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月虹花  作者: 霜月ニ條
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 結局、戸山家の玄関先で発見された後、貝谷は四日間入院生活を送った。その間、自分が一週間行方不明だった事を聞かされた。そして、持ち帰った月虹花を見た翌日、幹尚の祖父が心不全でこの世を去った事も。人間、満足したら死んでしまうものらしい、と口の悪さの割に寂しそうな表情をして幹尚が言ったのは、未だに忘れられない思い出の一つだ。

 今、窓の外では雪が吹雪いている。夕方から降り出した雪は、瞬く間に庭を白く染め上げた。夕刊で確かめた月齢は、十五.〇。今夜咲かなければ、月虹花が開く事はない。十年という月日が無駄だったのかどうか、その答えが今夜示されるはずだ。

「えらく落ち着かないわねぇ」

夕食後、夫婦揃ってテレビを見ていると、ふいに妻が呆れた声を出した。

「そうか?」

「灰皿、見てごらんなさいよ」

言われて見ると、うずたかく積み上げられた吸い殻は、全て半分も灰にならずに捨てられている。妻が呆れるはずだ。

「久しぶりの吹雪のせいだよ」

「子供みたい」

心底呆れた妻の声をやり過ごし、貝谷は窓辺に立って、舞落ちてくる雪を見つめた。視線を落とせば、すっかり白く染まった庭先に、たった一カ所だけ青々とした場所がある。季節を忘れた永遠の緑。その先に咲くはずのあの幻をもう一度見たい。それだけが、貝谷の思考を支配していた。

 やがて、雪が止んだ。天空からは、信じられない程まばゆい月光が降り注いでいる。貝谷は、スリッパのまま庭に駆け降りた。息を殺し、ただじっと月虹花を見つめる。

 しかし、花は開かなかった。

(下界では、咲かないのか……)

絶望感が貝谷を襲う。言い様のない虚脱感に膝をついた。

「ちょっと、あなた。何してるのよ」

妻が驚いて駆け寄って来た。

「花が……」

「花?」

「花が咲かなかった……」

「へ?」

ぼんやりと、小さな子供が母親に宝物を失くしたと告げるように、貝谷は呟いていた。

「花って……それ、咲いた事ないじゃない」

「今夜咲くはずだったんだ……」

「そう……」

「ちゃんと肥料もやった、土もあそこの土と同じ成分のものを用意した。条件は揃ったはずなのに……」

「土?」

「ああ」

貝谷の言葉に妻がふいに表情を曇らせた。

「どうした?」

「あの……ここへ引っ越してくる時、少しこぼしちゃったから、普通の配合肥料を足したんだけど……」

「何だとっ!」

貝谷は、勢い良く立ち上がると咄嗟に妻の胸倉をつかんだ。

「お前は、どうしてそんな勝手な事をしたんだ!」

「そんな……他の花と同じように手を加えただけじゃない。肥料って言っても、あなたがいつも使っているのと同じものを使ったのよ」

「それでもバランスが崩れるだろう!この花は普通の花じゃないんだぞ!」

投げ捨てるように、妻の体を庭に叩きつける。妻は、胸元を押さえるようにして激しくむせ返った。

 全身の血液が逆流するような感覚が貝谷を襲う。視界が赤く染まり、心の奥底からどす黒い憎悪の念が込み上げてくるのが分かる。目の前の女が自分の妻であるという事実が忌まわしい。貝谷は、力まかせに妻の頬を殴りつけた。

「きゃっ」

「お前のせいだっ」

完全に逆上した貝谷は、狂ったように妻の頬を殴り続けた。

「いやっ!やめて、あなたっ。やめて!」

「うるさいっ!お前のせいだっお前のっ!」

「もうやめてっ!たかが咲かない花の事でどうしてこんな目に遭わなくちゃいけないのっ」

「黙れっ!」

一際大きく妻の頭が揺れる。座り込んでいた体が庭先に倒れ伏した。

「結婚してからずっと、一度も咲かない花じゃない!こんな花、抜いてしまえばいいのよっ」

ヒステリックな女の叫び声が、貝谷の脳髄に響く。見れば、倒れた妻が体を起こして右手を月虹花にかけていた。

「やめろっ」

(止めなければ……何としてもこの女を止めなければ……)

