探し物
あの夜、あの夢のあと——
翌朝はまるで何事もなかったかのように始まった。
夢はあまりにも儚くて、ただの夢だったんじゃないかと疑うほどだった。
私にはもう目的がある。
セラフィナを探し、魔法を学び、カエルを見つける。
でも同時に、自分についての疑問も増えるばかりだ。
リズ?エヴリン?それとも両方?
そんなことを考える暇もなく、マダム・カリネが現れ、私の“日課”を渡してきた。
「若君ライサンダーを探しなさい。また姿を消しました。」
もちろんだ。
ここでの私の運命は——お坊ちゃんの捜索係。
少なくとも、そのおかげで謎の本のことを考えすぎずに済む。
「今度はどこに隠れたのよ…」
廊下を歩きながらつぶやいた。
庭、裏階段、音楽室……
どこにもいない。
すると、ありえない——でもありえる——考えが頭に浮かんだ。
「まさか……姉の部屋に?」
使用人たちはいつも言っていた。
“あそこには誰も入ってはいけない”と。
まるで禁じられた洞窟……
いや、モンスターでも眠っているかのように。
そういえば——
ライサンダーが姉の話をしているのを、一度も聞いたことがない。
一度も。
それって、どう考えてもおかしい。
気づいたら、私はその扉の前に立っていた。
扉が……呼んでいる気がした。
もしかしたら——
本はこの中に?
ノブに触れただけで背筋がぞくりとした。
「馬鹿なことしてるなぁ……」
自分に言い聞かせる。
「本当に馬鹿だよ、私。」
それでも手は勝手にノブを握っていた。
その瞬間。
首筋に刃を当てられたような声が後ろから聞こえた。
「エヴリン、何をしているの?」
私は跳ね上がり、危うく額を扉にぶつけるところだった。
「ひっ!? カ、カリネ様……あの、ライサ——」
「ライサンダー様です。」
“墓に埋めてやるわよ”という目つきで彼女は言った。
「彼はこの部屋にはいません。誰も入ってはならないと、はっきり言いましたよね?」
普段から怖い彼女だが、今は明確に怒っていた。
返事をするより早く、彼女は私の耳をつまんだ。
「いっ……! ちょ、耳! 耳は必要なんですけど!?」
この年でまだ耳を引っ張られるなんて信じられない。
「なら、余計なことをしなければいいだけです。」
さらに強く引っ張る。
「さっさとライサンダー様を探しなさい。今すぐ。」
「行きます! 行きますからぁ!」
私は耳を押さえながら逃げるように走った。
廊下で深く息をつく。
“……死ぬかと思った。しかもまだ坊っちゃん見つかってないし。”
そこで、ふと立ち止まる。
子どもが隠れそうな場所……
そう考えて、私はバーン・フェレンティスの書斎の扉を押し開けた。
その瞬間、マリアの言葉が蘇る。
「この世に一冊だけ、あなたにしか読めない本がある。」
書斎は広大だった。
居間ほどの広さで、本棚が壁一面に整然と並び、
一冊たりとも埃が積もっていない。
館全体が毎日掃除されているが、
この部屋だけは“特別に大切にされている”と分かった。
棚の間を歩きながら、背表紙を指でなぞる。
どれも“普通”の本だ。
光らないし、喋りもしない。
なのに——なぜ天使はここにあると言ったのか?
