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河川敷に咲く

掲載日:2025/12/01

 見慣れないバンが停まっている。

 側にはお弁当と書かれたのぼりと、スタンド看板が立っている。

「あんた、弁当買ってかないか」

 通り過ぎようとしたところで、車内からおばさんの声がかかる。笑顔で手招きされ、真奈は思わず立ち止まった。

「ごはんも炊きたてだよ」

 大丈夫だと断って立ち去ろうとしたが、おばさんは続けて言った。

「カップラーメンなんていつでも食えるさ」

 思わず手元に目をやる。袋がかさかさ音を立てる。

「あたしには何でも分かるんだよ。あんたにはカップラーメンじゃない飯が必要だね」

 笑って、真奈が何も言わないでいるうちに勝手に弁当を袋に詰めている。差し出され、真奈はそれを受け取った。代金を払うと、おばさんは満足げに頷く。

「あんた、これも持ってきな」

 徐にエプロンのポケットから取り出されたものを手のひらで受ける。白い薬包紙の小さな包みだった。真奈は説明を求めて、手のひらの上の包みからおばさんに視線を移す。 

「それはね、種だよ。育ててやんな。綺麗な花が咲くよ」

 包みを握りしめ、アパートに帰る。

 帰宅し、シャワーを浴びた後、袋から取り出した弁当はまだ温かかった。わかめごはんを噛みながら、テーブルの隅に転がしていた包みに手を伸ばす。捨ててしまえばいいと思っているのに、ちらちら視界の隅に入るたび、気になって仕方がなくなっていく。種とは、なんだろう。包をつまむと、内側に粒状の固い感触がある。植物の種、と言われて思い浮かぶのは、向日葵か朝顔か。チキンカツを口に運ぶ。向日葵ではない。たぶん。

 空になった容器を片付ける。

 テーブルには、包みだけが残っている。真奈はそれをそっと開いた。分かったのは、やはりそれが知らない植物であることだけだった。褐色の小さな粒がざらざら音を立てる。

 薬包紙を広げて軽く折り目を指でならし、一粒ずつ並べてみる。横に三つ、二列目と三列目ができ、余りがふたつあった。一列を四つにしたり六つにしたり意味もなく並び替えた。不意に指先で弾いてしまい、いったいどこにいったものか、座ったまま首の角度を変えるだけでは見つけられず、探す気にもならず、中途半端に並び崩れた種をぼんやり眺めた。

 スマホの振動にびくりと肩を揺らす。画面をのぞくと明日の予定が画面に表示されている。それ以外にやるべきこともなく、忘れるはずのない予定。そっと画面を伏せる。種を薬包紙の上で集め、折り目にそってまた包みなおした。少しだけ悩み、ごみ箱に捨てた。

 机に向かい、予備校のテキストを取り出す。真奈の就寝時間は深夜零時と決まっている。あと一時間、まだ真奈は眠らない。




 デジタル時計に零が四つ並び、真奈はテキストを閉じる。そしてベッドにもぐりこむ。零時が来たら、眠ってもよい。零時が来たら、眠らなければならない。それが真奈のルール。

 暗い部屋で目を閉じ、眠気のやってくるのを待つ。どうせ眠れないだろうと思いながら。眠ろうと頭が考えているうちは、眠れないことを、真奈はよく知っている。最近は特に、夜眠れないことが増えた。眠れ、眠れ、と羊を数えるように頭の中で唱える。効果はない。

 そうして眠れずにいると、いつも日中は隠れている不安な気持ちが、じわじわと滲み始める。大学を卒業して二年が経ち、就職もできず、公務員試験のための予備校に通い続けている。自分はいつまでこのままなのだろうか。ちゃんとしなさい、という母の声が耳の奥で聞こえ、涙がにじむ。

 ちゃんとしなさい。何度言われたか分からない母の言葉。自分のことでしょう、と。だが真奈はもう分からなかった。何をどうすれば、ちゃんとしていることになるのか。自分で考えなさい、と母は真奈に言うが、それは真奈に選択肢があることを意味しない。真奈にとって、考える、という行為は、母の意を汲み取る、ということだった。

