第二十話
「はあ………。」
自分の部屋でソファーにぼんやりと座り、もう何回めになるか分からない満足の吐息をつく。
デパートから帰って来てからずっとこの状態。
かれこれ一時間、リュックは足元に置いたままだし、上着も脱いでいない。
あんまり幸せで、ずっと今日の思い出に浸っていたい。
(出だしから良かったよな〜。)
榊さんの服装、そして走って来る姿、内気そうに俺を見上げた目。
すべて完璧!
(俺の服も「似合う」って言ってくれたし。)
思い出した途端、にや〜、と笑いが浮かんでくる。
お互いの私服もOKってことだ。
榊さんの方は、そんなチェックをしているつもりではなかったのだろうけど。
行き先をデパートの靴売り場にしたのも、思い付きだったけれど成功だった。
俺があの場に不釣り合いなことで弱気になって、自然に榊さんを頼る結果になったから。
(笑われちゃったけどさ〜。)
でも、あの笑い方は絶対に、俺に好感を抱いてくれている笑い方だ。
まあ、ほぼ保護者気分だったんだろうけど。
それでも構わない。今日のところは。
榊さんが、プライベートで休日に会ってくれたってことが重要なんだから。
(それに、楽しかったんだから……。)
思い出すと、またにやにやしてしまう。
あの靴売り場で、榊さんは何足も靴を見ていた。
たぶん、あそこに40分くらいいたと思う。
試しに履いてみた靴もあった。
でも、1足も買わなかった。
「うーん、今日はいいや。」
と言われたときには、俺に遠慮しているのかと思った。
でも、そうじゃないと言われて、あんなにいっぱいあるのに気に入った靴がないのかと驚いた。
そんな俺を見て、榊さんは急に罪悪感を感じたらしい。
自分の用事に俺の時間を使ってしまったと思って。
だから、たぶん俺を解放するつもりで、俺の予定を訊いたんだと思う。
俺は大急ぎで考えて、「デパートの中を見てみたい。」と答えた。
それだけでは伝わらないかも知れないと焦って、「よかったら、案内してもらえませんか。」と付け加えた。
(大成功だったよ……。)
実際に、俺はデパートはほとんど行ったことがなかった。
それに、もうすでにその場にいるわけだし、そこまでの様子で、榊さんは俺を一人にするのは可哀想だと思ってくれたらしい。
そのまま一緒に、昼飯をはさんで午後までかかって、デパート中を案内してくれたのだ!
(最後にあんみつまで食べたしなあ……。)
どの売り場に行っても楽しかった。
雑貨やインテリア、アクセサリーや高級ブランドショップ、子供服に化粧品、なんでも。
冗談を言ったり、値段に驚いたり、場違いな気がして尻込みする俺を彼女が笑ったり。
ときどき真剣に商品を見比べている彼女を、隣で見ているのも幸せな気分だった。
でも、何と言ってもメインの出来事は紳士服売り場でのこと。
色とりどりのネクタイ売り場で榊さんはとてもはしゃいでいて、「綺麗な色♪」なんて言いながら次々と手に取っていた。
すると、若くて見栄えのいい男性店員がワイシャツを1枚持って、「どうぞ合わせてみてください。」と、にこやかに話しかけてきた。
俺が柄のシャツを着ていたから、実際にあててみるためにワイシャツを持ってきてくれたのだ。
すると、彼女の何かが変わった。
慣れた手つきでネクタイをワイシャツに合わせて見せる店員には、笑顔で「ええ。」とか「ああ、本当だ。」なんてうなずいている。
でも、さっきまでとはどこか違う。
そう気付いた途端に悟った。
それが、苦手な男に対する態度なのだと。
礼儀正しい笑顔と相槌。
でも、自分から質問することはない。
棚のネクタイを手に取ることも。
彼女はその店員に近付きたくなかったのだ。
俺はすぐに、「そろそろ行きましょうか。」と声をかけた。
彼女は礼儀正しい笑顔でうなずき、愛想よく店員にお礼を言った。
彼女を守るようなつもりで歩きながら、自分が彼女のわずかな変化に気付いたことが誇らしかった。
気付いて、彼女を助けることができたことが嬉しかった。
彼女の役に立てたことが。
そして……。
彼女が俺には気を許してくれていることがはっきりと分かって、これからの可能性を考えて幸せになった。
