1-3 初めの一歩
その日私はクリューソス隊の隊長室に呼ばれていた。
重厚な応接セットのテーブルに、私の出した転属願いが置かれている。
「君はうちに来てくれると思っていたんだがね。」
クリューソス隊の黒のローブに隊長を表す金の飾緒が下がる。目の前の人物はティーカップのお茶を一口含むとそれを置いた。
このハルト隊長は攻撃魔法の大家である。魔術師の多くが一つか二つの属性しか扱えないのだが、隊長は火・水・風・土のそれぞれ相反するエレメンツを操り相剋する要素を合わせて発動させ爆発的な現象を引き起こせると聞いたことがある。精鋭の多いクリューソスにあっても規格外の人物である。騎士団長ヴァルターと並んで隣国との戦争で活躍した英雄の一人だ。
「身に余る光栄です。」
私は静かに答えた。
ハルト隊長が自分をクリューソス隊に欲しいと言っていたのは知っている。そして、彼が推薦書を書いていてくれたことも。
ただ、私がこのまま誘いを受けてクリューソスに転属したとして、それでは前と同じになってしまう。高く評価してくださるのはありがたいが、クリューソス隊の任務をこなしながら事態を打開できるほど器用ではない。
「では、私の希望を知っていて、クリューソス隊ではなくノクス隊を志望する理由を聞いても?」
そう。私は魔術学・魔術史学・薬学の研究機関であるノクス隊への異動を申し出たのだ。この刻印と地震、あの遺跡についての因果関係でわかっていることはあまりにも少ない。ただ、思っていたよりもずっと早くに事態は動き始めていた。地震は微弱ではあるがあれからも起きているし、自分の刻印も少しずつ色を変えている。これが全て色が変わってしまう時、何か取り返しのつかないことが起こる気がするのだ。そう思うと一時も無駄にしてはいられない。できる限り情報を集めたい。
「魔術史学は学院でも研究しておりました。魔術史学のエマーソン先生の研究室に在籍していたこともあります。」
ノクス隊には魔術史学研究所がある。そこなら学院にない史料があるかもしれない。なんでもいい。何かを始めなければ何も変わらない。
「それだけかね?」
理由として弱いのは分かっている。ただ、私が今言えるのはそれくらいしかない。
本当の理由はある。あるが、それを馬鹿正直に言ったところで奇人変人と思われるだろう。だが、自分はこれに賭けている。あの時いちかばちかでこの運命を選んだように。
どうしたらこの人を納得させられるだろう? 自分には時間がないのだと。でも、どうやって?
「・・・・・・・。」
下を向いて何も言わない私にハルト隊長は大きくため息をついた。
「決意が固いのはわかった。君にとって優先させるべき何かがある、ということか。ただし、有事の際にはこちらに転属させる。それでいいか?」
はっとして隊長を見上げる。
ハルト隊長はやれやれといった面持ちで椅子に深く腰掛けた。
「あ・・・ありがとうございます!」
「魔術師団長には私から伝えておく。」
立ち上がってハルト隊長に一礼すると私は部屋を出た。
それから割と早くに辞令は出た。
所属は希望していた魔術史学研究所だ。学院時代の研究論文が評価されたということらしい。後押ししてくださったハルト隊長にも感謝しなければならない。アズール隊の面々に異動の挨拶をし、隊舎の自分の部屋を片付けた。ノクス隊は研究機関という位置付けから、王城の側ではなく城下の王立学院に併設されている。宿舎もそちらの方が便利なので、王城を完全に出ることになる。私にとっては願ったり叶ったりだ。これでアシュフォード副隊長とは顔を合わせずに済むだろう。
城の事務で異動に伴う書類手続きを済ませ、荷物の搬出の申請をした。外に出ようとしたところで見知った銀髪が目の端に見えた気がしてくるりと踵を返す。
(このまま会わずに城を出たい・・・・。)
会って目を合わせても、余計なことを口走ってしまいそうだ。
外に出るためにはさっきの道を通るしかないが・・・。回り道をしてやり過ごすか・・・。
どうしようと逡巡して立ち止まった時、腕を掴まれはっとする。
(先回りされた? なんで・・・・・!)