 母の意向。いい大学を出て、いい会社に就職すること。大学合格まではうまくいった。だがそこまでだった。母の意に沿うような企業からは、ことごとくお祈りメールが届いた。内定をもらった企業もあった。真奈自身も興味があり、面接にも手応えがあった。だが、母は気に入らなかった。真奈の知らぬ間に母は内定辞退の連絡をし、まるで悪気もなく言い放った。あんなところで本気で働くつもりじゃなかったんでしょ。真奈はただ、うん、と答えた。自分の本当の気持ちを、否定されることよりも、隠しておくことのほうが、あるいは無かったことにするほうが、傷つかずに済むことを、母のおかげで知っていた。

 それから内定が出るたび、母は、本命はどこ、と聞いてくるようになった。履歴書を書くことすらできなくなり、必然、内定の連絡もどこからも届かず、次に母は国家公務員になりなさい、と言い始めた。勉強が必要なら予備校に行くお金も出してあげる、と。

 ちゃんとしなさい、という言葉は、お前はいま母の意に沿うことができていない、という叱責だった。

就職のできないまま大学卒業を迎え、母の苛立ちは過去にないほどだった。卒業後もバイトは続けていたが、しばらくして辞めた。あなたにそんなことをしている暇はないの、と母は言った。

 真奈はもう、自分が何をすべきか分からなかった。何をしてもうまくいかない、自分には何もできない、という気持ちだけが日に日に強くなっていった。そのうち眠ろうとすると、罪悪感を覚えるようになっていた。しなければならないことが沢山あるはずなのに、何も出来ていないまま眠ることが怖かった。ルールを作った。夜十二時に眠り、朝七時に起きること。眠ろうとしても眠れず、理由も分からないまま涙が流れた。

 ああ、また泣いている、と思いながら、涙の流れるままにして、大丈夫、そのうちおさまる、と自分に言い聞かせ、じっとベッドで丸くなる。

 何度も寝返りを打ち、ヘッドボードに手を伸ばす。スマホの画面で時間を確認する。ベッドに入ってからすでに二時間以上が経っている。喉の渇きを覚えて、真奈は起き上がった。ベッドから降りようと床に右足をつくと、体重の乗った足の裏の一点から突きあがるように鋭い痛みが走り、思わず短く声を上げた。暗い部屋の中で、右足を浮かせ、ベッドに片手をついて体を支え、ずきずきする足裏の痛みに耐えた。

 足裏をさすり痛みをごまかし、部屋の明かりを点ける。一体何を踏んだのか、ベッドサイドの床に目を凝らすと、黒っぽい粒のようなものが落ちていた。それはさっき手慰びにいじってどこかへ飛んでいった種だった。みっつ、近くに落ちていた種を拾った。握ったままキッチンへ行き、水道からコップに直接水を注いで飲んだ。

 シンクにじっと目を留める。昨日食べたカップラーメンの容器が、転がっていた。割り箸は捨て、容器を洗ってみる。何の植物だか分からないが、種を植えるには十分な大きさに思えた。

 思い立ったままに容器を片手に外へ出て気付いたことは、土がない、ということだった。あるにはあるが、それは整備された植樹帯のものであったり、他所の敷地内で管理された花壇や庭であったりした。わざわざホームセンターに買いに行く気もなく、そもそも営業時間ですらなかった。空の容器に満ちる土を想像する。眠気はなく、腫れぼったい目に夜中の少し肌寒い真っ暗な空気は心地よくすらあった。

 土を求めて、真奈は歩き出す。思いついてやって来たのは、河川敷だった。土手は少し曲がりくねりながら、レンガ道が伸びている。河川敷に続く石の階段には雑草が好き放題に生えていた。スマホのライトで足元を照らし、一段一段おりていく。

 真奈は容器をスコップの代わりにして、雑草の生えた土を掘り、適当に雑草を払いのけた。河川敷の乾いたこんな土でいいのだろうかと疑問が浮かんだが、雑草が生えているくらいだからいいだろうと、容器に土を満たした。

 アパートまで戻ってくると、不意に欠伸がこぼれた。その眠気が消えないように、慎重に受け入れながら、土に種を埋めた。水をやろうとして一瞬考え、底に爪楊枝で穴を開けた。しばらく使っていなかった皿を受け皿にして、机の上に置いた。

 朝、いつもより遅く起きていいことを自分に許しながら、真奈はベッドにもぐりこむ。




 それに気が付いたのは、三日後、眠ろうとして部屋の電気を消すために指で壁のスイッチに触れたときだった。

 土から出てきたものが、数日前に植えた種なのかどうか、自信がなかった。それを、芽、と呼んでいいのかどうかも真奈には分からなかった。だが明らかに土から何かが現れていた。

