第4話 黒鉄と監視
あの亡霊の遺言を発見して以来、藤代さんの部屋は、さらに一層静かになった。修復台の上には古書一つ無く、その周りを避けて生活していた。
沈黙はもはや、外部の監視に対する防御ではなかった。それは藤代さんが自分自身と、彼を縛る歴史の矛盾を前にして、必死に保とうとする内面の均衡だった。遺言は「沈黙を貫け」と命じているが、彼に詩集を送った者は「行動せよ」と命じている。この矛盾が、藤代さんの存在を内部から軋ませていた。
ある日の夕暮れ時、藤代さんはなんの前触れもなく作業を止めた。彼は私をまっすぐ見つめ、そして、部屋の隅の棚の下に置かれていた、私が以前から異物として感じていた小さな包みを指差した。
「君には、これを見ておいてもらうべきだと思う」
私の鼓動は早くなった。彼は無言で包みを開いた。薄い布から現れたのは、小さな、しかし驚くほど冷たい黒鉄の塊だった。私が漠然と感じていた鉄の匂いの正体。それは私が想像していたよりも遥かに小さく、そして遥かに重厚に見えた。私の手が震えたのは、その武器が持つ暴力性のためではない。それがこの静謐な部屋で、藤代さんの思想の極点として、初めて現前したことへの畏れだった。
「聡い君なら、気がついていたのかもしれないが」と藤代さんは静かに呟いた。「……彼らは、私が生きている限り私を支配し続ける。たとえ法廷に立たなくとも、この監視自体が、私への永遠の処罰だ」
藤代さんはその拳銃をそっと修復台の上に載せた。冷たい鉄が古い木の台に当たった、微かな「ゴツン」という音がやけに部屋に響いた。それは彼の最後の論理を、物質が肯定する音のようだった。
「この道具は、彼らへの抵抗ではない。これは、私の運命の終わりを、私自身が決めるための道具だ。誰にも支配させない。誰にも、私の最後の言葉を奪わせない。この拳銃は、私が自らに課す、最後の沈黙だ」
その言葉を聞いた瞬間、私の中でこれまでの全ての曖昧な不安が、一つの具体的な恐怖に変わった。その拳銃は藤代さんにとって『自由』の象徴であると同時に、彼を確実に死へ引き寄せる新たな牢獄の鍵であることを、私は悟った。
「私が生き延びれば、彼らはいつか必ず、君を私に結びつけて、君の自由を奪う。君を私と同じ、永遠の『要視察人』にするだろう。私が死ぬことは、君を彼らの目から解放する、唯一の方法なんだ」
彼の言葉は歪んでいた。それは愛する者を守るための究極の自己犠牲でありながら、同時に、彼自身の生存への疲弊からくる逃避でもあった。その論理が正しければ、私が彼を愛し、そばにいることこそが、彼を死へと追い詰めていることになる。私は、自分自身が彼の運命の引き金になっているという、恐ろしい自己認識に打ちのめされた。
彼の論理を打ち破るには、外部から手を打つしかない。私自身が彼を縛る法の網、監視の網がどのように張り巡らされているのかを理解しなければならない。そして、その網を彼を巻き込まずに切り裂く方法を見つけ出す必要があるはずだ。
その日の終わり、私が彼の部屋の窓の鍵を閉めている時、それに気がついた。小さな窓から少しだけ覗ける細い路地の風景。そこに、誰かの影が静止しているのが見えた。朝、窓を開けた時もいた不審な黒服の男。以前にも見かけたことはあったが、今日は丸一日より張り付いているようかのように、微動だにしていなかった。
長く、それでいて明確な監視。それは彼らが次の行動に移ろうとしている予兆のように感じられた。私は藤代さんに悟られないように、静かに彼の部屋を後にした。




