マーラの秘密・後編(パート2)
夜は、マーラにとって果てしなく長かった。
彼女は眠れず、寝返りを打つたびに同じ光景が頭をよぎった。
――赤ん坊の自分を抱きしめる、あたたかな腕。
朝日が窓から差し込む頃、マーラはすでにベッドに座っていた。
目の下にはくっきりとした隈。
だが、その瞳は……固く、強く、決意に満ちていた。
迷いに溺れるなど、マーラの誇りが許さない。
彼女は答えを求めていた。いや―― 強引にでも手に入れる覚悟だった。
東棟の廊下は静かで、朝の柔らかな光に包まれていた。
マーラは一直線に歩き、その足取りには迷いがなかった。
そして、足が止まった。
エレナがいた。
彼女はエレインと並んで立っており、仕事の紙を渡していた。
ふたりは小さく笑い合っている。
その光景が、マーラの胸をさらに締めつけた。
エレナの笑顔が……なぜか許せなかった。
まるで裏切られたようで、ひどく苦しかった。
マーラは鋭い足取りでふたりに近づいた。
最初に気づいたのはエレインだった。
その笑顔はすぐに消え、警戒したような表情に変わる。
エレナも振り返り、穏やかな表情のまま言った。
「マーレン? もう起き――」
「誰が私の母親なの?」
マーラは遮った。
廊下の空気が、一瞬で凍りつく。
エレインは瞬きをし、呆然とした。
エレナの身体も固まった。
「……え?」 エレナは声を整えようとした。「何の話をしているの?」
マーラは一歩前に出た。
見上げる形でも、その姿勢は子どもではなかった。
「嘘をつかないで。」
声は震えていたが、恐怖ではなく――押し込めた怒りだった。
「あなたは知ってる。ずっと知ってた。」
エレナは深く息を吐いた。
慎重に、まるで薄氷を踏むように言葉を選ぶ。
「あなたは孤児よ、マーレン。ずっと……。私は、あなたの両親について何も――」
「嘘。」
マーラは即答した。
「全部嘘だったのね!」
エレインは驚き、半歩後ろに下がる。
「マーラ……」とエレイン。
「口出ししないで!」
マーラは鋭い声で言い、エレナから目を逸らさなかった。
エレナの瞳が揺れる。
「マーレン、私は――」
「じゃあなんで覚えてるの?」
マーラの声が強く響く。
「なんで……あの腕の中の匂いがあなたと同じなの?
なんで……歌声があなたなの?」
エレナは胸に手を当てた。
まるで心臓を刺されたように。
言葉が出なかった。
「言ってよ!」
マーラは迫る。
「あなたが私の母親なら……私は……」
怒りは、いつの間にか恐怖に変わっていた。
「……私、人間じゃないってことよね。」
かすれた声で続ける。
「私……獣人……
奴隷……
一生。」
エレインは口元を押さえた。
想像すらしていなかった真実に、息が止まりそうだった。
エレナが近づこうとする。
「マーレン……聞いて――」
「聞かない!」
マーラは後ずさり、涙が目の縁を焼いた。
「私は一生……信じてたのよ。
信じて……努力して……
特別になろうとして……
全部……全部嘘だったの……!」
呼吸がつまる。
「絶対に許さない……」
その言葉は刃のようだった。
エレナは瞼を伏せ、胸元の手が震えていた。
顔を上げたとき、涙をこらえたように瞳が揺れていた。
「マーレン……違うの……」
けれど、マーラはもう背を向けていた。
走り去る足音だけが、廊下に残った。
庭へ駆け込んだマーラの頬を、朝の冷たい風が打つ。
噴水の前で立ち止まり、呼吸が荒く乱れた。
髪を両手で掴み、感情を押し出すように震える声でつぶやく。
「嫌……絶対に嫌……
獣人なんて……
奴隷なんて……
私は……ならない……!」
拳を強く握る。
「私は……奴隷じゃない。」
誇りが叫んでいた。
恐怖も、傷も、涙も――それを折ることはできなかった。
マーラはただ一つの道を見ていた。
自分を縛ろうとする運命さえ、切り裂く道を。
足音が近づいた。
「……マーラ?」
エレインのかすかな声。
マーラは慌てて顔を拭った。
弱さを見せたくなかった。
「帰って。エルフの子。」
噛みつくように言い放ち、噴水の水面に目を落とす。
エレインは少し距離を取った場所に立ち、風に髪を揺らしながら、優しい表情でマーラを見つめていた。
「さっきのこと……全部じゃないけど聞こえてた。」
エレインは静かに言う。
「辛そうだったから……その……心配で。」
マーラはスカートを握りしめ、睨むように顔をそむける。
「心配なんていらない。」
エレインはほんの少しだけうつむいたが、動かなかった。
マーラは苦笑を漏らす。
「あなたなんかの優しさで、私の人生が変わると思ってる?」
エレインは否定せず、ただ近づいた。
まるで怯えた動物に触れないように、慎重に。
ふたりの間に噴水の水音だけが響く。
「彼女は……嘘をついたの。」
マーラは震える声で続けた。
「私、一生自由になれると思ってたのに。
あと八年だったのに……
全部……崩れたの……」
エレインはそっと座り、マーラに寄り添う距離にいながら、決して触れなかった。
「ねぇ、マーラ。」
その声は驚くほど柔らかい。
「でも……あなた、人間にしか見えないよ。
獣人の特徴なんてひとつもない。
もしかしたら……その記憶、落ちた衝撃で混ざったのかも。」
マーラは強く首を横に振った。
「違う!
あの声も……匂いも……あの温かさも……
全部……エレナと同じだった。」
沈黙。
風の音と、噴水が跳ねる水の音だけが残る。
しばらくして、エレインが静かに話した。
「マーラ……それで、これからどうするの?」
マーラはゆっくり顔を上げた。
瞳の奥には、怒りとも涙とも違う――
決意の光 があった。
「……私、自分で決める。」
マーラは言った。
「なにを……?」とエレイン。
マーラは立ち上がる。
拳をゆっくり握りしめ、東の方角を睨む。
そこには、衛兵たちが毎朝剣の稽古をする訓練場があった。
「他人に自由を決められるくらいなら……」
彼女は低く呟く。
「……私が自分の自由を勝ち取る。」
運命に首輪をつけられるくらいなら――
「……鎖ごと切り裂いてやる。」
エレインは息を呑んだ。
「え……マーラ、本気なの?」
「本気よ。」
マーラの声は揺れず、鋭く前だけを見ていた。
「剣を学ぶ。
力を手に入れる。
私は……自分で道を切り開く。」