気づいたら私は、男爵の椅子に座っていた。
身体にぴったり馴染む、不自然なほど座り心地のいい椅子。
“読書するには完璧な椅子だな…”
近くの本を取り、ページを開く。
どうやら法律書——いや、憲章のようだ。
内容は冷たかった。
無慈悲で、残酷で。
アルテンブルク——人間大陸の王都。
王は絶対的権力者。
《種族の法的分類》
最初のページで心臓が掴まれた。
1. 人間
— 永久奴隷は禁止
— 従僕契約のみ認められる
— 契約期間:5〜30年
— 契約終了後:
・自由
・解放証明書
・居住許可
“だからマルラは『半分自由』で、私は違う。
彼女には契約がある。”
次の項目。
2. 亜獣族(獣人)
— 生涯奴隷
— 生まれながらに“所有物”
— 子も奴隷となる
握っていた手に力が入る。
“私には最初から選択肢なんてなかったんだ…”
続けて読む。
3. エルフ
— 生涯奴隷
— 「危険な魔法種族」と規定
— 捕らえた者には褒賞
— 自由のエルフは犯罪者
呼吸が一瞬止まった。
“この世界では……自由は種族で決まるんだ…”
ページをめくる。
《奴隷になる条件》
— 獣人とエルフ:生まれながらに
— 売買・相続・贈与が可能
— 戦争や狩猟で捕獲される
— 子どもの闇取引が盛ん
さらに。
《従僕契約(人間)》
— 軽犯罪
— 家族に売られる
— 借金
— 自主契約
“クソみたいな世界だな……”
最後に。
《魔法に関する法律》
— 奴隷の魔法習得は禁止
— 罰:処刑
— 魔法学校は人間の自由民のみ
ページから手が離れた。
“魔法を学ぶと……死刑。
でも、カエルを探すには魔法が必要。”
本を閉じた。
静寂。
巨大な書斎。
圧迫感。
私は——
“存在するだけで罪”と書かれた世界の中に立っていた。
そのとき。
扉が軋む音。
私は固まった。
そこに立っていたのは——
男爵フェレンティス。
背が高く、姿勢が完璧で、
そして私を真っ直ぐ見ていた。
魂が抜けるとはこのことだ。
椅子に座り、彼の本を持ち、勝手に読んでいる私。
——死んだ。
「何をしている?」
低く落ち着いた声。
私は跳ね起き、椅子を飛び出す。
「す、すみませんっ! あの、私……片付けを……!」
本を抱えてバタバタして、棚にぶつかりかける。
フェレンティスは——
笑った。
笑った。
「落ち着きなさい。そんなに怯えなくていい。」
私は凍ったまま動けない。
彼は机に本を置きながら言った。
「使用人は皆、字が読めないと思っていたのだがね。」
「す、少しだけ……」
罪悪感で声が震える。
「何を読んでいた?」
「こ、この大陸の……法律を……」
「ほう。」
男爵は納得したように頷いた。
「厳しい法律だ。とくに君たちの種族にはな。」
声は穏やかだが、現実は重い。
「世界は平等ではない。残念だがね。」
彼の手にある本が目に入る。
黒い表紙。
奇妙な紋章。
タイトルなし。
——これだ。
「この本が気になるのか?」
男爵は本を軽く掲げた。
「これは……他とは違う。
我々の言語ではない。
古すぎて、誰にも読めない。」
心臓が跳ねた。
“絶対にこれだ——天使の言った本。”
「君はいくつだ?」
突然の質問。
「じゅ、10歳です。」
「若いな。」
微笑む。
温かいが、どこか寂しい微笑み。
「本が好きなのか?」
「……好きです。でも、一冊も持ってなくて。」
彼は自分のコレクションを見つめた。
まるで宝物を見るように。
「読書が私の唯一の趣味でね。
息子たちは興味を示さないが……」
その言葉で、私は小さな火花を感じた。
——これはチャンス。
「……あの、ひとつ、借りてもいいですか?」
男爵は驚いたように眉を上げた。
「いいだろう。好きなのを選びなさい。」
“それが欲しい。”
「これがいいです。」
私は彼の手の本を指した。
「読み終わったら、必ず返します。」
男爵は小さく笑った。
「読めないぞ。誰も読めない。言語が違う。」
「……でも、試したいです。」
彼は数秒間——長い沈黙のあと。
その本を、
私の手に乗せた。
「持っていきなさい。」
柔らかい声。
「返さなくていい。
君は若い。解読する時間がたくさんある。
私にはもう……そう多くはない。」
「……本当に、いいんですか?」
「もちろんだ。」
穏やかな笑み。
「いつか読めるようになったら——
そのときは中身を教えてくれ。
それで十分だ。」
私は本を胸に抱えた。
「ありがとうございます……男爵様。」
「行きなさい。
カリネに見つかったら、私が怒られてしまう。」
私はゆっくりと歩き出した。
胸に抱えたその本は——宝物のように重く、あたたかかった。




