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沈黙を綴りて  作者: 蓼煮込みうどん半額処分


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第6話 通告と選択


 飯田と会ってから数日が過ぎた。私は彼に会ったことを藤代さんに打ち明けられずにいた。言葉にすれば、私自身が彼に『思想を殺せ』と命じることになる気がしたからだ。しかし、時間は残酷に過ぎていき、街の空気は徐々に鋭くなっていった。窓の外の影は長く、夜が深まるたびに、その色は濃くなった。


 ある金曜の夕方、藤代さんの部屋からの帰りに背筋を凍らせる出来事が起きた。路地を曲がった瞬間、二人の巨漢に両脇を絞められ、無言のまま小さな喫茶店へと連れ込まれたのだ。悲鳴をあげる暇も与えられなかった。


 店内の照明は低く、少し薄暗い。当然のことながら、客らしき姿は全く見当たらない。座らされたテーブルの向かいには、飯田ではない、がっしりした体格の男が煙草を吹かしていた。私が口を開くよりも早く、男は小山のような灰皿に火がついたままの煙草を落とし、淡々と話し始めた。それは会話ではなく一方的な通告であった。黒塗りのファイルを取り出し、私の履歴書や、住所、喫茶店で藤代さんと初めて会った日時まで、事細かに調べ上げられていた。


 「正直、我々は君とあの男の関係には興味がない」と男は言った。声には感情が欠けていた。「興味があるのは、君が近頃、不審な事件に関わったのではないかという一点だけだ」


 私は震えながら否定した。「していません。何の証拠が——」


 男は鼻先で笑った。「証拠はこれから作る。君が藤代氏を通じて、密書を仲介した、あるいは資金を渡した、という体裁にでもすればいい。そうなれば、君は『現行犯』だ。だが我々は紳士的に選択肢を与えてやる」


 彼はそう言って、二つの書類をテーブルに押し出した。一方は白紙の誓約書の複写、もう一方は、私の手で署名すれば彼が直ちに釈放されると示す「協定書」の体裁だった。男の指は冷たく、用紙の端を滑らせると、私の顔をじっと見た。


 「選べ。ひとつ、我々に逮捕され、名誉と職を失う道。ふたつ、あの男に、我々が用意した『思想の放棄』の書面に署名させる道だ。君が署名させれば、君はこの街での生活を取り戻すことができる。だが、彼は死なないかもしれない。奴が書面に従えば、それは死人同様だ」


 言葉の重さが、私の胸を潰した。彼らのやり方は冷酷だった。彼らは法の縁を巧みにすり抜け、疑いと証拠の間に橋を架ける。飯田の言葉を思い出す。『思想の無害化』。それが救いであり、同時に死であるということを。


 気が動転して、私はただ早口で頼んだ。「やめてください。私はそんなことは認められない。藤代さんにそんな——」


 「君に時間はない」と男が言い放った。「今日(こんにち)より三日を過ぎずして、我々は君の周囲を精査する。家族、友人、出入りの店、その他諸々。見つかれば、我々は構わず引き摺り出すだろう。見つからなければ……分かるだろう?君の選択次第で、彼が生き延びるか、あるいは……な」


 男たちはそれきり店を出ていった。机の上の二つの書類が、今の冷たい現実を知る証人だった。煙草の火は既に消えていた。立ちあがろうとしても、足が震えて仕方がなかった。


 外に出ると、男たちの姿はもはやどこにもなかった。まるで全てが彼らの予定調和のようで、気味が悪かった。ただ私はその場を去りたかった。そうして走り、藤代さんの部屋へ戻った。半ば息を切らしながら、彼に今起こったことの全てを話した。


 彼は私の告白を静かに聞いていた。顔色は変わらなかったが、目の奥が針のように細まった。修復台の上に置かれた白紙の誓約書が、夜の薄明かりに冷たく光っていた。


 「私は、あなたにそれを書いてほしくない」と私は泣きそうな声で懇願した。「でも、あなたが苦しむのを見るのは嫌だ。どうか、生きてほしい。屈して生きることだって、選択だと——」


 彼は微かに笑った。それは安堵の笑みではなかった。壊れた世界を再確認した人の笑みだった。


 「君の言うことは、愛だ。しかし、私の生は個人のものではない。私が生きることそのものが、同志たちの記憶を脅かし続ける。君は私の生を選ぶことで、君自身を終わらせるかもしれない。私は、それを君にはさせられない」


 言葉は罪のように私の胸に落ちた。私は彼の論理の冷たさを否定したかったが、どこかでそれが理に適っていることをも認めざるを得なかった。私の存在が、彼を縛り続けているという事実が、私を引き裂いた。


 彼は立ち上がり、棚の下から拳銃を取り出した。古びた机上で、黒鉄が短く光った。彼はそれを私の前に置き、隣に白紙の誓約書を並べた。ふたつの選択肢が、冷たく並んでいる。彼の指が拳銃の輪郭をそっとなぞるのを、私は見た。


 「君が私を救うための道は、二つだ」と彼は言った。「どちらを選ぶかは、君の自由だ。しかし、選ぶ時間は、もうないのだ」


 私は拳銃に視線を落とした。私が手をどれほど震わせようとも、鉄は沈黙したまま何もしなかった。だが、その沈黙は声よりも雄弁で、私の全身を震わせた。私は、愛する人の運命を決めるという、耐え難い責務を抱えさせられているのだと、思い知らされた。


 夜は深く、街は静かだった。窓の外には、また誰かが止まっている気すらしている。その影が動く前に、私は決断をしなければならなかった。

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