眉間に皺を寄せたアシュフォード副隊長が険しい顔でそこにいた。後ろから追いつけたとは思えない。誘い込まれたの?
慌てて腕を振り解こうとすると、そのまま坪庭の木の影に引っ張り込まれた。
「ちょ・・・ちょっと! 離してください!」
もがいても騎士の力に抵抗できるわけがない。
「離してください! 痛いんです!」
強引に腕を振り払おうとして、ようやく離してもらえたが後ろには壁しかない。
「私を見て逃げたな?」
副隊長が私の前に立ち塞がる。
「何をおっしゃっているのかわかりかねます。帰りますので、通してもらえませんか?」
「質問に答えろ。なぜ逃げる必要がある?」
坪庭は狭く、目の前のアシュフォード副隊長の横は通り抜けられない。やっぱりここに誘い込まれたのだ。
「・・・逃げていません。」
不貞腐れたままぞんざいに返す。事実逃げたのだが、正直に言ってやる必要はない。
横を向いたまま黙りこくる私に、アシュフォード副隊長はあからさまなため息をつくとこちらに一歩近づいてきた。
「じゃぁ、質問を変える。なぜ、君がクリューソス隊ではなくノクス隊に異動なんだ?」
アシュフォード副隊長が進んだ分だけ一歩下がる。
「人事異動の希望は出しますが、任命権が私にあるわけではありません。」
「君の能力ならクリューソス隊が適任だ。ハルト隊長も推していたはずだ。」
副隊長が進んだ分だけまた一歩下がる。
「ですから、人事異動は希望は出しますが、任命権が私にあるわけではありません。知っているはずです。」
やけっぱちになって吐き捨てる。
「なら、ノクス隊に希望を出したということか。なぜ?」
「答える必要がありますか? 貴方には関係ないことです。」
「関係ならある。ずっと私を避けているだろう? ノクスへの異動は私が理由か? 私が君に何かしたか?」
「——————-! 避けてなんて・・・・自意識過剰なのではありませんか?」
「理由を聞きたいと言っているんだ。」
もう後ろには下がれない。
「貴方だって・・・・貴方だって、しょっちゅうぶつかる私がいない方が仕事がしやすいのではありませんか? 私はもう心穏やかに仕事をしたいんです。研究だって学院でもやっていたし、魔術史学の研究だって立派な仕事です。いけませんか!」
「私は———————!」
怒気を孕んだ声とともに顔の横に両手をつかれて囲い込まれる。
怖い—————!こんな副隊長、私は知らない!
「私は、君を疎ましいと思ったことなんか一度だってない。一度もだ。」
顔が近づく。
やめて。
「近づかないで————! 人を呼びますよ—————!」
(お願い・・・同じ顔で・・・同じ声色で、私を追い詰めないで!)
涙が・・・涙が勝手に頬を伝う。
体の震えが止まらない。
「やってみるか?」
副隊長の吐息が前髪をかすめる。
必死で押し返そうとした右手を掴まれた。
「それとも・・・、このカフスの男に言われたか?」
私の右手のカフリンクスと近づいて夜色になった瞳の色が重なる。
「——————!!」
瞬間、頭が真っ白になった。
がむしゃらに目の前の男を突き飛ばして走る。
城の職員や騎士たちが何事かと振り返っているが、涙に濡れた顔も感情もぐちゃぐちゃだ。
私は何もかもから必死で逃げた。
数日後、私はノクス隊の新しい灰色のローブを身につけ、王立学院の恩師を訪ねた。
エマーソン老師と呼ばれるその先生は、魔術史学の権威で今も学院で教鞭をとっている。かつて私も学院で先生の講義を受け、研究室で先生の研究を手伝ったことがある。その後私は魔術師団に入ったが、時々手紙のやりとりはしていた。
久しぶりに訪れた先生の研究室はいつかの日と同じく暖かな木の香りと古いインクの独特な匂いに包まれていて、本を傷めないように柔らかな魔法光に照らされている。
「おかえり。愛しい娘。元気だったかい?」
「ごきげんよう。エマーソン先生。」
足の悪い先生は車椅子に座ったまま両手を広げて出迎えてくれた。
私は先生にハグして挨拶を返す。
