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第十一話


午前中が高揚感で仕事に集中できたのとは反対に、午後は無理矢理、仕事に没頭しなければならなかった。


榊さんを視界に入れないように、細心の注意を払った。

声が聞こえるときは咳払いをしてみたり、頭の中で独り言を言ってみたりした。

どうしても落ち着かなくなると、席を立って、トイレや給湯室に行った。


よく分からないまま、とにかく混乱している。



榊さんのことは、ずっと同僚の先輩、そして仲の良い友人と思ってきた。

3年間、隣り合って座って仕事をしていたときも、恋愛感情は持っていなかった。

なのに ――― 。


(意味が分からない。どうして……。)


ハッと気が付いたら、ぼんやりしていて、パソコンの画面に目の焦点が合っていなかった。

いつの間にか、キーボードをたたく手も止まっている。


「ふ………。」


午後になって何度目のため息だろう?


「榊さん。2番に電話です。」

「はい、ありがとうございます。」


榊さんが電話に出る声が聞こえる。

相変わらずはきはきと、きれいな発音で流れる言葉。

耳が、その声を聞き取ろうと働きはじめる。


(ちょっと一回りして来よう。)


落ち着かなくちゃダメだ。

落ち着いて、よく考えなくちゃ。


人に会わないように、階段を使って建物の中を歩いてみる。

自分のリズムで体を動かすと、頭の中が少しずつ整理されていくような気がする。


(榊さんと話すのは楽しい。)

(彼女の役に立ちたい。)

(尊敬しているし、いいひとだ。)


そう。

ずっとそう思ってきた。


でも。


(俺にとって、榊さんは……?)


そこで止まってしまう。


途中の踊り場で壁にもたれたら、大きなため息が出てしまった。




その日は早く家に帰った。


電車の中、夕食、風呂、洗濯。

一通りの作業が終わるまで、榊さんのことは考えないようにした。

そして、何もすることがなくなると……、榊さんと槙瀬さんの姿が頭に浮かんできた。


ためらいなく肩に掛けられた手。

それに驚いたり、身を引いたりしなかった榊さん。


(あれは……何でもないんだ。)


前方から人が来たって知らせただけ。


そう言い聞かせてみても、その直後に「だけど」と思ってしまう。


二人の自然な態度は……。


(俺は………。)


榊さんのことが好きなのか?

いつから?

それは本当に愛情なのか?

どうやったら分かるんだろう?


俺がこんなに変な気分になったのは、槙瀬さんの「結婚しても」を聞いてからだ。

それまでは、話したり、飲みに行ったりできるだけで満足だったのに。


もしかしたら、二人が結婚することで仲間外れにされそうなことを気にしているのかも知れない。

だとしたら、それは友情だ。


だけど……。


分からない。


(そうだ。たとえば……。)


二人が結婚しても、今までどおりに付き合えるとしたら?


それは十分に有り得る。

二人とも、そういう性格だと思う。

それに、あの二人の組み合わせだと、他人の前でベタベタするようなカップルにはならないはずだ。


(……他人の前では。)


じゃあ、二人のときは?


そう思った途端、頭が混乱した。

心臓が縮むような気がして、息が苦しくなって……。


(嫌だ! 考えたくない!)


落ち着こうとしても、頭がクラクラして、呼吸がちゃんとできない。

自分がこんなに動揺していることに、自分でびっくりしてしまう。


(なんで?)


気持ちを落ち着けるために、冷蔵庫からミネラルウォーターを出して、グラスに注いだ。

そこで手が震えていることに気付いて、ますます不安になってしまう。


立ったまま一気に水を飲む。

深呼吸をしてみたら、また食堂での二人の姿が頭に浮かんできた。

同時にそのときの気持ちもよみがえる。


(俺だって。)


グラスをぎゅっと握った手を流し台の縁に乗せる。

目を閉じて、大きく息を吸って……と思うけど、胸が苦しくて、吸い込む息がとぎれとぎれになってしまう。

何度も呼吸を繰り返しても、胸の痛みは消えなくて……。


(俺だって……!)


心が叫ぶ。

苦しくて、これ以上閉じ込めておけない。

想いがあふれてくる。


榊さんの隣にいたい。

二人で話して、微笑み合いたい。

彼女をエスコートしたい。

俺を特別な目で見てほしい。

俺だけを。


俺だけを……。


(榊さん……。)


心の中で呼びかけてみる。


俺ではダメですか?

年下だからダメですか?

俺は頼りになりませんか?




目を閉じたまま、じっと、胸の痛みが引くのを待った。


ようやくふわりと力を抜くことができて目を開けると、流し台の銀色と自分が握っているグラスの透明な輝きが目に入った。

そのシンプルな色と輝きが、不思議に心を静めてくれる。

ぼんやりと見ているうちに、心の中の想いが、次第に形を成してくる。


“ 俺だっていいはずだ。 ”


その言葉が、体中に沁み込んでいく。

空気のように軽く。

指先の細胞まで一つひとつを満たすように。


“ なんで悪いことがある? ”


俺は榊さんの近くにいる。

ほかの男たちよりもずっと近くに。

槙瀬さんとだって、それほどの違いは ――― 。


(そうだ。あのとき……。)


槙瀬さんの言葉を思い出した。

結婚のことばかり気になっていて、その後ろに忘れていた言葉。


――― 「榊が自分自身でいられる男は、紺野と俺くらいだからな。」


あのときの槙瀬さんは、それまでと違ってしんみりとした様子だった。

榊さんを思いやる気持ち……だろうか。


結婚のことも、あの場ではあんな言い方をしたけれど、本心では榊さんのことを愛しているのかも知れない。

だけど……。


(譲れない。)


俺は納得がいかない。


槙瀬さんはあのとき、榊さんの結婚相手は「誰でもいい。」と言った。

もちろん “榊さんがいいと思うなら” という条件付きだけど。


あのとき、俺は自分が納得できないのは何故だろう、と思った。

今ならその理由が分かる。

槙瀬さんが、焼きもちを焼かなかったからだ。


誰かほかの候補者が現れても、榊さんがいいと思うなら構わない、と言った。

俺に、「お前なら大丈夫だ」とも。


自分で「結婚してもいい」と言っておきながら、榊さんがほかの誰かを選ぶのは平気なんだ。

槙瀬さんの、榊さんに対する愛情はその程度なんだ。


そんな人に負けたくない。


槙瀬さんと榊さんは、確かに俺よりも長い付き合いだ。

でも、俺だって3年間、隣同士で仕事をした。

話をした時間は、2年早く知り合っている槙瀬さんよりも、俺の方が多いはずだ。

それに、恋人としての気持ちなら、絶対に俺の方が強いって、自信を持って言える。


(うん。そうだよ。間違いなく。)


俺は榊さんのことが好きだ。

榊さんに、俺のことを好きになって、俺だけを見てほしい。

手を触れる権利を、俺だけのものにしたい。


(……よし。)


決めた。


榊さんに俺を選んでもらう。

俺を特別な相手として認めてもらう。


(明日から。)


絶対に、絶対に、槙瀬さんには渡さない。








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