第十六話
朝食を食べる気にはなれなかったので、家を早く出ることができた。
とにかく、朝一番で謝りたい。
歩いてみたら、頭痛も薄らいできたのでほっとした。
どこで待とうかとウロウロした末に、職場に到着した榊さんをカウンターの前でつかまえることができた。
そのままエレベーターとは反対方向に引っ張って行き、廊下の隅で頭を下げる。
「きのうはすみませんでした。」
「え、やだ、そんな。謝らないでよ。」
榊さんが慌てて俺を遮る。
「いいえ。本当にすみません。あの、タクシー代出してもらっちゃってますよね? 俺、払います。」
そう言って、榊さんが出した金額を訊いたのに、最初は笑って教えてくれなかった。
しつこく尋ねて、ようやく「五千円。」と答えてくれて、さらにやっと「三千円だけ」と、受け取ってくれた。
俺のせいでタクシーに乗ることになったことを思うと、本当は全額出したかったんだけど。
恐縮する俺に、榊さんがいつもと同じように爽やかに微笑む。
「楽しかったからいいんだよ。お料理も美味しかったし、そもそも “景気付け” って言ったじゃない?」
笑いながらそう言った榊さんは、まるで俺をあやしているみたいに見える。
落ち込んでいる俺を慰めようとしているように。
そんなことをされている自分が、ますます情けなくなる。
「でも、榊さん、途中で飲み過ぎじゃないかって言ってくれましたよね?」
「ああ、そうだったね。」
「なのにまっすぐ歩けないほど酔っ払って、タクシーに乗せてもらうなんて……。」
「たまにはいいじゃない? そういうことがあっても。」
「でも…、榊さんに世話をかけっぱなしで。」
「そんなこと。」
「ふふっ。」と笑って、榊さんは言った。
「気にしないで。あたしも気にしてないから。」
(気にしてない……。)
ズキン、と、胸が痛んだ。
悲しさとやり切れなさが入り混じる。
下を向いて黙っている俺を、榊さんが覗き込んだ。
優しく、元気付けるような笑顔で。
親切な先輩の顔で。
「若いんだもの、飲みすぎちゃうことだってあるでしょう? だから ――― 」
「どうしてですか?」
「……え?」
榊さんかが不思議そうな表情をして言葉を切った。
「どうして怒らないんですか?」
「え、あの……?」
榊さんが戸惑っていることが分かる。
その戸惑いそのものが、俺を傷付ける。
「俺がどんな失敗をしようと関係ないってことですか?」
「いえ、そ ――― 」
「俺には期待してないってことですか?」
まっすぐに榊さんを見つめて言い切った。
俺の言葉と視線を受けて、榊さんは、どうしたらいいのか分からない、という表情をしていた。
(俺に言いたいことなんかないんだ。俺のことなんかどうでもいいから。)
苦々しい気持ちで視線をはずす。
「すみませんでした。」
返事を待たずに自分の席に戻った。
そのままずっと、落ち込んだ気分が続く。
隣の女性に冗談を言われたときも、昼食を同期の友人と食べたときも、心から笑うことができなかった。
仕事中は書類やデータに集中していることができるから気が楽だ。
いつの間にか出口のない思考の中に入り込んでいても、誰にも気付かれないし。
近くを通った榊さんが、俺を見ていることには何度か気付いた。
でも、俺は一度も彼女の方は見ないままでいた。
だって、見られるわけがない。
あんな失礼なことを言っておきながら。
それに、怖い。
もしも軽蔑の色が浮かんでいたりしたら。
憐みの表情も。
それは俺の希望を完全に打ち砕くものだから。
その日、俺は給湯室やエレベーターでも榊さんと一緒にならないように、細心の注意を払った。
翌日の金曜日も同じように過ごした。
そんなことをしても、胸の痛みがやわらぐことはなかった。
逆に、今まで親しくしてくれていた榊さんに対する罪悪感がつのるだけ。
