監獄(かんごく)
船は静かに揺れていた。まるで海そのものが囚われた者たちを優しくあやして、痛みを忘れさせようとしているかのように。
けれど、私だけは忘れられなかった。
捕らえられてから、まだ一日も経っていない。それでも、足元で軋む木の音が、「もう家には戻れない」と冷たく告げていた。
……もし、家というものがまだ存在するのなら。
隣にはカエルがいた。顔色は悪く、いつもの笑顔も見えない。
小さな指が震えながら鉄格子を握りしめ、まるで奇跡を信じているようだった。
私の牢は、狭くて湿った廊下の一角にあった。そこには、いろんな種族の子供たちが閉じ込められていた。
皆、怯えた目で身を寄せ合い、静寂だけが廊下を支配していた。
もしこんな状況じゃなければ、この世界の種族について興味を持っていたかもしれない。
けれど今は、ただ生き延びることだけを考えるしかなかった。
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「エヴリン……どうやってここから出るか、考えてるの?」
カエルの声には、かすかな希望が残っていた。
「考えてるわ、カエル。必ず一緒に出よう」
震える声を押さえつけるように答えた。でも胸の奥では、不安が渦巻いていた。
「お父さんが助けに来るよ。約束してくれたもん」
カエルの瞳が、無垢な信仰の光で輝いた。私はその光を、少しだけ羨ましいと思った。
本当のことを言う勇気はなかった。
村はもう――いや、考えたくなかった。
たとえ逃げ出せても、どこへ行けばいい? 生き残っている人なんて、いるのだろうか。
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どれほどの時が過ぎたのか分からない。牢には窓がなく、昼も夜も区別がつかない。
塩と潮の匂いが鼻を刺し、子供たちはだんだんと力を失っていった。
食事も減っていく。三つのパンが一欠片になり、水も少しだけ。
カエルの頬はこけ、骨ばった手が痛々しかった。
「エヴリン……お腹、すいた……」
「私もよ、カエル。」
その時、廊下を警備兵が通った。私は思わず声をかけた。
「お願いです、弟が弱ってて……!」
「うるせぇ。商品は黙ってろ。」
冷たい声。目すら合わせようとしなかった。
――この人たちには、心なんてもうないのかもしれない。
時間が経つにつれて、カエルの眠る時間が増えた。額に触れると熱い。
「カエル……聞こえる?」
返事はなかった。
私は深く息を吸い込み、手をかざした。
かつて覚えていた癒しの呪文――でも今は言葉が思い出せない。
それでも、ただ“治れ”と強く願った。光が指先に集まり、カエルの熱が少しずつ引いていった。
……けれど、空腹だけは癒せなかった。
隣の牢から、エルフの少年がじっと私を見ていた。緑の瞳が、月のように冷たく光っていた。
「……君、魔法が使えるの?」
「回復魔法だけ。」
彼は少し驚いたように目を見開いた。
エルフは普段、他種族と話すことを嫌う。けれどその時、私たちは同じ絶望を共有していた。
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観察を重ねるうちに、私は気づいた。
酔っ払って寝ている警備兵――腰の後ろに鍵束。
……これしかない。
「ねぇ、そこのエルフ。逃げたい?」
「危険すぎるよ……!」
「このまま餓死したい?」
隣の牢で、彼の妹が小さく泣いた。少年は唇を噛み、やがて言った。
「……僕の名前はオリセル。妹はエライラ。」
「私はエヴリン。――協力して。」
作戦は単純だった。私が兵を引きつけ、その隙に彼が鍵を取る。
息を合わせるしかなかった。
椅子の軋む音。今だ。
「すみません! 弟が動かないんです、お願い!」
兵はふらつきながら立ち上がった。
「またか……!」
私は涙をこらえ、懇願した。
「彼が死んだら、あなたの上司に罰せられます! 私たちは高価な“商品”でしょう?」
兵の動きが止まる。――今だ!
彼が牢を開けた瞬間、私は全力で体当たりした。
鈍い音。兵が倒れた。
私は鍵束を奪い、彼を牢の中に押し込んだ。
心臓が破裂しそうなほど脈打つ。
カエルの手を引きながら、廊下を走る。
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「僕たちも出してくれ!」
他の牢から声が上がる。
けれど――全部開けたら、すぐに騒ぎになる。
まずはカエルを守らなきゃ。
「生き延びたら、必ず助けに戻る。」
そう言い残し、私は階段を駆け上がった。
甲板に出た瞬間、強い光が目を刺した。潮の香り、風の冷たさ――
けれど、見渡す限り海。どこまでも、逃げ場なんてなかった。
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カエルを樽の中に隠し、私は食料を探した。
警備兵たちは酒とカードに夢中だった。
果物の籠が見える。手を伸ばした瞬間――りんごが転がり落ちた。
「おい! 誰だ!」
心臓が凍りついた。
叫び声、足音。私は走った。
甲板を駆け抜け、ドアの影に隠れる。
彼らが通り過ぎた隙に、息を整えて戻る。
けれど、樽は空だった。
――カエル!?
胸の奥が冷たくなった。
怒鳴り声が響く。「ガキが逃げたぞ!」
甲板の中央で、カエルが見知らぬ男に掴まれていた。
長い髪、金のピアス。あれが船長だと直感した。
「離してッ!」
私の叫びに、男が笑った。
「やっと出てきたか。お前たちは罰を受ける。」
「あなたたちは人買いよ! 罪人!」
「罪人? この世界で一番の商売を罪と言うのか?」
カエルが必死にもがく。
「離せ! この悪党!」
もう逃げ場はなかった。
「逃げて、エヴリン!」
「置いて行けるわけないでしょ!」
次の瞬間、カエルが男の手に噛みついた。
男が怒号を上げ、腕を振り払う。
小さな体が、宙に――。
「カエル――ッ!!!」
叫びが空を裂いた。
私は走った。けれど、重い手が肩を掴んだ。
もがいても、届かない。海は深く、冷たい闇のようだった。
「お願い、助けて! あの子はまだ小さいの!」
「海は危険だ。ガキ一人のために命は懸けん。」
その声は氷のように冷たかった。
「牢に戻せ。見せしめだ。」
引きずられながら、私は見た。
船長がゆっくりと剣を抜き、さっきの兵の首を――。
血の匂い。音が遅れて耳に届いた。
――これは現実だ。
震えが止まらない。涙も出ない。
ただ、波の音だけが響いていた。
カエルはもういない。
海に、呑まれた。
そして私は知っていた。
あの子は――生きていない。
それは全部、私のせいだった。




