第十九話
開店と同時にデパートに入るのは初めてだ。
榊さんに導かれてほかのお客さんのあとから売り場を抜けて行くと、ところどころに立った店員さんが、「いらっしゃいませ。」と丁寧にお辞儀をしてくれた。
慣れない俺は、それに「あ、どうも。」なんて返しそうになりながら、前を行く榊さんについて行く。
「まだ空いてそうだね。」
上りエスカレーターの一段上に立った榊さんが振り向いて言った。
こうやって前後に並んで乗ると、自分が榊さんを守っているような気がして気分がいい。
「きのうから考えてたんだけど…」
「はい。」
まっすぐに見つめてくる榊さんに、自分の思う最高に優しい笑顔を向ける。
「彼女と一緒に来たことなかったの?」
「……え?」
予想しなかった質問だ。
表情を取り繕う余裕がなかった。
2階に到着したエスカレーターから降りて進みながら、当たり前の話題のように榊さんが続ける。
「ほら、長く付き合ってたんだから、一緒に服とか靴とか見に行ったんじゃないかと思って。」
「あ、ああ……。」
(焼きもちは焼いてくれないんだ……。)
がっかりしたけれど、今日のところは仕方ない。
それに、こういうことに遠慮しないところが榊さんなんだし、俺はそんなところも好きなんだから。
「見に行ったことはあるんですけど、あんまり興味がなくて。」
でもここは、別れた彼女とはそれほど仲が良かったわけじゃないと言っておきたい。
そして、まったく未練はないのだと。
なのに。
「ああ、そうだよね。彼女と一緒のときは、他のことはどうでもいいよね。」
榊さんの解釈はぜんぜんずれていた。
「いえ、そうじゃ ――― 」
「ほら、ここなの。広いでしょう?」
(俺の話は……?)
誤解を解くことができないまま、立ち止まった榊さんの後ろから彼女の視線を追う……と。
「ホントだ……。」
その階の売り場の約半分を女性用の靴の棚が埋めていた。
4段から5段くらいのいろいろな向きに配置してある棚全部に、黒や茶色の靴、靴、靴。
中央の柱を囲んだ棚には長いブーツが何十足も、そして短いブーツもあちこちに。
その合間には、一人掛けのソファーがあちこちに置いてある。
「男用の靴売り場って、この半分……いや、4分の1くらいしかないんじゃないかな。」
「そうなの? でも、まあ、ここは特に広いから。」
一番近い棚に歩み寄る榊さんについて行くと、棚の間にいた女性店員と目が合ってしまった。
営業用の笑顔で会釈されて、ドキドキしてしまう。
榊さんから離れないように気を付けながら周囲を見回すと、目立たない制服を着た店員がたくさんいて驚いた。
客よりも店員の方が多いような気がする。
「榊さん。」
「ん〜?」
なんとなく小声で呼ぶと、茶色い靴を熱心に調べていた榊さんは、振り向かずに返事をした。
「なんでお店の人があんなにたくさんいるんですか?」
「え?」
手に靴を持ったまま、榊さんが売り場を見回す。
「普通じゃない? 混んでくると店員さんを探すのが大変なんだよ。」
「そうなんですか……。」
話がよく飲み込めない。
「そうだ。靴を買いに来たわけじゃないんだったよね。」
そう言いながら彼女は持っていた靴を戻し、もう一度売り場を見回した。
俺もつられてよく見渡してみると、黒いスーツを着た男性店員がゆっくりと歩いていることに気付いた。
見える範囲に2人。
若者という雰囲気ではない。30代後半から40代くらいか。
「榊さ ――― あれ?」
隣に榊さんはいなかった。
慌てて見回すと、店員と話している客が何組かいるのに気付いた。
棚を見ている客も増えてきている。
(女の人ばっかり。しかも俺、浮いてるし……。)
女性よりは頭一つ分くらい背が高い俺は、いるだけで目立つ。
しかも、着ている服は赤系チェックのシャツにジーンズ、それにリュック。
デパートに来ている女性たちのシックな服装とは明らかに雰囲気が違う。
(榊さ〜ん!)
限りなく心細い!
