第5話 虎穴に入らずんば
藤代さんの部屋の窓外に見たあの影は、私の決意を固めさせた。私がこのまま静かにしていれば、彼は彼の論理通りに、あの冷たい鉄の塊で自らの運命を終わらせてしまうだろう。私は彼のいう法の網そのものを理解し、切り裂く必要があった。彼の命を守るには、彼が身を置く歴史と制度の構造を外側から破壊する。それしか考えられなかった。
まず頼ったのは、以前藤代さんのことを話していた喫茶店のマスターだった。マスターは驚きもせず、私の切迫した表情を見て、一つの名前を口にした。
「もし、その手のグレーな問題に詳しい人物を探しているなら……。官僚の中に一人、変わった男がいる。法律と人道の境界線で、常に揺れているような男だ」
私はマスターから紹介された連絡先を手に、灰色の建物が並ぶ一角へと初めて足を踏み入れた。そこは特高警察の根城とも呼べるような領域にほど近く、好んで近づきたくはない場所だ。
路地裏の静寂とは違い、目には見えない管理と規律の重みが張り詰めているようですらあった。すべての視線が、私のような部外者の動きを品定めしているように感じられた。
待ち合わせ場所に現れたのは、飯田と名乗る男だった。痩せた細身の長身で、スーツを正確に着こなしていた。その眼差しには役所の人間特有の冷徹さとは別に、疲労の色と諦念も混じっていた。彼は制度の歯車として生きる苦痛を抱えている、藤代さんの外部における鏡像のように見えた。
「藤代さんですか」と彼は言った。声は静かだったが、蛇のごとく内心を探るようでもあった。
私は藤代さんの過去を語るのではなく、彼の現在の状況、そして彼が抱える生き残ったことへの罰という論理を簡潔に伝えた。そして、彼の命を守るために彼への監視を止める方法はないのかと問うた。
飯田はテーブルに置かれた湯気の立たない紅茶をじっと見つめ、静かに答えた。
「あなたの言いたいことは理解できます。藤代氏のような人物は、法廷では裁けません。彼は法律の枠内では罪を犯していない。しかし、思想の炎をくすぶらせている。それが彼を『法の抜け穴』のような存在にしているのです」
飯田は顔を上げた。その目は、冷たい壁のようにそびえる建物の内部を映しているようだった。
「監視をやめる方法?……一つだけ、あります。藤代氏の『思想の無害化』が客観的に証明されれば、ですがね。」
私は食い入るように飯田を見つめた。藁にも縋るような思いであった。
「書面が必要です。彼の過去の思想、それが現在いかなる危険性も持たないことを誓約する、公的な書面。そして、その『誓約』を、彼が自らの言葉で、自らの筆で書き、公文書として特高が保管する。彼が今後、いかなる政治的な活動にも関わらず、沈黙を守り、歴史への関与を完全に放棄するという証。それさえ証明されれば、藤代氏を監視し続ける法的、あるいは制度的な根拠は失われます。」
私は一瞬、希望に胸を膨らませた。書面だけで済む。彼が生き延びられるなら、沈黙を選ぶことなど…。
しかし、飯田の次の言葉が、その希望を一瞬で打ち砕いた。
「ですが、それは藤代氏にとって、『思想の死刑宣告』にも等しいでしょう。彼自身が、過去の同志たちの遺志を否定し、彼の存在意義そのものを、制度に差し出すことになる。彼のような人物にとって、それは、肉体の死よりも重い屈服を意味する。」
飯田は壁の時計に目をやり、声のトーンを一段と落とした。「……その手続きには、時間がかかります。それに、より早く、確実な方法もあります。この数日の間に、我々の中では藤代氏の『不作為』が、別の扇動につながっているのではないか、という疑念が持ち上がっているのですから。」
それは、具体的な捜査の予告だった。
「近いうちに、あなたの住む集合住宅の周辺に、さらに強力な捜査の手が入るでしょう。そして彼らが探すのは、藤代氏自身ではなく、藤代氏と接触している者の痕跡です。」
喉元に刃を押し当てられた。そう感じさせるほどの、飯田からの警告であった。同時に、彼が、彼らが私を監視下に置いたという、静かな宣言でもあった。
私は飯田に時間を作ってもらった謝礼を述べて、冷たい石畳の路地へと戻っていった。足早になっている自覚はあった。後ろを振り返ることが怖かった。
藤代さんを救う唯一の道が、彼を思想的に殺すことであるという絶望がジワジワと私を蝕んでいた。私が今や、彼の運命の引き金を引くことを強制されているという恐怖を抱えて路地の暗がりへと戻っていった。




