第7話 忘れじの証人
修復台の上には、冷たい黒鉄の塊と、白く空虚な紙片が並べられていた。その光景は、私たちに突きつけられた選択肢、すなわち『肉体の死』と『思想の死』の全てを象徴していた。私はそのどちらにも手を伸ばすことができなかった。どちらも、私の愛する藤代さんの『生』を奪う行為に他ならなかったからだ。
「選べない」と私は囁いた。「あなたの命と、あなたの思想。どちらを失うことも、私には耐えられない。私は、あなたに屈服して生きることも、死ぬことも、命じることができない」
藤代さんは静かに私の顔を見た。彼の目は、あの亡霊の遺言を初めて読んだときのように、遠い過去を映していた。
「君は、私に『生きろ』と命じたいのだね。それは君の愛だ。だが、私の命は、とうに私個人のものではない。私がこの街で生き残ったときから、それは同志たちの記憶であり、彼らを追い詰めた制度の標本となった。君は、標本に屈辱的な『生』を強いるのかい?」
彼の言葉は、私に屈服という名の裏切りを強いるよりも、ずっと深く私の心を抉った。私は彼に、屈辱的な思想の死を強いることなど、自分の命を守るためだとしても、絶対にできないと悟った。それは、彼の全てを否定することだった。
私は、藤代さんの手を握りしめた。彼の掌は、古書の繊維を扱う修復士の手らしく、細く、しかし驚くほど固く、冷たかった。
「ならば、一緒に逃げましょう。あなたの自由を奪う前に、この街を、この国を、捨てて、どこへでも」
藤代さんは、その言葉を待っていたかのように、微笑んだ。その笑みは、悲しみと安堵、そして揺るぎない決意に満ちていた。
「もういい。君を巻き込むのは、ここまでだ」
彼はそっと私から手を離し、修復台の上の白紙の誓約書を隅に寄せた。紙が動く、わずかな擦過音。その瞬間、彼の選んだ『道』が、私には痛いほどに明確になった。彼は、思想の死を拒否し、肉体の死による最後の自己決定を選んだのだ。それは、私を生かすための究極の自己犠牲であり、誰にも支配されない唯一の自由だった。
そのとき、部屋の外、路地の石畳を、複数の足音が乱暴に踏み鳴らすのが聞こえた。それは、以前の三拍子の静かな監視とは明らかに違った。もはや隠そうともしない、特高の荒々しい踏み込みの足音だった。
あの男が言っていた、三日という猶予すらも罠か欺瞞だったのだろうか。外の世界からの暴力的な介入が、急激に私たちへと迫ってきたのだ。そして、すぐに、私たちの部屋の重い木製扉が、誰かの拳によって、激しく叩かれた。
「藤代!開けろ!我々は全て知っている!」
外の怒声が響き渡り、藤代さんの最後の時間が、無慈悲に宣告された。
私は彼の胸に飛び込んだ。この恐怖と絶望の中で、私に残されたのは、彼だけだった。彼の身体がその皮膚の下で、強固な鉄のように緊張しているのを感じた。
「行かないで、藤代さん。私と一緒にいて。生きて、この沈黙を破りましょう」
だが藤代さんは私を優しく、しかし確実に引き剥がした。彼の指先が私の肩に触れた感触が、別れの冷たさとして残った。
「私が生き延びれば、君は私と同じ地獄に落ちる。私の死は、君への最後の贈り物だ。この部屋から出て行きたまえ。君は、私を生き延びた。それが君の役目だ」
彼は私を窓際へと押しやった。私は涙と絶望の中で、彼が私を救うために、自らの命を犠牲にしているという、その残酷な愛の構造を完全に受け入れざるを得なかった。窓を開け飛び降りる直前、彼は私の耳元に、最後の言葉を囁いた。
「生きて。そして、忘れるな。君は、私というこの矛盾が、なぜ終焉を迎えたのかを、外の世界へ語り継ぐ、唯一の証人となるのだ」
私は彼の言葉を胸に、彼の運命から逃れることしかできなかった。飛び降りて、走って、逃げた。路地の角を曲がる直前、私は振り返った。閉ざされた扉の向こう、修復室の中は、外の怒号さえも飲み込む、嵐の前の静けさに支配されていた。