早く見付けなくちゃと焦って体の向きを変えたとき、左手の奥にある縦長の鏡に映っている彼女を見付けた。
柱の裏側で、屈んで靴を選んでいる。
「榊さん。一人で行かないでください。」
慌てて突進して半分泣き声で訴えると、榊さんは「あ、ごめん。」と笑った。
「靴って何足あっても足りないのよねー。今日は買うつもりじゃなかったのに。」
そう言いながら、また次の棚へと歩き出す。
と思ったら、ふと立ち止まった。
「店員さんを観察するなら、その辺の椅子に座ってる? あたし、せっかくだから一回り ――― 」
「嫌です。俺も一緒に行きます。」
「でも、面白くないと思うけど……?」
「こんなところで一人になりたくないです。」
「そう?」
「だって俺、なんか浮いてますよ?」
置いて行かれるのかと思ったら、体裁も何も構っていられない。
何がなんでもここで一人は嫌だ。
そう思って必死で訴えると、榊さんが俺を頭のてっぺんから足元までゆっくりと見た。
「……たしかに。」
そして、くすっと笑って。
「無理矢理、荷物持ちに連れて来られた弟みたいね。」
(弟……。)
この服を選んだのは、まさにそんな風に見えることを考えて、だ。
榊さんの警戒を解くため。
だけど……はっきり言われると、やっぱりちょっとがっかりする。
でも。
「荷物持ちでも何でもしますから、絶対に一人にしないでください。」
がっかりした気持ちを捨てて訴える。
弱気でも、みっともなくても仕方ない。
とにかく今は、一人は嫌だ。
「はい、分かりました。」
榊さんが、にこっと俺に笑顔を向けた。
「よく考えたら、紺野さんの用事で来たんだものね。ごめんなさ……あ。」
言葉を切った彼女が、少し先に視線を向けながら俺の腕をたたいた。
「ほら、あそこ。」
彼女の視線を追うと、若い女性客が男の店員と話している。
店員の手にはリボンの付いた黒い靴。
「行こう。」
「え? はい。」
何気ない様子で歩き出した榊さんについてそちらに向かう。
その間に、男の店員はどこかに行ってしまった。
後に残った女性客は、また棚の靴を物色し始めた。
「いなくなっちゃいましたよ?」
そのすぐ近くの棚で靴を見始めた榊さんに、こっそりと囁く。
すると彼女も小声で
「すぐに戻ってくるから。」
と言った。
その言葉通り、男の店員が靴の箱と片方の靴を持って戻って来た。
そして、迷わずさっきの女性客に歩み寄ると、近くのソファーを手で示し、女性客がそこに座る。
その足元に店員がひざまずいた。
(おお……。)
店員は笑顔で何か話しかけながら箱を開け、中を女性に見せると、靴の詰め物を出し始める。
ひざまずいているからと言って、べつに家来っぽく見えるわけじゃない。
いやらしい感じもしない。
だけど、俺の目には新鮮だ。
(へえ……。)
ツンツン、と、袖を引っ張られた。
急に、自分がどれほどその光景に見入っていたのか気付いて恥ずかしくなった。
隣では榊さんの目が笑っている。
「ちょっと移動するよ?」
「はい……。」
そこの棚をぐるりと回り込んで反対側へ。
すると、今度は座った女性が正面から見える位置だった。
また靴を物色し始めた榊さんについて歩きながら、ちらちらとそちらを観察する……と。
(あれか……。)
試し履きしていた靴には、足首のところにベルトが付いていた。
それを店員が留めようとしている。
そのあとも、靴の大きさを確かめるように、あちこちを押したり触ったりする。
もちろん靴の上からだけど。
「ああ、そうそう、あれなの。分かる?」
榊さんが隣で囁いた。
「あれがどうも苦手でね。距離が近過ぎるんだよね。」
言われてみると、そうかも知れない。
座っている膝の前のあたりに相手の顔があるわけだし。
今のお客さんはタイツをはいているけど、夏には素足の人もいるし、スカートが短い人だっているはずだ。
だから男の店員はあんまり若くないのかな?
「榊さんはいつも ――― 」
話しかけながら隣を見ると…。
(またいない!)
今まで話していたのに! と思いながら焦って見回す。
すると、一つ隣の棚の前で、赤い靴を手にしている榊さんを見付けた。
(榊さ〜ん! 一人にしないでって言ったのに!)
心の中で叫びながら近づくと、こちらを向いた彼女が軽く握った手で口元を押さえて顔をそむけた。
(笑うなんてあんまりだ!)
俺の顔を見て、言いたいことが分かったらしい。
「ごめんね。あんまり焦った顔してるから。」
「だって、いつの間にかいなくなっちゃうし。」
申し訳程度に謝る榊さんに、思わず抗議してしまう。
でも。
「そんなに慌てなくても大丈夫。置いて行ったりしないから。」
「約束ですよ? 忘れないでくださいよ?」
「うん。分かった。」
機嫌を取るように優しく微笑んでもらったら、たちまち嬉しくなってしまった。
それに、目的のものは見たし、あとはこのまま靴を選ぶ榊さんにくっついていれば、成り行き的にランチには行けそうだ♪