執着
僕を誰よりも可愛がってくれた年の離れた従兄の直哉さんが、病気であっけなく亡くなった。
まだ三十代前半。早すぎる死だった。
直哉さんは、僕にとって年の離れた兄のような、あるいは何でも話せる親友のような存在だった。
内向的で友達が少なかった僕を、彼はいつも気にかけてくれた。僕が学校で落ち込んでいると、夜遅くでも車を出して、お気に入りの海岸までドライブに連れて行ってくれた。
「何かあったら、いつでも俺を頼れよ。お前の味方だからな」
缶コーヒーを差し出しながら、いつもそう言って笑ってくれた優しい顔が、今でも鮮明に思い出せる。
だけど、いつ頃からだっただろうか。
あんなに頻繁だった海岸へのドライブに、
「最近、ちょっと仕事が忙しくてさ」
と申し訳なさそうに笑いながら、ぱったりと連れて行ってくれなくなった。
「若くないから、夜中に甘いのは胃に堪えるわ」
と、冗談めかして缶コーヒーを半分以上飲み残すようになっていた。
僕のくだらない話を聞いて笑ってくれるとき、少しだけ息を切らせるようになっていた。
あの頃には、もう……。
気が付いていたらどうだったというのか、それでも後悔ばかりが胸に打ち寄せる。
だからこそ、葬儀の夜から、僕の部屋の窓から見える、電信柱のそばに「人型の影」が佇んでいるのを見つけたときも、僕は恐怖を覚えなかった。
街灯の光でできた、ただの影じゃない。
そのシルエットで即座にわかる。
「あれ」は直哉さんだ、と。
その影は毎晩、決まって同じ時間にそこに立っていた。
直哉さんが夜のドライブに連れ出してくれていた時刻……夜の十時。
その時間になると、街灯の根元にすうっと黒い輪郭が浮かび上がるのだ。
昼間に見ると、そこにはただの灰色のコンクリートの柱があるだけだった。
何の気配も残っていない。
近所の子供たちがその横を笑いながら通り過ぎていく、ありふれた、平和な日常の風景だ。
その見慣れた柱を見つめながら、「夜になればここに、あの直哉さんが現れるんだ」と、心がほんの少しだけ温かくなる。
夜の帳が下り、日常は剥がれ落ちる。
夜十時に窓を開ければ、彼は再びそこに立っているのだ。
直哉さんの家からは何キロも離れた僕の家に現れて、まるで意志を持っているかのように、じっとこちらを見つめ、口元をモゴモゴと動かしている。
「直哉さん、僕を心配して会いに来てくれたのかな。でも……まだ成仏できていないんだ」
胸が締め付けられるように悲しかった。
生前、あんなに他人のために尽くしてきた優しい人が、この世に未練を残して彷徨っている。
彼が成仏できない原因は何だろう。
それを突き止めて、心残りを解消してあげたい。
それが、これまで貰ったたくさんの愛情に対する、僕なりの恩返しだと思った。
だから、僕はスマートフォンでその影を録画し始めた。
電信柱のそば。街灯があるとはいえ、薄暗く、その口元は見えにくい。
何度も何度も再生したが、最初の内は目が疲れるだけだった。
正直に言えば、スマートフォンの画面に映るその影は、肉眼で見るよりもどこかおぞましく、妙な薄気味悪さを放っていた。
再生ボタンを押す指が、かすかに震える夜もあった。
それでも、直哉さんのためだと思うと、どうしても動画を消去することができなかった。
消してしまえば彼との最後の繋がりが断ち切られてしまうから……。
それに、何より——一度録画してしまったその影を消すことが、何か恐ろしいタブーに触れるような気がして、怖かったのだ。
雨の日は、水に濡れたアスファルトのせいなのか、影の輪郭がやけに不気味にくっきりと浮き出た。
そのせいで、今まで見えていなかったものが見えたのかもしれない。
(……お……い……? ……た……い……?)
最初は、何かを「お願い」しているのだと思った。
例えば、残された家族のこととか、仕事の心残りとか。
そう思い込むと、影の口の動きが「お・ね・が・い」と言っているように見えてくるから不思議だ。
もし困っているなら、今度は僕が直哉さんを助けなくては。
そういう思いに突き動かされ、僕は彼の願いを叶えるため、口の動きを完全に解読しようと躍起になった。
そして、ある雨の夜。
僕は動画の再生速度をさらに落とし、画面の中の口元の形を一点に見据えた。
今までは「直哉さんならこう言うはずだ」という僕の都合のいい思い込みで補正して見ていたが、客観的な形として、その母音の動きを頭の中で繋げていく。
(……あ……あ……っ……て……よ……)
お、ね、が、い、ではない。
最初の文字の口の形は、大きく縦に開く「あ」だ。
「……あ……?」
心臓が、嫌な音を立てて跳ね上がった。
僕はスマートフォンの画面と、窓の向こうの電信柱を交互に見た。
雨の中、影の口元が激しく、狂ったように動き出す。
(た・わ・っ・て・よ)
……
(代わってよ)
代わる?
何を?
僕が直哉さんと?
代わるということは……
直哉さんの優しい笑顔の記憶が、脳裏でどす黒く塗りつぶされていく。
彼が僕を見つめていたのは、愛着からではなかった。
自分の身代わりにする獲物を、ずっと品定めしていたのだ。
恐怖よりも先に、「直哉さんがそんなことを言うはずがない」という考えが、僕の思考を完全に停止させていた。
逸らせぬ視線の先で、電信柱のそばの影が、すうっとこちらに歩き出してきた。
ー了ー