それに、このままでは二度と口を利けなくなってしまうかも知れないと気付いて、だんだん不安になってきた。
「榊と喧嘩したんだって?」
午後も半ばを過ぎたころ、廊下で会った槙瀬さんが笑いながらこっそりと話しかけてきた。
一方的に彼女を責めてしまった俺は、 “喧嘩” という言葉には頷けなかった。
それに、そのことを彼女が槙瀬さんに話したということにも複雑な気持ちになって。
俺の頑なな表情を見て、槙瀬さんは笑った。
「気にするなよ。榊もたまにはそういうことがあった方がいいんだから。」
からかうようにそう言った槙瀬さんが恨めしくなる。
まるで槙瀬さんだけが、榊さんのことを理解していると言われているようで。
一方で、拗ねていることしかできない自分を思うと、情けなくて悲しくなってしまった。
(榊さんが悪いんだ。)
夕方になり、こんなに悲しい気分で週末を迎えるのかと思ったら、思わず胸の中でつぶやいていた。
子どもの理屈だと分かってる。
本当に悪いのは自分だって。
だけど、榊さんだって、あれから何も言ってくれない。
あのときだって、……飲み過ぎたことだって、榊さんは怒らなかった。
俺のことなんかどうでもいいんだ。
俺には最初から期待してないから。
(そうだよ。)
だいたい、榊さんはおかしいんだ。
誰に対しても怒ったりしないなんて。
誰に対しても……。
(……?)
誰に対しても怒らないってことは、誰に対しても期待しないってことか?
最初から期待してないから腹も立たない……?
(そうなのか……?)
そっと目を上げて、隣の島で仕事をしている榊さんを見た。
彼女をちゃんと見るのは、きのうの朝以来初めてのこと。
いつもどおりの柔らかい表情でパソコンに向かっている榊さん。
そこにやって来た人事課の社員に書類を見せられて、指をさしながら何かを話し始めた。
その親切で感じの良い態度は、彼女と知り合ってから毎日のように見てきた。
誰に対しても親切で、何度も間違える相手にも怒ったりしないで。
(誰に対しても……。)
急に、榊さんが孤独に思えた。
みんなに親しまれているのに、いつも笑顔でいるのに、榊さんが寄り掛かる誰かはいない ――― 。
(まさか。そんなこと。)
否定しようと思ってもできなかった。
3年間一緒に仕事をしながら、彼女が他人に頼らないことを見てきたから。
手伝いを申し出ても、彼女一人ではどうしようもない場合以外は断られた。
(仕事以外でもそうだったんだ……。)
同窓会のことで悩んでいたことも、俺が脅さなければ話してくれなかった。
男が苦手だということも、女友達にさえ話したことがないと言っていた。
(そんな……。)
榊さんには、誰も頼る相手がいない?
そんなことあるんだろうか?
――― 榊が自分自身でいられる男は、紺野と俺くらいだからな。
いつか槙瀬さんが言っていた言葉が頭の中に聞こえた。
社内で榊さんが一番親しくしているのは、槙瀬さんと俺、そして里沢さんだろう。
でも、里沢さんは結婚して係長になって、以前ほど一緒の時間が取れなくなった。
槙瀬さんと親しいのは間違いないけど、プライベートな悩み事を相談することまではしていなかった。
もちろん、職場以外の友達もいるだろう。
でも、普段の生活の中で顔を合わせている俺たちよりも近い友達なんているだろうか?
俺は年に数回しか会わない学生時代の友人よりも、同期の友人や槙瀬さんの方が今では話しやすい。
(俺、榊さんに酷いことをしてるのかも……。)
俺の失態を許してくれた榊さんに。
落ち込んだ俺を慰めようとしてくれた榊さんに。
(謝ろうかな……。)
その方がいいような気がする。
いや、そうしたい。
(でも、どうやって……?)
ぐずぐず考えているうちに終業時間になり、珍しく榊さんはすぐに帰ってしまった。