 それは想像していた芽とは、全く異なっていた。確かに緑のものがあるのだが、それは道端に生えている雑草とも、いつか植えた朝顔とも似ていない。また、緑、というには色素が薄く、黄緑あるいは黄色に近い。そして葉がなく、糸のように細く頼りないものが土から突き出していた。

 その薄緑のものに、真奈は視線を奪われている。大事に育てようとしていたのでも、観賞用に置いてあるのでもなく、処分されずにそこにあるだけのものになりつつあった土の入った容器の小さな変化に。

指先に力を込めて部屋を暗くした。ベッドの中で、目をつむり、あの生えていたものが何であるのか考える。あの土は河川敷で適当に取ってきたものだった。生えてきたものはそこらへんの雑草であるかもしれない。だが、知っている雑草とも違っている。雑草に詳しいわけでもなかったが。何がこんなに気になるのか分からないが、あの土から生えていたものが気になっている。あの種が、いったい何の植物であるのか。 

 寝返りを打ち、サイドボードに手を伸ばす。スマホで検索エンジンを開く。植物、芽、葉がない、と調べてみる。だが出てくる情報は知りたかったものではない。総合すると、育成環境が悪いのではないか、という内容だった。だがそれは、芽が出ないことに対する回答であったり、芽が出たものの育たず、葉が枯れてしまうことの原因として、記載されているのだった。受け皿ごとベッドのサイドボードに置き、やっぱりなにかの芽らしきものが出ていることを確かめつつ、ベッドに腰掛け、検索ワードをいくつか変えて試してみるが、結果はどれも同じようなものばかりだった。

 植物、種、と検索窓に打ってみる。種の形から、何の植物か分かるのではないかと思ったのだ。だが出てくる画像をいくつ見比べても、どれも違うように見えるし、どれも同じようにも見え始め、結局、答えは見つからなかった。

 ベッドにもぐり直し、夜、眠れない、と検索する。すでに何度検索したか分からないその言葉に対する回答もまた、何度見たか分からないものばかりだった。生活リズムの乱れ。ストレス。睡眠直前のスマホはやめましょう。検索画面を閉じ、目を閉じる。

 微かな冷蔵庫の動作音と、自分の呼吸音に意識が集まる。今日はいつ眠れるだろうか。眠れたとして、目が覚めるのは何時になるだろう。また一日が無意味に過ぎていくのに違いないという情けなさに襲われ、目頭が熱くなり、じわりと涙がにじんだ。生暖かい水滴が耳の中に入り込む不快感。体を横に傾け、今度は水滴がシーツに吸われていくのを感じる。そしていつものように、いつの間にか眠ってしまうまで、身体を丸めてじっと耐える。




 目覚め、ぼうっとする頭で結局何時間眠っただろうと考えながら洗面所に行き、顔を洗った。冷たい水に触れても頭の中まですっきりすることのないまま、タオルで顔を拭き、手を拭いながら、ふと指先に違和感を覚えた。

 それは左手の小指の爪の先にあった。

 皮膚と短い爪の隙間に潜り込もうとするように、薄い緑のものがあった。

 真奈は蛇口をひねり、拭いたばかりの手を再び水にさらした。爪の間に入り込んだ汚れを落とすように右手でこするが、それが取れる気配はなかった。水をとめ、今度はまたタオルで手を拭きながら、そのタオルで力を入れて擦るようにした。そうすると、取れるどころか、強い嫌悪感が指の先から身体を這い上がってくる感覚に襲われた。痛みではなかったが、それはまるで自分で自分の爪を剥ごうとしているような感覚だった。反射で左手を引っ込める。まじまじと左手を見た。血は出ておらず、緑のものもそのままそこにあった。

 真奈はまずひとつ確かめるために、ベッドに戻った。そのサイドボードにあるはずのものを探す。だがそこにそれはなかった。昨日、眠る前に見つけたはずのもの。まるで最初から何も生えてはいなかったように、ただ土で満たされたカップラーメンの容器と皿だけがあった。思いついてスマホの検索履歴を調べた。そこには確かに、調べた跡が残っている。葉のない薄緑色の芽について。 

 答えを求めて、左手の小指の先を、凝視する。その何か分からないものを、今度は爪でつまんで引っ張ってみようとした。だが数分前と同じく、つまむことはできても、それを引っ張ろうとすると、やはりぞくぞくとした不快感が湧き上がってくるのだった。これ以上は痛みを伴うものになる、という確信めいた予感だった。脳から、これはしてはいけないことなのだ、という信号でも出ているように思われた。

