市場と予想外の出会い
視点:エヴリン
廊下へ戻ると、最初に目に入ったのはカイリーン夫人がリサンダーを部屋へ押し込み、鍵をガチャリと閉める姿だった。
「礼儀というものを学ぶまで、ここにいなさい!」
まるで城の女王のような声だった。
中から響いたのは雷のような絶叫——
「なにもしてないってば!うるさいババア!出せ!!」
ドンッ!ドンッ!ドンッ!
カイリーンは眉ひとつ動かさず、犬小屋に閉じ込められた犬のように暴れる少年を見つめた。
「文明的……ね。まだまだ程遠いわ。」
そして氷像のように静かにこちらを向く。
「数学が得意と聞いたわ。1時間後に台所へ来なさい。」
数学?私が?
エレインがこっそり笑いながら近づいてくる。
「エレナが言ってたの。あなた計算早いって。今日から“算数の子”よ。」
「その前に、あなたがあの“スカート事件”を作ったこと忘れてないんだけど。」
エレインは腕を組んで芝居がかった溜息。
「だってあなたが頼んだじゃない、エヴリン。」
「でもあそこまで意地悪する必要なかったでしょ?」
私は笑った。
そうやって2人で笑っていた。共犯者みたいに。
――――1時間後
呼ばれた部屋は広く整然としていた。
帳簿、蝋印、積まれた書類、重厚な机。
フェレンティス卿は黒い背広の男と話をしていたが、その顔は苦悶に沈んでいた。頭を抱え、何かに押し潰されそうな人間の姿。
カイリーンが指先で私を呼ぶ。
「こちらへ。」
渡された紙には、麦粉・砂糖・蜂蜜・肉・塩・香草など、台所の食材一覧と金額。
「これを持って市場へ行くわ。あなたが値段を記録しなさい。計算は速いのでしょう?」
「はい、承知しました。」
部屋を出る前、もう一度フェレンティス卿を見る。
あの顔は、試験前に公式をひとつも覚えていない学生そのものだった。
おそらく——借金。
◆馬車
雲ひとつない晴天。
アフリカの太陽みたいに照りつける灼熱。
エアコンなんて影も形もない世界。
カイリーンは白い日傘帽子に紺のリボンを巻いた優雅な帽子を被り、同じものを私にも被せた。
そして目に入るのは眠そうな顔のマルラ。
枕で潰れたみたいな顔。
「そんな顔してると20前にシワだらけになるよ。」
私が笑うと、
マルラは勢いよくこちらを振り向く。
「もう一回言ったら今ここで老けさせるから。」
「じゃあその顔、伝染しないように気をつけて?」
次の瞬間、彼女が飛んできた。
私とマルラは鶏みたいにバサバサと取っ組み合い。
「やめなさい!2人とも!!
私に白髪を増やす気!?」
カイリーンの怒声で即停止。
でも視線はバチバチ。決着は次戦へ持ち越し。
馬車が走り出す。
◆王都
白い石造りの家並み、赤い屋根、彩色された旗。
パンと花と炭の香りが風に流れる。
「きれい……」
王都は本当に美しい。
でも市場に着くと景色は変わる。
布だけの屋根、叫ぶ商人、吊るされた果物、魔石の光。
混沌で満ちた生きた迷宮。
そして私は気づいた。
私は外へ出た。
見張りなし、鎖なし、檻なし。
自由。
胸が跳ねた。
逃げられる。
そう思った瞬間、肩に冷たい手が置かれる——
「考えるだけ無駄よ。」
低い声。
「奴隷が逃げれば首が飛ぶ。
獣人なら尚更、主の許可なしでは城門も通れない。」
息を呑む。
震えたのは声か警告か。
◆買い物
値段、重さ、品質を書き込む。
そして——
「じゃがいもが1つ銀貨5枚、20個なら?」
カイリーンの視線。
「5を20回繰り返せば答えは同じです。
つまり——5枚の銀貨が20回。合計は100枚。」
周囲の人間の動きが止まる。
1人はトマトを落とした。
彼らにとって暗算とは魔術と同じらしい。
「驚くほど賢いわね。」
カイリーンは微笑む。
「少しドジじゃなければ天才だったのに。」
絶対に褒めすぎない、それがカイリーン流。
マルラが腕を組む。
「私だってできる。」
「ならやってみて。」
「……今は気分じゃない。」
逃げた。
◆探索開始
「カイリーン様、向こうの相場も見てきます。」
「いいわ。ただしマルラも連れて行くこと。」
くっ。見張り付き。
「マルラ〜色んな店見るチャンスじゃない?」
「監視しろって言われたから監視する。」
完全に根性座ってる。
何人にも聞くが——誰もセラフィナを知らない。
最後に衛兵へ声をかける。
「すみません、セラフィナという魔法使いを——」
顔が曇った。氷みたいな目。
「奴隷の分際で口の利き方に気をつけろ。」
拳が飛んだ。
頬に衝撃、地面が回る。
「わ、私はただ——」
「黙れ。貴様らは使われるために存在する。」
マルラが吠えた。
「私たちはフェレンティス卿の下で働いてる。報告するわよ。」
衛兵の顔色が変わる。
「ば、バロンの……?いや私は——」
「行け。」
彼は逃げるように去った。
鼻血が落ちる。熱く痛む。
人間の冷たさ、優越感。
胸が燃えるように腹立たしい。
その時、影が私にしゃがみ込んだ。
フードの女性。落ち着いた声。
「大丈夫。来なさい、治してあげる。」
手を引かれる。
拒まない。拒めなかった。
怪しまぬ優しい手だった。
マルラが睨む。
「どこへ連れて行く気よ?」
「安全な場所へ。」
静かな店の中へ。
巻物、発光する鉱石、奇妙な瓶、知らない道具。
空気そのものが魔力みたいだった。
椅子に座らされ、女は手を掲げ呪文を紡ぐ。
緑の光が頬をなでる。
血が止まる。痛みが消える。
魔法。
私は目を見開いた。
そしてフードが外れる。
夜の湖みたいな紫の瞳。
「私はセラフィナ。
この街の魔術師よ。——ようこそ。」
ずっと探していた名前。
やっと見つけた。




