろう。


残念ではあるけれど、仕事のあとに軽くどこかに寄るくらいはできるかも知れない。

望みをかけて、彼女の様子を見ながら、俺も残って仕事をすることにした。




「ちょっと地下倉庫に行ってきます。」


そんな声が聞こえたのはもうすぐ9時になるという頃。

声の主は榊さん。

庶務係でこの時間まで残っているのは、あとは係長だけ。


「あ、僕はそろそろ帰ろうと思ってたんだけど……。」

「そうなんですか。わたしのことは気にしないで、どうぞお先に上がってください。」

「そう…? 夜だけど、倉庫、一人で大丈夫?」


係長の言葉に俺の手が止まる。


(まさか一緒に行くつもりか……?)


庶務係長はいい人だけど、こんな時間に榊さんと二人だけで、地下倉庫なんかに行ってほしくない。

節電で蛍光灯をあちこち抜いてある倉庫は、電気を点けても薄暗い。

そんな場所で二人きりなんて……。


警戒した俺の耳に聞こえてきたのは、榊さんの気楽な返事だった。


「はい、大丈夫です。もともと地下なんですから、昼も夜も変わりありませんよ。それに、ファイルを見付けたら持ってきて、ここで調べるつもりですから。」

「そう?」

「はい。ですから、どうぞご遠慮なく帰ってください。じゃあ、行ってきます。お疲れさまでした。」

「はい、気を付けて。」


鍵箱から鍵を出し、なんとなく楽しげな足取りで榊さんがカウンターから出て行く。

その姿をこっそりと目で追いながら、今度は一人で行くのが危険な気がして、胸がざわざわしてしまった。




(帰って来ない……。)


榊さんが出て行ってから15分以上過ぎた。

エレベーターの待ち時間を考えたら、これくらいで遅いとは言えないかも知れないけど……。


(でも、時間はかからないって言ってたし……。)


榊さんは、あの倉庫で資料を探すことには慣れている。

それに普段から、書類や失せ物を見付け出すのが上手なひとだ。

だから、倉庫にたどり着いてから2、3分もあれば、目当てのものは見付けられるはずだと思う。


(どうしよう?)


庶務係長はさっき帰ってしまった。

うちの課で残っているのは、俺ともう一人。

彼女の心配をしているのは俺だけ。


(心配し過ぎかな……。)


でも、昼間でもあまり人の来ない地下倉庫を思い浮かべたら、心配せずにはいられない。

何かがあっても、誰も助けに来てくれそうもない。


(何かが……って……。)


可能性のある災難が次々と頭に浮かんでくる。

こんな状態では仕事に集中できない。


(あと1分待ってみよう。)


もう戻るかも、今にもエレベーターが到着するかも、と、そわそわしながら廊下を気にしてる。

1分が過ぎて、もう1分、もう1分…と時計の秒針を見つめて。


(やっぱり遅い。見に行こう。)


20分が経過したところで、思い切って席を立つ。

一つあけた向かいの席で仕事をしている六田さんに「地下倉庫に行ってきます。」と言うと、不思議な顔をされた。


「地下倉庫? 今?」

「はい。さっき、榊さんが行ったきり、戻って来ないんです。」

「え?」


六田さんが榊さんの席を振り返った。


「榊さん、地下倉庫に行ったの? 一人で?」

「はい。」

「勇気あるなあ。こんな時間には、俺は無理だ〜。」

「え、そうですか?」

「だって、何か出そうじゃん?」


怖そうに声をひそめてそう言って、両腕をさする。

そして、「早く見に行ってあげた方がいいよ。」と言ってくれた。


六田さんの言葉と表情で、俺もなんだか気味が悪くなってしまった。

でもとにかく、今、怖い場所にいるのは榊さんだ。

急いで鍵箱に行き、中を確認する。


(なくなってるのは……3番だな。)


念のためスペアキーを持ち、急ぎ足でエレベーターへ。

やって来たエレベーターに乗り込みながら、行き違いになるならそれでもいいやと思う。

行き違いになるってことは、彼女が無事だってことなんだから。




ポ――――ン…。


六田さんの話を聞いたせいか、エレベーターの到着音が、いつもよりも元気がないような気がした。

エレベーターから出ると、地下の廊下はひんやりと冷たい。

ほぼ無音の細長い空間では、低い天井のむき出しの蛍光灯が、なんとなく悪意を持って人間を監視しているように感じられる。


(気持ち悪……。)


今までも夜に来たことはあるけど、こんなに嫌な気分になったことはなかった。

この先の倉庫に、榊さんは一人でいる……。


(3番……だったな。)


倉庫は廊下の左側に、手前から1番から5番まで並んでいる。

右側は機械室や空調室、清掃業者さん用の荷物置き場など、一般の社員にはほとんど無縁の場所。

自分の足音が響くことさえ気味が悪くて、そうっと歩いて3番倉庫のドアに到着。


(まだいるのかな……。)


やっぱり音を立てる気になれなくて、静かにドアノブに力を込める。

鍵が締まっていたとしても中を確認したい……と思ったと同時にドアノブが回った。

ということは、榊さんはまだ中にいるってことだ。


ゆっくりとドアを引く。

頭が入る幅くらい開けて中をのぞくと、電気が点いていた。

どこか奥の方で、カサ…、と、紙がこすれる音がした。


(無事みたいだ……。)


ほっ、と、体の力が抜けた。


左右にある何本もの棚にファイルや段ボールが詰め込んである倉庫は見通しが利かない。

まずは声をかけようと思いながら、ドアを大きく開いた。


キィ…………。


ドアが軋む音。

そのとき ――― 。


「きゃっ! なにっ!?」


悲鳴と、ドサドサッと何か重いものが落ちる音。


(何か出たのか!?)


咄嗟に浮かんだのはゴキブリとかネズミとかクモとか、そんなもの。

でも、もしかしたら……。


「大丈夫ですかっ!?」


左右の棚のあいだを覗きながら急いで奥へ。

すると、右側の奥から二つ目の棚のあいだの突き当たりに、壁に背中を押しつけて立っている榊さんがいた。

足元には分厚いファイルが何冊か落ちている。


「怪我はありませんか? 大丈夫ですか?」

「こ、紺野さん……。」


近付く俺を呆然と見ながら、俺の名前をつぶやく彼女。

あまりの驚きに、微笑む余裕はないらしい。


「急に音がして……。」


そこで彼女は言葉を切って、大きく息を吸う。


「怖かった……。」


両手を胸に当てて、ほうっとため息をついた。


(もしかして、俺か……?)


さっきのドアの軋んだ音。

彼女を怖がらせたのはあれだったのだ。


(そうだよな……。)


そうっとドアを開けて、無言で覗いてたんだから。

誰もいないと思っていた榊さんが驚くのは無理もない。

それに、もし泥棒や変質者に間違えられても文句は言えない。


「すみませんでした。」


謝りながら、彼女の足元に落ちていたファイルを拾う。


「戻ってくるのが遅いから、念のために見に来たんです。」

「ああ、そうだったの。ありがとう。」


ホッとした様子で彼女が微笑む。


「遡って見てたら、時間がかかっちゃった。本当はファイルを持って戻ろうと思ってたんだけど、意外に重かったから、ここで見ちゃおうと思って。」

「そうだったんですか。どうしますか? せっかくですから俺が持ちますけど?」

「あ、いいの。もうだいたい終わり ――― 」


榊さんが急に言葉を切った。

俺が抱えているファイルを受け取ろうとした彼女の指が、俺の指に重なっている。

彼女は目を見開いて、俺を見上げた……。







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