第3話 亡霊の遺言
あの詩集を修復台の上に置いたまま、藤代さんは三日間、ほとんど筆を取らなかった。私たちの部屋を支配しているのは、詩集に込められた誰かの意図、そして、それがもたらす予期せぬ過去の呼び声だった。外の監視の気配は、かえって薄くなったようにさえ感じられた。彼らは、藤代さんが詩集の中の仕掛けに気づいて動き出すのを、ただ静かに待っているようだった。
「これは、一種の罠だ」と藤代さんは低い声で言った。「だが、罠だと知っていても、見つけなければならない。この詩集は、私に『沈黙を破れ』と命じている。沈黙とは、私が生き残ったことの対価だった。その上で、この痕跡は、私にその対価を再び要求している。」
四日目の朝、藤代さんは覚悟を決めたように、細いメスを手に取った。詩集は表装を剥がされ、背表紙と本文を繋ぐ古い糊の層が露出した。彼は慎重に、まるで古い傷口を抉るかのように、背表紙の裏の、二枚の厚紙の間をわずかに剥がしていく。その作業は、単なる修復というよりも、亡霊を呼び覚ます儀式のようだった。私は息を詰めて、彼のその孤独な探求を見つめた。
埃と古い糊の匂いの中に、藤代さんが一瞬、息を止めた。
「……あった」
剥がされた厚紙の隙間から現れたのは、小さな小さな、巻かれた和紙だった。それは、修復室にあるどの古書よりも新しく見えたが、その紙質と、表面に刻まれた微細な暗号のような記号は、私も知るものだった。それは、あの時代、同志たちが命を懸けて使用した秘密の文字の断片に違いなかった。
藤代さんは、その和紙を震える手で平らに広げ、光に翳した。それは、日記や書簡ではない、わずか数行の断章だった。暗号を解読するのに時間はかからなかった。藤代さんの目が、その和紙に書かれた一節を辿るにつれて、その顔から急速に感情が抜け落ちていった。
そして彼は、その一節をほとんど囁くように読み上げた。思わず音に出てしまったようでもあったが、私に向けて言っているのだと思った。
「『生きて外にいる者は、沈黙を貫け。我々の死を、無駄にするな』」
それは、かつて処刑された同志たちが命を懸けて残した、いわば亡霊からの遺言だった。その言葉が、修復室の静寂を切り裂いて響き、私たちの胸に真冬の水のような冷たさを落とした。藤代さんはその瞬間、自分が生き残った理由を改めて突きつけられたのだ。沈黙という重荷、そして、その沈黙を破って動くことへの死の宣告。
「彼らは、私に沈黙を守るように命じている。だが、私にこの詩集を送った者は、私にこの遺言を見つけさせ、この矛盾の中で苦しむことを強制している」
彼は静かに和紙を修復台に置いた。
「彼らは私を、ただの生き残りだと思っていたはずだ。だが、この遺言が私の手元に来たということは――」
彼の視線は、虚空を捉えた。「私は、まだ歴史の中にいる。彼らは、私を過去の亡霊として、再びこの世に呼び戻そうとしているんだ。私が生き残る限り、この過去は私を離さない。」
私は彼が抱える孤独が、もはや個人のものではないことを悟った。それは、歴史全体が彼に押し付けた矛盾だった。彼を救うためには、この歴史という名の牢獄から彼を引きずり出さなければならない。その瞬間、私は彼をただ見守る『証人』から、彼の運命に深く関わる『共犯者』へと、自らの立場が引き寄せられていくのを感じた。
藤代さんは、あの遺言を慎重に包み、修復道具とは別の誰も触れない場所へと静かに移した。彼の背中はそれまでのどの時よりも遥かに固く、重くなっていた。まるで、彼自身が未来の決着の重みを、その身に受け止めているようだった。彼の部屋の隅、以前から私が鉄の匂いを嗅いでいたあの場所に、小さな包みが置かれているのを見た。彼の孤独な沈黙は、もはや一つの行動へと向かいつつあった。




