読書と友情
視点:エヴリン
オリセルとの思いがけない再会のあと、時間の流れがゆっくりになった気がした。
その後の日々は、命令と雑務と、奴隷たちの囁き声で過ぎていった。
けれども、ひとつだけ確かな変化があった。
──私の名前が、「読み書きを学ぶ子供たち」の中で呼ばれたのだ。
十人の子供が選ばれた。その中に、私とエレインの名前もあった。
授業は夜明けと同時に始まる。屋敷の東棟、その中でも比較的寒さの和らぐ一室。
石造りの壁は淡い灰色で、湿り気を帯びている。高い窓から差し込む光は、古びたステンドグラスを通して床に模様を描いていた。
床は古い木材でできており、歩くたびにぎいと音を立てた。
部屋の空気は、インクと羊皮紙、そして燃えかけの蝋燭の匂いに満ちている。
教室の中央には長い樫の机があり、その上にはインク壺と羽ペン、そして黄ばんだ紙束が並べられていた。
いつものように完璧な身なりをした家庭教師エレナが前に立ち、分厚い革表紙の本を手にしていた。
彼女の姿勢は常にまっすぐで、声には一切の揺らぎがない。
年齢は二十代半ばに見えたが、その瞳には年齢以上の疲労と諦めが滲んでいた。
「今日は〈アルセリア語〉の二十二の基本ルーンを復習します」
エレナは白いチョークで板に文字を描きながら言った。
アルセリア語はこの大陸で最も広く使われる言語であり、ほとんどの都市で通じる“共通語”だ。
遠くの国にはそれぞれ別の言葉もあるらしいが、商人や貴族たちの世界では、この言葉がすべてを支配していた。
――前の世界でいう“英語”のようなものだ。
「それぞれのルーンには音がある。その音こそが名前の始まり……そして“名前”には力が宿る」
私はその言葉を心に刻んだ。
――名前には力がある。
その言い方には、ただの言語学以上の何かが込められているように思えた。
羽ペンを慎重に持ち上げ、羊皮紙の上に曲線を描いていく。
アルセリア語は美しいが、同時に恐ろしい。
線の一本を誤れば、意味がまるで変わってしまう。
周囲の少女たちを見ると、緊張で手が震える子もいれば、上の空でペンを走らせる子もいた。
隣を見ると、エレインは顔を真っ赤にして頭を抱えていた。
……まるで頭から煙が出そうなほど必死だ。
「エヴリン」
エレナが私を呼んだ。
「自分の書いたものを読みなさい」
私は息を整え、羊皮紙を見つめながら読み上げた。
> 「月は海の底を映す――」
ぱん、と乾いた音が響いた。
エレナがチョークを机に叩きつけたのだ。
「違うわ。発音がまるでなっていない!」
彼女はため息をつき、黄金色の瞳を私とエレインに向けた。
「あなたたち二人、もっと努力しなさい。今のままでは、主人の書き付けひとつ読めませんよ!」
教室の後ろからくすくすと笑い声がした。
マーラ――いつも人の失敗で笑う子。
「先生、私が読んでもいいですか?」
甘い声で尋ねるその笑顔は、いかにも作り物めいていた。
「どうぞ」
エレナはためらわず頷いた。
マーラは完璧な発音で一文を読み上げた。
その声音には自慢と嘲りが入り混じっている。
「すばらしいわ、マーラ。見事な抑揚です」
得意げに微笑む彼女を見て、胸の奥がざらりとした。
ほんの一言の称賛が、一日を台無しにするほど悔しかった。
十人の生徒の中で、私とエレインは最底辺。
前の世界では三ヶ国語を話せたのに、この言語だけはどうしても馴染まない。
まるで言葉そのものに意志があるみたいに、私を拒んでいた。
授業が終わり、生徒たちは慌ただしく道具を片付けて列を作り、部屋を出ていった。
私がまだ羽ペンをしまっていると、エレナが静かに近づいてきた。
彼女の香り――薬草と香の混ざった匂いが、そっと鼻をくすぐった。
低い声で、彼女は言った。
「あなた、全く進歩がありませんね。次の試験までに上達しなければ、別の子を選びます」
二歩下がると、その瞳はもう氷のように冷たかった。
「与えられた“特権”を無駄にしないことね。失えば、二度と戻らないわ」
そう言い残して、彼女は部屋を出て行った。
私はただ、机の上の滲んだ文字を見つめるしかなかった。
***
授業が始まってから、数週間が過ぎた。
私は必死に練習したが、あの言語はまるで呪文のようで、頭に入らなかった。
前の世界では勉強が得意だったのに、この世界ではすべてが違う。
エレインはもっと悲惨だった。
ルーンを一文字も覚えられず、何度もチョークで叩かれていた。
けれど、家事に関しては天才だった。
料理、裁縫、掃除……彼女の手にかかれば、どんなものも整ってしまう。
対して私は――水を沸かすだけで焦がす。
ある日、パンを焼こうとして厨房を煙まみれにしたとき、エレナは静かに言った。
「エヴリン……台所から出なさい」
その一言のほうが、怒鳴られるよりずっと堪えた。
でも、すべてがダメなわけじゃない。
数字や論理の授業では、私はクラスの誰よりも速く答えられた。
この世界の人々は計算が苦手らしく、単純な式でも混乱していた。
数字を扱うと、前の世界での自分を少し思い出せた。
“考えること”が、まだ私の中に生きている気がした。
エレインも少しずつ成長していた。
彼女の穏やかさと優しさは、私に安らぎをくれた。
気づけば、私たちは親友のように寄り添っていた。
ある夜、仕事を終えたあと、私たちは寝台の端に並んで座っていた。
ほとんど消えかけた松明が、壁にゆらめく影を作る。
エレインは私の髪を指で梳きながら、ぽつりと言った。
「ねえ、エヴリン……最初、あなたのこと嫌いだったの」
「ふふ、私も。あなたのこと、怠け者だと思ってた」
二人してくすりと笑った。
「じゃあ今は?」
「今は……この場所に似合わないくらい、優しすぎる人だと思う」
エレインは手を止め、静かに私を見た。
その瞳の奥には、失ったものを思い出すような影があった。
「あなた……弟さんのこと、まだ考えてるの?」
その問いは胸を突き刺した。
視線を落とし、小さく頷く。
「……うん。今でも、ずっと」
エレインはそっと私の手を握った。
「わかるわ。私にも、弟がいるの」
驚いて顔を上げる。
「弟? もしかして……オリセル?」
「ええ。実は私のほうが年上なの。十一歳」
「うそっ!?」思わず大声を出し、近くの子たちが寝返りを打つ。
「ずっと年下かと思ってた!」
「みんなそう思うの。彼はいつも勇敢で、私を守ってくれてたの」
エレインは小さく笑った。
「今は屋敷の向こう側にいるけどね」
「オリセルは生きてるよ」私は強く言った。
「実際に見たの。彼、今は執事の訓練を受けてる」
「本当に……? どこで?」
「屋敷の内勤棟で。思ったより元気そうだった」
エレインの瞳に涙が浮かんだ。
彼女は息を震わせながら私を抱きしめた。
「ありがとう……エヴリン、本当にありがとう」
胸の奥が熱くなる。
その抱擁の中で、私は気づいた。
――私たちは、本当の意味で孤独じゃない。
彼女には弟がいて、私には……まだ探すべき弟がいる。