貝谷の中で、妻はただの女になった。それも、愛する月虹花を汚そうとする、最も忌むべき侵略者にだ。

 スローモーションの画像を見るように、貝谷の目が獲物を探す。折しも差し込む月光に、視界の片隅で光りを放つものが見えた。移植ゴテだ。貝谷は、深く植え込まれた月虹花を引き抜こうと必死になっている妻の頭を移植ゴテで力一杯殴りつけていた。

「あ、あなた……」

恐ろしい者を見るように、妻の顔が醜く歪んだ。その表情が、貝谷の狂気に拍車をかけた。貝谷は、さらに二度、三度と妻の顔めがけて移植ゴテを力一杯振り下ろした。いまや妻は、額や頬から血を流し、打撲傷で顔を青黒く腫れ上がらせていた。

「お願い、もう止めて……」

力なく呟く妻に、もう一振り、移植ゴテを振り下ろす。ビチャッというこめかみがはぜる音がして、その血が月虹花の青々とした葉にかかった。と、その瞬間、月虹花がかすかに身じろぎしたように貝谷には見えた。それは、砂漠を行く旅人が、待ち望んでいた雨の一滴を得たような、そんな歓喜に満ちた仕草のように思えた。

「そうか……お前は、これが欲しかったのか」

そう呟くと、貝谷は移植ゴテを放り投げた。ぼんやりと、もはや抵抗する気力さえ失くした妻の視線を浴びながら、貝谷は庭の片隅からゆっくりと鎌を取り出した。

「あなた……何を考えているの……」

「お前が欲しいというのなら、その通りにしてやろう……その代わり、もう一度、あの花を見せてくれるね?」

現実を見ない貝谷の心は、妻であったものの首に刃を押し当てる。

「あなた……」

絶望に満ちた声がした。

 一瞬の後、白く積もった雪一面に、真紅の花が散った。それは、月虹花にも、月虹花の根元にも広がって行く。真紅の液体を吸い上げて、山奥に咲いた神の花は、再びその淫靡な姿を貝谷の前に晒した。

「ああ……」

恍惚感に溢れた声が、貝谷の唇から漏れる。あくまでも艶やかに、濡れたようなぬめりを帯びた白い花びらに、まさに吸い上げたばかりの血そのもののような赤いしべ。その先端から赤い雫を滴らせそうな姿に、貝谷はそっと口づけていた。

「やっと、咲いたのね」

ふいに貝谷の耳に甘やかな声が響いた。それは、少女であって少女でない。女であって女ではない。清純と妖艶という矛盾を当然のごとく一つにできる存在だけが持つ声だ。

「沙姫……」

貝谷は、その声の主の名を呼んだ。目を上げれば、あの時と同じ美しい姿のままの沙姫がいた。その後ろには、月光で掛かった虹が夜空にくっきりと浮かび上がって見える。それは、沙姫を彩る後光のようにも見えた。

「約束通り、もう一輪、月虹花を持って来たわ。この咲いた月虹花と一緒に可愛がってあげて」

沙姫の手の中に、一際見事な月虹花が抱かれていた。それは、久しぶりに見る本来の姿だ。ぬめるように、それでいて乾いた不思議な光りを放つしゃれこうべと、その頭頂から生えた緑の茎。眼窩からは根がかすかに見えている。

「咲いていないね……」

「だって、ここは里ですもの」

「ああ……」

「人の魂を注がなければ、この花は咲かないわ。そう……その花が、あなたの奥様の血と魂を吸って咲いたように」

貝谷は、沙姫の言葉にぼんやりと咲き誇る月虹花を見やった。月虹花は、恥じらうように、誘うように、切るように冷えた夜風に葉を揺らし、白い花びらを捩らせる。青々とした葉には点々と赤い斑点が散り、根元は真紅に染まっている。ゆっくりと、茶色に見える程まで深く染まった紅の道を辿れば、その先には妻が横たわっていた。