彼女の態度が変わったのに気付いたことは、榊さんには言わなかった。
これからも言わないでいるつもりだ。
俺には気付かれていないと思っているから。
本当は、俺が役に立つことをアピールしたい。
でも、あのとき彼女は、俺に助けを求めなかった。
俺の方をちらりとも見なかった。
まだ、俺を頼りには思ってくれていないのだ。
そんな彼女に優しさの押し売りはしたくない。
そこは俺のプライドでもある。
もちろん、俺の気持ちに気付いて、自然に感謝してくれるなら嬉しい。
けれど、自分に厳しい榊さんのことだから、自分の “苦手” が他人に知られるほど態度に出ていると知って、ますますああいう場面で我慢してしまうかも知れない。
そんなことになったら可哀想だ。
(それにしても、あれほど苦手だなんて……。)
はっきりとこの目で見たのは初めてだ。
買うつもりはないのだと断る言葉も口にできないまま、笑顔で話を聞いていた。
いかにも熱心そうな表情を作っていながら、一定以上は近付く気配はなく、それどころか後ろに下がり気味だった。
(結構なイケメンだったのに……。)
あの店員ほどの見かけであっても、彼女にとっては単なる困惑のもとだということだ。
いや。
困惑よりももっと重症な感じがする。
やっぱり怖いんじゃないだろうか?
(仕事では慣れもあるし、あくまでも用事を通してのやりとりで済むけど……。)
いつか彼女が言っていたように、苦手な相手がいる場所には近付かないでいればいい。
でも、今日みたいに予想外の出来事ということもある。
そりゃあ、誰だって、苦手なことをすべて避けて生きていけるわけじゃない。
だけど、俺が一緒にいることで榊さんの苦痛を減らせるなら、そうしてあげたい。
そうさせて欲しい。
苦手な男のことだけじゃなく、日々の小さなことでも。
(まだ当分は無理なのかな……。)
そう思ったら、小さな棘が刺さったように胸が疼いた。
おやつにあんみつを食べながら、いろいろなものを見ただけで何も買わなかった榊さんに、俺は「いいんですか?」と尋ねた。
普段は買えない重い物やかさばる物でも、今日は俺が持ちますから、と。
彼女の降りる駅は俺の帰り道の途中でもあるし、住んでいるマンションは駅から3分程度と聞いている。
部屋までじゃなくても、改札口か電車を降りるまででも、店を見て回っている間だけでもいいから、彼女の役に立ちたかった。
そう言った俺に、榊さんは「ありがとう。」と言った。
優しく微笑んで。
その言葉と微笑みに、俺は少し悲しくなった。
なぜなら、彼女が俺に頼るつもりがないことが分かったから。
“あなたの気持ちを有り難く思う。”
そう、彼女の表情は告げていた。
同時に、
“でも、大丈夫。”
と。
(そう言えば……。)
「フフ…。」
思い出したことがあって、思わず苦笑してしまう。
以前付き合っていた彼女と別れたとき、別れた理由を榊さんに尋ねられて、「甘ったれだから」だと答えたのだった。
蛍光灯が切れたから替えに来てほしいと言われた話をして、「榊さんならそんなことで彼氏を呼びますか?」と逆に訊いた。
榊さんは「そんなことしない。」と言い、俺はその答えに我が意を得たりと思った。
なのに……。
(今は、榊さんの役に立てるなら、どんなことでもしたい。)
荷物を持ってあげることでも。
切れた蛍光灯を替えることでも。
「ゴキブリが出たから退治しに来て!」なんていう依頼でも。
(気持ちの問題なんだな……。)
何を頼まれたか、ではなく、誰に頼まれたか。
特に榊さんの場合、普段は他人をあてにしない人だから、頼まれること自体に価値があるような気がする。
頭の中に、おろおろしながら電話をかけている榊さんの姿を思い浮かべてみる。
キッチンの白い明かりの下で、大きな身振りで、叫び出したいのをこらえながら窮状を訴えている姿。
その電話の相手は俺。
俺は彼女の話を聞きながら、すでに出かける準備を始めている ――― 。
(可能性は十分にある。)
自分に言い聞かせた。
(今日の感触なら十分に。)
楽しくて幸せだった時間。
ただ……。
(同窓会まであと2週間。)
カレンダーは、ノート男の存在を決して忘れさせてはくれなかった。