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第一話


「榊さーん。社用車の車検のことでツノダ自動車様が見えてますけど。」

「あ、はい! 今行きます。」


カウンターに出ていた人から声がかかり、隣の係でこちら向きに座っている榊さんが返事をした。

立ち上がりながらパソコンをちょこちょこっと操作し、小走りにカウンターへ向かう。

いつも通りのきびきびとした動き、姿勢の良い後ろ姿、綺麗なはきはきした話し方。


カウンターをはさんで、業者さんと頭を下げ合ってあいさつ。

毛先に軽くパーマをかけた肩上の長さの髪を片方の耳にかけながら。

きっといつものように「お世話になります。よろしくお願いします。」なんて言っているんだろう。


つなぎを着た車の整備業者の男の人と話す今も、きっと爽やかな微笑みを浮かべているはず。

丁寧でありつつ親しみやすい態度は、課長や部長と話すときでも変わらない。

後輩である俺にさえそうだった。


仕事でのミスもほとんど無い。

それに、早い。

目配りが利いて、同僚が困っているときにさりげなくアドバイスやフォローをしてくれる。


優秀な先輩、(さかき) 琴音(ことね)さん。



最初の配属先の給与係で人柄の良さを見込まれて、3年前に庶務係に引っ張られた。

庶務係の仕事は地味だけど、社員・来客を問わずいろいろな人が用事で来るし、カバーしている仕事の範囲が広い。

細かいことに気付くことや人当たりの良さが、結構重要なのだ。


俺はその一年前に、新人で庶務係に入っていた。

勤務二年目で年上の社員に仕事を教えることになった俺は、内心ドキドキだった。

どういう態度で接したらいいのかよく分からなくて。


けれど彼女は控え目で自然な態度で、俺の戸惑いをあっという間に消してくれた。

それに、とても気さくなひとで、慣れてくると冗談を言い合ったり議論したりもできるようになった。

気の合う社員同士で飲みに行くときも一緒に参加することが多くなり、プライベートな話題も話せる仲になった。

そうやって3年間、隣同士で仕事をして、今年の4月に俺は隣の経理課に移った。

移ってからも、親しくしているのは変わらない。


“親しい” と言っても、誤解しないでほしい。

俺と榊さんの間には、恋愛的な感情はない。

榊さんは、そういう人じゃないんだ。


人当たりが良くて、仕事ができる。

気が利くし、親切。

優秀だけれど、 “いかにも” というキャリアウーマン風ではない。

いい感じに力が抜けている。


仕事では、自分に厳しく、他人に甘い。

自分では失敗しないように、手順を確認し、早めに終わるように計画を立て、仕上がったものを確認し……という具合。だからほとんどミスがないのは当然のこと。

なのに、他人が失敗しても決して責めない。

もちろん困った点はきちんと指摘するけれど、その言い方が嫌味じゃない。

そんな人だから、後輩の女子社員に人気がある。


サバサバした性格で、服装もベーシックなものが多いせいか、妙な色気を感じなくて付き合いやすい。

美人ではないけれど、大きな目と小さめの口が気分によってくるくると変わるのが魅力的だ。

仕事以外でもたいていのことは楽しんで会話ができるし、お酒もそこそこOK。

ああ、カラオケだけは絶対イヤなのだそうだ。でも、そんなことはべつに問題じゃない。


そんなにいい人なのに、不思議なことに彼氏はいない。

俺の知る限り一度も。

本人の話だと、過去一度も。


モテないわけじゃない。

社内には、彼女に近づこうとする男が何人かいた。今もきっと。

出入りの業者さんの中にも、彼女と話すときだけ明らかに頑張り具合の違う人がちらほら。


でも、彼女はそういう男たちをさばくのが上手い。

相手のプライドを傷付けないように、いつの間にか諦めさせてしまう。

まあ、俺はそういう男たちの中に、榊さんと釣り合うほどよく出来た人間がいたとは思えないけど。


いつか本人に、彼氏はいらないのかと尋ねたことがある。

すると、


「そんなことないよ。でも、無理だと思う。」


と笑っていた。

どうして無理なのかと重ねて尋ねると、


「だって、あたしなんかじゃねえ。」


と言った。


何が “あたしなんか” なのかはよく分からない。

ただ、俺にしてみれば、彼女は恋愛を超越した存在という感じがする。

そういうこととは関係なく、とにかく一緒にいて楽しい友人。


俺は、榊さんと親しいことが嬉しい。

彼女を尊敬しているし、逆に、彼女に友人と認めてもらえていることを誇りに思っている。

そして、彼女にもそう思ってもらえるように努力もしている。




「あ、紺野さん。お疲れさま。」


残業に入る前、給湯室にコーヒーを入れに行ったら榊さんがいた。


「残業? 今、忙しいの?」

「まあ、月末ですから。」


俺は、年上である榊さんに敬語を使う。

その方が話しやすいから。