「あ……」

かろうじてそう聞こえる声を出し、貝谷は自分の両手に目を転じた。ファサッと軽い音を立て、貝谷の血塗れた手から鎌が雪の上に落ちる。

「ひぃ……」

再び貝谷の喉が音を立てた。

「俺は……俺は……」

「月虹花を咲かせたのよ。“マヨイガ”に咲く魂の花を、人里でね」

「沙姫、俺は……」

「どうしたの?あなたの望みが叶ったのよ。あの日、あなたが本当に望んだ一際見事な月虹花が、この花の開花で手に入ったのよ」

沙姫は婉然と微笑んで、そっと貝谷の手を取りもう一株の月虹花を渡した。

「さあ、この花も咲かせて見せて。これは、私の一番大切な花。そして、一番美しく咲く花。これも、咲かせてみせて」

「あ……」

貝谷は震える手でしゃれこうべを支え、沙姫を見た。あくまでも無邪気に、そして艶やかに沙姫は微笑む。

「貝谷さん。これは、あなたが望んだ事なの」

「俺は、こんな事、望んじゃいない」

「いいえ。あの日、私と約束したでしょう?私が最も愛でる花を譲る条件として、まず一株咲かせる、と。あなたはそれを受け入れた。二株の月虹花と一緒に、この世ならぬ美しい世界を見て過ごしなさい。月虹花は、神の花。あなたは、神の世界を垣間見た男」

ふっと音もなく、沙姫の素足が雪を蹴った。沙姫は軽々と宙を舞い、貝谷の目の前で、月光に浮かぶ虹の向こうへと消えて行った。

「幻か……?」

ぽつりと呟く貝谷の手には、それが幻ではない証しのように、もう一株の月虹花が揺れている。そして、消しようもない罪の証しが、白い雪原を赤く染め上げている。

 さわさわと艶やかな花が風に揺れ、それに呼応するかのように、貝谷の手の中で花を付けない月虹花が揺れた。

「俺は……」

貝谷はがっくりと膝を落とした。はずみで手の中の月虹花が雪に転がり落ちる。咄嗟にそれを目で追えば、虚ろな眼窩がからかうように貝谷を見つめていた。

「俺、は……」

貝谷は、小さな子供がいやいやをするように激しく頭を振った。赤く血走った目の向こうに、しゃれこうべがあざ笑うように黒い空洞を見せている。貝谷は、両手で頭を掻き毟り、意味のない唸り声を上げた。しゃれこうべの瞳の底に、血で朱に染まった妻の顔が映る。

「うわあっ!」

発狂したように、貝谷は大声を上げると発作的に鎌を自らの首筋に押し当て、一気に下へ引いた。噴水のような勢いで、貝谷の体内から血液が吹き出して行く。そしてその血は、一目で貝谷を魅了した、あの一際美しかった月虹花を濡らした。

 ぽぅっと頭蓋骨が赤い光りを放ち、緑の葉先がゆっくりと開いて行く。姿を現した茎の先端に、小さな白い蕾みが生まれた。そしてその蕾みは、焦らすようにゆったりとした速度で、その禁断の白いベールを開いて行く。薄れて行く意識の中で、貝谷は、自らの血で赤く染まった、この世で最も美しい花の艶冶な姿をじっと見つめた。

(ああ……やはりこれは、魂の花なのだ。人の魂がなければ、咲かない神の花なのだ……)

最後の力を振り絞って、貝谷の手が月虹花の方へ伸びて行く。貝谷は、息絶えるその瞬間、遠い山の彼方で響く、蕭条とした笛の音を聞いた。それは、人の泣き声のようでも、高く響く清らかな女の笑い声のようでもあった。

(沙姫……)

それが、貝谷の最後の言葉になった。






 雪が、再び降り始めていた。無垢な雪に洗われて、月虹花がその蕾を閉じる。今だ皓々とした光を放つ月が、彼方へ向かって虹を掛けた。二株の月虹花が、その虹に吸い寄せられ、夜空を渡って行く。流星のように夜空を翔けたしゃれこうべは、彼らが住まうべき場所へと帰るのだろう。それは、誰も知らない、山だけが知る場所。神が住まうこの世ならぬ地。そこを人は、“マヨイガ”と呼ぶ。




お付き合い頂きありがとうございました。

ひとまず沙姫の話はここまでです。

明日以降の更新については活動報告に書かせて頂きましたので、興味を持って頂ける方は一度そちらをご覧くださいm(__)m

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