第2話 沈黙の痕跡
藤代さんは、あの三拍子の足音については決して語らなかった。私も尋ねなかった。沈黙が私たちにとって、外部の敵意に対する一つの共同の誓いのようなものになっていた。私たちは、外の世界の敵意に対して、同じ部屋の中で、同じ呼吸をするようになった。
私はいつもと変わらず彼の仕事を手伝う。作業に取りかかる前、彼は必ず眼鏡を外して鼻当てを軽く押す仕草をする。まるで視界を物理的に整えるようにしてから、刷毛を手に取るのだった。
古い巻紙の埃を払い、極細の筆で虫食いの穴を埋める作業は、私の指先にも、藤代さんの孤独な集中力を移し替えるようだった。彼の仕事は、まるでこの世のあらゆる出来事から身を隠す、深い瞑想のようだった。私たちは言葉を交わさなくても、古紙の繊維と糊の匂いを通じて、目に見えない共犯関係を築き始めていた。
ある午後、修復依頼された一冊の薄い日記帳を広げたとき、私は奇妙なものを見つけた。それは日記の背表紙の裏、糊で紙が張られたごく狭い隙間にあった。光に透かしてみると、そこに鉛筆の小さな、記号のような印が、薄く書き込まれているのが見えた。その印は、修復士である藤代さん自身がつけたものではない、第三者の、冷たい意志の痕跡のように見えた。
「藤代さん、これ……」
私がその印を指差すと、藤代さんの顔から、いつもの平静が一瞬にして消えた。彼は私の手をそっと押し下げ、日記帳を無言で引き寄せた。そして、その印をじっと見つめ、静かに息を吐いた。
「君は、その印を消そうとしてはいけない」と彼は言った。声は重く、諦観が混じっていた。「これは、彼らの仕事の痕跡だ。彼らは修復された古書を検閲し、そして、私たちが沈黙を保っているか、あるいは危険な思想をまだ抱いているか確認するために、こうして印を忍ばせていく。」
彼の言う『彼ら』とは、もちろん特高警察のことだろう。だが、その行為はただの監視ではない。
「古書を修復しても、真実の『痕跡』は、見えない場所に残る。彼らはそれを知っている。だからこそ、私のような人間を静かに見張る。それは、私が生き残ったことへの罰なんだ。」
彼の目が、光の当たらない部屋の奥を、遠く見つめた。その視線の先に、私には、処刑台の冷たさや、獄舎の壁の暗さが透けて見える気がした。彼が背負う孤独は、単なる監視の重荷ではなく、死んだ同志たちの運命から自分だけが外れたという、深い罪悪感から来ているのだと悟った。
「沈黙は、私たちにとっての唯一の盾だ。敵から身を守る、冷たく高い壁だ。だが」藤代さんは言葉を切った。「沈黙は、同時に牢獄でもある。いつ破られるか分からない壁の中で、いつまでも過去の亡霊と生きる。そして、この沈黙こそが、彼らが私に課す最大の服従なのだ。私は、彼らの望む役割を演じているにすぎない。」
彼の言葉は、私に向けた最大級の温かさだった。「君が私の仕事を手伝ってくれるのは、その牢獄の壁に、かすかな日の光を差し込んでくれるからだ。」 私たちは、孤独と監視という共通の敵を持つ、危うい運命共同体のようになっていた。
数日後、新たな修復依頼品が届いた。それは、古い詩集を装丁し直したものだった。いつものように糊と刷毛で作業を始めたとき、私はあるページに違和感を覚えた。そのページの裏側を、藤代さんが光に透かして見せた。
「これは……」と藤代さんは呟いた。「この詩は、出版から半世紀以上経っているはずだ。だが、このページの裏でインクが擦れている痕跡は、ほんの数ヶ月前のものだ。しかも、意図的に、別の文字列を書き込んでから消した痕跡がある。」
それは、単なる古紙の傷みではなかった。誰かが最近、この詩集に何かを隠そうとした、あるいは何かを伝えようとした痕跡だった。そしてその痕跡は、藤代さんの手に渡るように、明確な意図をもって残されていた。
藤代さんの顔から血の気が引いた。彼はその詩集を修復台の上に広げたまま、まるで地雷に触れたかのように静止した。
「彼らは、もう印を忍ばせるだけでは満足しない」と、彼の声は恐怖を孕んでいた。「彼らは、私に何かを見つけさせようとしている。沈黙の牢獄の扉を、外から、故意に開けようとしているんだ。」
窓の外は、夜の帳が降りていた。路地の静けさは、もはや安らぎではなく、狩りの開始を待つような、張り詰めた緊張を孕んでいた。その沈黙の中で、私は初めて、藤代さんの運命が、不可避的に次の段階へと進み始めたことを悟った。




