第十四話
「どの料理も美味しいですね。」
「でしょう?」
向かいの席に座った榊さんが、にっこりと笑ったあと、グラスの白ワインを飲んだ。
その姿を、俺はほわんとした気分で眺める。
今日の榊さんは柔らかい生地の、襟もとでリボンを結ぶブラウスを着ている。
のどのところに見える細い銀色のチェーンのペンダントが、榊さんの唯一のアクセサリー。
彼女はピアスも指輪も使わない。
ピアスは穴を開ける勇気がないし、指輪は邪魔なのだそうだ。
そんな理由も、俺は榊さんらしいと思っている。
テーブルの上には真ん中にパエリア、その周りに魚や野菜料理の皿が3つほど。
今日は、榊さんが友人から教えてもらったというスペイン料理の店に来た。
職場を出るのが予定よりも遅れて、一駅隣のここに着いたのは8時少し前。
「混んでるかも。」と心許ない様子だった榊さんの予想に反して、少し静かな通りにあるその店に着くと、すぐに席に案内してもらえた。
二人ともお腹が減っていたせいか注文する料理は素早く決まり、せっかくだからと食前酒で乾杯をした。
手頃な値段のワインも一本頼んだ。
“景気付け” だからということもあるけど、榊さんも酒は弱い方じゃない。
美味しい料理とお酒で話が弾み、俺はすっかり楽しい気分。
榊さんだって、きっと同じだと思う。
「ほら、紺野さん、もっと食べて。」
空になっている俺の取り皿を見て、榊さんが鰯のグリル料理の皿をすすめてくれる。
「あー、俺はこっちがいいんですけど。」
榊さんの表情と仕種に半分見惚れながらパエリアを指差すと、榊さんがくすくす笑って頷いた。
「どうぞどうぞ。お皿にとってあげようか?」
「あ、すみません。」
「いいえ。」
俺が少し押しやった皿に、榊さんがパエリアを大きなスプーンで取り分けてくれる。
ついでに、その周りの皿からも。
(幸せだなあ……。)
俺のために料理を取り分けてくれる榊さん。
その姿を頬杖をついて、ぼんやりと眺めてしまう。
彼女は途中でちらりとこっちを見て、目が合うと、作業を続けながら下を向いてくすくす笑った。
「はい、どうぞ。」
「ありがとうございます。」
ふざけてお辞儀をして顔を上げると、榊さんがニヤッと笑ってワインのグラスを取った。
それは最後の一口で……。
「……あれ?」
注いであげようと思って持ち上げたボトルは空だった。
「どうします? もう一本頼みますか?」
「うーん、あたしはグラスワインでもいいけど。」
俺のグラスには半分くらい残っているけど……。
「まだ料理もありますから、もう一本行きましょう。」
「そう? 紺野さん、大丈夫?」
「え?」
じっと見つめて尋ねられたけれど、その意味がよく分からない。
聞き返すと、榊さんは俺の顔を見つめたままにこにこして言った。
「ちょっと酔っ払ってるかなー、と、思って。」
(酔っ払ってる?)
俺が?
榊さんの前で?
そんな、みっともないことを?
あるわけないけど。
「そう見えますか?」
「うん。」
「普通ですけど。」
「うーん…、なんか、いつもよりにこにこしてるよ?」
(ああ。)
分かった。
それはお酒のせいじゃない。
榊さんのせいだ。
そりゃあ、少しは酔いも手伝ってはいるだろうけど。
「にこにこしてるのは、楽しいからです。」
さすがにいきなり告白なんてできない。
……酔ったふりでなら、失敗しても冗談にできるかも?
「大丈夫ですよ。2人でワイン2本なんて、今までだって何度もありますから。」
「そう? じゃあいいよ。」
榊さんと一緒にワインリストを覗き込む。
その時間も幸せでいっぱい!