 前に、カッターナイフの刃を、手首に当てた時のことを、不意に思い出す。調理用のハサミで、手首を挟んでみたこともあった。だが、そのあと、あとほんの少し力を入れることが、真奈にはできなかった。  今も、そのときと同じだった。これ以上は自分が傷つくのだという確信があった。

 それ以上、薄緑のものをそこから引き剥がそうとすることをやめた。

 それから数日経っても、その薄緑のものは、ずっとそこにあった。

 それが植物であるのか疑問に思う気持ちに答えるように、日に日にそれは成長し始めていた。指に絡みながら、蔓のように少しずつ伸びていく。そしてそれは単に絡みついているのではなく、血をにじませながら皮膚に根付き、身体の一部になろうとしているようだった。元からそうであったかのように、馴染もうとしていた。真奈もそのことを受け入れ、その植物が何であるのか、といった疑問すら浮かばなくなっていった。

 十日も経つと、小指の付け根にまで到達し、そして真奈に二つのものを与えた。

 一つは、痛みだった。植物の触れている部分が内側からじくじくと疼くように痛んだ。気が付くと、小指に触れていることが増えた。触れていること自体は、痛みにはまったく何の影響もなかった。触れていても、触れていなくても、ずっと心地よい疼きがあった。それは植物が真奈の身体の一部になるための痛みだった。

 もう一つは、睡眠だった。ベッドに入って数時間が経ってようやく眠りにつくのがいつものことになってずいぶん経つが、ここ数日、目を閉じるとそのまま眠っていることに気が付いた。朝は、まるで自分のものではないような身体の軽さとともにすっきりと目覚めた。カーテンを開け、日の光を浴びると、充実しているような気分を味わうことができた。

 ただ散歩するためだけに出かけることさえ、するようになった。

 蔓は指の付け根から、手の甲を這い、手のひら、そして手首に巻き付いていった。

 散歩に出かけるとき、真奈の足は自然と河川敷に向かった。ときどき違う道を選び、まるで知らない街を歩いているような錯覚を楽しんだ。散策の途中で見つけたパン屋は真奈のお気に入りになった。

 今朝は、久しぶりに就活サイトから、応募フォームへ進むボタンをクリックし合計三社に応募した。履歴書も書いた。停滞していた毎日が進み始める解放感とともに玄関を開け、軽い足取りでパン屋の袋をぶら下げて土手のレンガ道を歩き、ベンチに座ってパンをかじっている。

 真奈は不思議な気分だった。

 こんなにも身体が軽かったことが今まであっただろうかと思う。頭の中も、重たいもやが取り払われ、静かに澄んでいた。これまでの自分とは切り離され、清浄な別の空間にいるようだった。無力感はどこかへ行ってしまい、何もかも上手くいきそうな予感が残った。これまでどれほど沈んだ気分でいたのか思い知り、左手の疼きを慈しむように撫でる。

 緩やかに螺旋を描きながら、けれど何重にも複雑に絡み合いながら、薄緑のものは肘に到達し、二の腕を這い上がっていく。それはすでに真奈にとって植物であって植物ではない。身体の一部、という感覚をすら超えて浸食していく。

 小指はすでに、肌の見えないほどに、薄緑のもので覆われている。




 再開した企業への応募は、三社ともお祈りメールが届いて終わった。落ち込みはしたものの、まだこれからだ、というやる気に満ちて、真奈はまた別の企業への応募を進めた。並行して続けてきた公務員試験に向けた勉強も、これまで以上に時間を費やした。

 薄緑のものは、二の腕から肩、そして髪の毛に伝いながら伸びていく。その蔓のところどころに、ぷつぷつとした膨らみが現れ始めていた。大きくなることはなく、蔓のあちこちに数を増やしていった。それは蕾だった。未だ名前を知らないそれは、真奈の身体を這い上がりながら、花を咲かせようとしているようだった。

 ある日の朝、目覚め、真奈は無意識に左の小指に触れながら、就活サイトを開いた。通知が何件かあり、そのうちの一つは、書類審査通過を知らせるものだった。一次面接の案内に目を通しながら、真奈は、自分がそれをそれほど嬉しく思っていないことに戸惑った。内定が出たわけでもなく、ただ一通分の書類審査が通過しただけ。確かにそれは、小さなことかもしれなかった。だがその小さなことすらできなくなり、これまで苦しかったのだった。そこに現れた小さな変化は、喜ぶべきものであるはずだった。それなのに、真奈の内側にはまた、以前のあの重たい無力感が、その一つの通知を開いたことで、堰を切ったようにあふれ出していた。