「月末じゃなくても経理課は忙しいよね。」


紅茶のティーバッグを捨てながら、榊さんは微笑んだ。

そんな動きでさえ無駄がなくてスマートに見えるから不思議だ。


「そういえば、聞いたよ、槙瀬(まきせ)さんから。」


ツツツと近寄って、少し小声で囁かれた。


槙瀬さんというのは榊さんの同期入社の男性社員で、よく一緒に飲みに行くメンバーの一人。

槙瀬さんと榊さん、今年係長になった里沢さんという女性、そして俺、という4人が “内輪” と言えるくらいの関係だ。


槙瀬さんは、入社の前に2年間フリーターをしていたという経歴の持ち主で、榊さんよりも2歳年上。俺とは4歳違う。

フリーター時代には土木作業員、選挙事務所、塾の講師など、さまざまな仕事を経験している。

そのせいか、型にとらわれない豪快な雰囲気のある人だ。

俺にとっては兄貴分的な存在で、俺はこの人のことも、とても信頼している。


「彼女と別れちゃったんだって?」

「あ。もう聞いたんですか?」

「うん。お昼休みにすれ違ったときにね。」


昨日、居酒屋でその話をしたときに、榊さんにも伝わることは分かっていた。

と言うか、もともと榊さんも一緒に行くはずだったのが、急な仕事で来られなくなっただけ。


「もったいないなあ。長い付き合いだったんでしょ?」

「まあ、そうですけど……。」


俺が大学4年、彼女が大学3年だったんだから、まる4年だ。


「どうして?」


こういうストレートな質問も、榊さんの特徴かも知れない。

プライベートなことを質問されると答えたくない相手もいるけれど、榊さんだと何故か平気だ。

たぶん、興味本位じゃないから、だと思う。

ただ単に、本気で “どうして?” と思っているのが分かるから。

榊さんを直接知らない人には上手く説明ができないけど。


「何て言うか……、子どもだからです。」

「え、子どもって……。」


榊さんが「ふふっ。」と小さく笑う。

きっと、俺のこともそう思っているのかも。


「だって、蛍光灯が切れたから替えに来てくれって言うんですよ?」


別れるきっかけになったのはこれだった。


「可愛いじゃない? 紺野さんに会いたかったんじゃないの?」

「そうかも知れないけど、忙しくて行けないって言ったら、怒り出すんですからね。」

「怒っちゃダメなの?」


カップの紅茶を飲みながら、榊さんがからかうように俺を見る。

耳に掛けた髪の毛の先がくるくると、ほっそりした首にかかっている。

それを見るといつも、くすぐったくないのだろうかと思ってしまう。


「だって、向こうだってもう社会人3年目ですよ? 仕事が忙しいときは分かってくれないと。」

「そう?」

「そうですよ。それに、蛍光灯が切れたくらいで彼氏を呼ぶなんて、榊さんはやりますか?」


その質問に、榊さんがくすくす笑った。

榊さんに笑われると、俺はいつも怒るのを続けられなくなる。

怒ることがくだらないことに思えてしまうから。

重苦しい気分が爽やかな風でふわりと散らされてしまうような感じなのだ。


「いないもん、彼氏なんて。」

「いたとしたら、ですよ。」

「うーん、やらないかな。面倒くさいもん。自分でやる方が早いし。」


彼女の答えは俺の予想した通り。


「そういうことですよ。いつまでも甘ったれなんです。もう大学生じゃないのに。」

「厳しいね。」


今度は少し悲しそうな顔をされた。


別れた理由は、本当はこれだけじゃない。

今回は決心に至ったというだけで、別れることは、今まで何度か考えて来た。

長く付き合っている間に、少しずつ考え方も変わり、お互いの理想も変わり……。


「なんだか残念。」


榊さんが小さくため息をつく。


「はは、榊さんがしょんぼりすることはないじゃないですか。」


これじゃあ、どっちが恋人と別れたんだか分からない。


「そうかも知れないけど……。」


ぼんやりとつぶやいてから、彼女が首を傾げながら俺を見た。

少し微笑んで、少し悲しげに。


「辛かったでしょう、そういう話をするのは?」

「あ、まあ……。」


急に、別れる決心をしたときの気持ちがよみがえった。

これ以上はダメだと分かっても、それを口に出すのは簡単ではなかった ――― 。


と、榊さんが今度はにこっと笑った。

その気楽な様子の微笑みに、肩の力がふっと抜ける。


「お疲れさまでした。」

「あ、いえ。」


深々とお辞儀をされて、ちょっと慌ててしまう。


「あたしにはそういう苦労がないから有り難いわ。うふふ。じゃあね。」


彼女はさらりとそう言うと、小さく手を振って給湯室から出て行った。

その姿が見えなくなると、なんだかすっきりした気分になって、一人でコーヒーをいれながら鼻歌を歌ってみたりした。


榊さんは、こういう人だ。








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