「青のローブも似合っていたが、灰色のローブもいい。研究の徒になってくれたことを嬉しく思うよ。」
「ありがとうございます。隣の史学研究所に自分の研究室をもらえることになったので、これからはちょくちょくお訪ねできます。」
「おぉ、それは嬉しいな。一等いいお茶を用意しておかなければいけないね。」
ふぉふぉふぉと笑いながら先生は目の前の椅子をすすめてくれる。
「それで、研究は何を進めるのか決めているのかい?」
「具体的にはまだ何も・・・でも、今日は先生に聞いてみたいことがあって・・・。」
先生は何も言わずに続きを促す。
「先生、魔法ってあるのでしょうか?」
「魔法とな・・・。」
ふむ・・・と一息つくと、先生はお茶を入れてくれた。私に白磁のマグカップを差し出す。授業の始まりの合図だ。
「魔術と魔法の違いを覚えておるかな?」
「魔術は人間が再現可能な事象の変更です。大気のマナを取り込み、自身の回路で変換し出力することによって事象を引き起こします。回路の適正によってエレメンツが決定され、変換の量は遺伝・術者の鍛錬によって増やすことが可能です。ただし、事象の変更は人間が再現可能なものに限られます。飛行や時間操作などは不可能です。」
「そう、では魔法は?」
「それ以外だと・・・・。」
「そう学院では教えておるな。未知のものは皆魔法と呼ぶ。もう一段考えてみたまえ。」
「今の魔術では人間の限界を越えるようなことはできないとされています。でも、史跡や古文書には今の魔術ではありえない事象が記録されている。古文書が正しいと仮定するならば、魔法と呼べるものは存在したのではないでしょうか。」
「そうだね。以前、君が手伝ってくれた古文書の絵を覚えておるかね?」
「はい。背中に羽の生えた人物が描かれたものですね。」
「あれはなんだと思う?」
「宗教的な象徴と捉えていました。」
「『天使』だね。そう捉えるのも間違いではない。ただ、私はあれは魔法を使った人間だったのではないかと考えている。」
「魔法・・・飛行魔法ですか・・・?」
「そうだ。『天使』だとするならば、頭の上に父なる神から賜った『輪』が描かれるだろう。だが、あの絵にはなかった。」
「他にも我々の知らない魔法がある・・・?」
「知の探究は我々研究者の使命だよ。」
先生はそう言ってまたふぉふぉと笑った。
先生の入れてくれたお茶をじっくりと味わう。懐かしい味と香りが体の内側からじんわりと広がる。
そうだ、この世界は私の知らないことだらけだ。
暖かい気持ちになってようやく今日のもう一つの目的を思い出した。
「先生、この後資料庫を拝見してもいいですか?」
「構わんよ。好きなだけ見ていくといい。」
先生とゆっくりお茶を楽しんで雑談をした後、茶器の片付けを申し出て研究室の隣にあるキッチンで洗って仕舞う。何もかも研究室にいた時と同じ配置、同じ茶葉、同じ茶器。学院時代の過去に戻ってきたような不思議な感覚だ。
資料庫もあの時と変わらないままそこにあった。
以前は先生にクリューソス隊への異動の挨拶をした後、ここで見つけた。
本棚の端、不自然に開いた上から3段目のスペース。
そこにあの時の「本」は無かった。
(----------------! 「本」が無いですって-------------!)
そのスペースには最初から何も無かったかのようにガランとしているだけだ。念の為、資料庫を端から端まで確認したが、どこにも本はない。
今まではほとんど同じだった。だから、本もきっとそのままここにあるだろうと思っていたのに。
誰かが持ち出した? まさか。自分だって解読に3ヶ月はかかったのだ。
中身を適当に見て持ち出すような本ではないはずだ。
最初から一回きりだったということだろうか?
あれがないということは、もう「やり直し」はきかないということだ。
呆然としたまま資料庫の扉を閉める。
この手の刻印以外、何も手がかりがない。羅針盤なしに大海に放り出されたような、あてどない旅にでなければならない。