 溜息が零れ落ちる。

 真奈は衝動的に、選考辞退の連絡をした。安堵し、遅れて後悔もやってくる。そのまま何をする気にもなれず、真奈はベッドに転がった。気持ちの、軽くなって浮き上がった分、反動で深く沈み込んでいくようだった。

 いつの間にか眠り、ようやく起き上がったのは、夕方近くなってからだった。頭痛がしていた。朝から何も口にしていなかった。水だけ飲み、真奈は外に出た。

 何もできないまま一日が終わっていく虚しさを嫌というほど知っていた。まだ、今日は終わっていない。まだ何かすることができるはずだ、という思いが真奈を動かしていた。そのためにはまず、気分を変えなければならなかった。

 あの高揚感が欲しかった。実際、部屋の外の空気に触れ、日の傾く中を歩いていると、部屋の中にいたときの閉じ込められているような息苦しい閉塞感は少しだけマシになった。寝過ぎたせいか、頭のはっきりしないまま、真奈は歩く。

 ポケットの中でスマホが振動する。通知画面に現れたのは予備校の講義日程のリマインド。今からアパートに戻り、準備をして出直せば、まだ十分に間に合う時間だった。真奈の歩調が鈍る。行かなければ、とは考えつつも、奥底から湧いてくるのは、行きたくない、という気持ちだった。スマホをポケットにしまう。

 歩行者信号の赤に、真奈は足を止めた。

 何度も溜息ばかりが出る。行くべきだと考える自分と、行きたくないと感じる自分との間で、堂々巡りだった。もう何をするのも嫌だった。今朝、選考辞退の連絡をしたこともそうだった。すべてに投げやりな気持ちになっていた。たった一回、欠席するくらい平気だ、と自分に言い聞かせる。信号は青。横断歩道を渡る。

 歩いても歩いても、一向に気分は晴れなかった。むしろ後ろめたさに苛まれ、最低な気分だった。たどり着いたベンチに腰かけ、真奈はまた溜息をつく。

 こんな気分でいることが嫌なら今からでも行けばいいのだ、と頭では思うが身体は動かない。そうしているうちに時間は経ち、もう今からでは間に合わないところまでやってきてようやく、行かなければ、と自分を追い立てる必要がなくなり、ほんの少し身体の力が抜けた。

 だがそれで真奈の気分が晴れたわけではなかった。選考も辞退し、予備校にも行かず、欲しかった高揚感もなかった。何も出来ていないまま、時間を無駄にした虚しさがあった。何かをしなければならないという焦りがあった。だがそれをしようとすると、身体は動かなかった。

 何ならできるのか。何をしたいのか。真奈は自分に問うた。だがしかし、その問いは、真奈を絶望させた。真奈は、自分自身が、何をしたいのか、分からなかった。

 結局、企業への応募も、公務員試験の勉強も、自分のためのものではなかった。内定を辞退して安堵した理由もそれだった。内定が出ることを恐れているのではなく、内定が出たことに対する母親の反応を恐れているのだった。母の意志に囚われたままでいる自分に絶望した。

 自分の気持ちを蔑ろにしてきた結果がこれだった。

 今更どうすればいいのか、真奈には分からなかった。

 自分の人生を自分で生きられないことに、真奈は疲れていた。

 真奈は立ち上がり、河原へおりていった。草の上に座り込んで両足を抱え、膝の上に額をつけて、目を閉じた。緑と土の匂いがした。

 しばらくそうしていると、不意に、ちり、とほんの一瞬、静電気のような感覚がはしり、指先を見た。花が、咲いていた。白い花弁の、いかにも頼りなさそうな小さな花だった。触れるとその白がけがれてしまいそうで、真奈はただじっとそれを見ていた。

 連鎖するように、ちり、ちり、とほかの蕾もひとつずつ開いていった。なんてきれいなのだろうと思った。深く吐息の漏れるほど、ちりちりと開く蕾に心を揺さぶられていた。だからだろうと思った。こんなにも地球がぐるぐる回っているのは。

 はじめはゆっくりと。次第に早送りしているような速度で、景色がぐるぐる回る。

 目が回り、身体の感覚が遠ざかっていく。

 やがて追いつくことができなくなり、


 そうして真奈は。

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