(もう、永久にこうやっていたい……。)
もちろん、無理だって分かっているけど。
「紺野さん、やっぱり酔っ払ってる。」
駅へ向かいながら、隣で榊さんが笑う。
11月の夜の冷たい風が頬に気持ちいい。
「このくらい、普通です。」
多少、頭がぐるぐるするけど。
「そう? でも、まっすぐ歩けてないよ?」
「でも、普通、です。」
「そうなんだ……。」
下を向いた榊さん。
その顔を、隣から覗き込んでみる。
「……笑ってる。信じてないんだ。」
そう言うと、彼女は拳を口元に当てて、「ふふっ」と笑った。
「ほら、笑ってる。」
「はいはい、その通りです。」
そう言って、また「ふふっ」と。
「あ。」
それを見て気付いた。
「え?」
「酔っ払ってるのは榊さんです。」
「えぇ? あたし?」
「そうです。そんなにくすくす笑ったりして。」
「ああ、うふふ。」
「ほらね。だから、俺が酔っ払ってるように見えるんです。」
「そうかな?」
「そうです。間違いありません。」
「そうですか。分かりました。」
少しの間、無言で夜の中を歩く。
のんびりした歩調は、もちろん榊さんと一緒の時間を引き延ばすため。
しゃべり続けなくても、俺と榊さんの仲なら、何も気詰まりなことはない。
(そうですよね?)
そっと隣を見ると、榊さんはリラックスした表情で、少し微笑んでいた。
バッグを両手で後ろに提げて、視線は前方の少し上。遠くの星をながめるように。
吹いてきた風で乱れた髪を、そっと片方の耳にかける。
(いいなあ……。)
和んでいたら、彼女が突然こちらを向いた。
俺と目が合うと、またくすくすと笑う。
それを見たら楽しくなって、カバンを振り子みたいに振って、ぐるりと一回りしてみた。
「ああ、気持ちいい♪」
榊さんと二人の夜の道。
美味しい食事とお酒。
温まった体に冷たい風。
「幸せだ〜♪」
榊さんがまたくすくす笑った。
「酔っ払いじゃない紺野さん?」
「はい。」
「あたしは酔っ払ってるみたいだから、タクシーで帰ろうかと思うんだけど?」
「あ、じゃあ、俺も一緒に乗って、送ります。」
「うん。そうしてもらえると、心強いかな。」
「はい!」
(榊さんに頼りにされてるよ〜♪)
嬉しい。
(それに、もしかしたら……。)
送ったついでに、部屋に入れてくれるかも。
そんなことになったらどうしよう!?
タクシーの後ろの座席に落ち着くと、榊さんが自分の家を運転手に告げた。
「そこからもう一軒、行ってもらいますので。」
と付け加えたのが聞こえて、俺を家に入れてくれるわけじゃないと分かってちょっとがっかり。
ところが。
座席に寄り掛かっていた俺をちらりと見た榊さんが、何も言わずに身を乗り出してきた。
(え? ちょっと。)
片手を俺の肩にかけ、体が触れそうなくらい近くに。
「あの……?」
「ああ、動かなくていいから。」
「……はい。」
(キスしてくれるんだ♪ 酔った勢いでこんな……。)
運転手さんの視線が気になる。
でも、止めるなんて気はまったくない。
ドキドキしながら近づいてくる彼女の顔をじっと見ていると。
「よいしょ。」
ぐっと肩の手に力がかかったかと思うと、彼女が俺の頭の横の方に手を伸ばして何かを引っ張った。
(???)
そこから彼女は体を戻し、二人の間の座席のあたりを探っている。
そして、カチャッという音。
(なんか……安定感が。)
不思議に思いながら自分の体を見下ろすと、しっかりとシートベルトが掛けられていた。
(そんな……。)
期待と現実のギャップが大き過ぎる!
がっかりした気持ちを訴えたくて彼女の方を向いたら、ちょうど自分のシートベルトをし終えたところで、俺ににっこりと微笑んだ。
「酔っ払ってると危ないからね。」
「そうですね……。」
これじゃあ、肩に寄り掛かることもできないじゃないか。