五
どれほどの時間、意識を失っていたのか。貝谷は、凍えた頬を無意識の内にさすりながら、辺りを見回した。
遥か上方に見える空はどんよりと曇り、太陽の位置は定かではない。追い茂る木々のせいで薄暗い事もあってか、夕刻と錯覚しそうだ。だが、それならば、頬が凍傷を起こしていても不思議はない。痛覚はある以上、まだ凍傷の域には達していないと見て良いだろう。実影がまだ近くにいれば、大声で呼べば助けてくれるかもしれない。そう思ってから、貝谷は自分の発想の馬鹿さ加減に失笑を漏らした。実影は、貝谷を突き落とした張本人ではないか。助けてくれるわけがない。
(参ったな……)
コンパスで方角を確認しても、詳しい山の地理を知っているわけではないから、どちらが里の方角か解らない。水の流れを確認しようにも、辺り一面が雪原の状態では、水を見つける事もできない。貝谷は途方にくれた。
(とりあえず、こちらへ歩いてみるか)
貝谷は、ゆるやかな斜面を下り始めた。
転がる途中でスキーが外れたせいで、膝まで雪に埋もれながら、一歩ずつ貝谷は前へ進んだ。
(今どの辺りまで降りてきてるんだ)
時間的には、もう半分以上下山している計算になる。辺りはもはや、薄暗くなり始めていた。
(テントをはるか)
吹雪く気配はなさそうだ。貝谷は、そう見極めるとリュックからテントを外した。適当な窪みにテントを設営し、固形燃料で湯を沸かし、簡単な食事を済ませた。
翌日になっても、貝谷は山の中をさ迷い歩いた。だが、いつまで歩いても、ふもとが見えてこない。
(どうなってるんだ)
完全に道に迷ってしまったようだった。
(ちくしょう!)
沢から外れ、林道の中へ入っても、登山道らしきものには行き当たらない。言い様のない不安が、胸の奥から湧き起こる。必要以上の焦燥感に煽られて、貝谷はがむしゃらに雪山の中を動き回った。
(ふもとに出られないなら、せめてマヨイガへ行きたい。どうしても、月虹花を一目見たい……)
(月虹花はどこだ……)
冷静さを失った頭が、さらに山の奥へと貝谷を追い込んで行く。そして、三日が過ぎた。
(あれは、何だ……)
すっかりこけた頬と虚ろな瞳が、木々の隙間に白とは異なる色を見つけた。
それは、一軒の屋敷だった。だが、冬だというのに、その門前には、満開の桜があった。桜の横では、梅と桃も咲いている。木々の根元には、彼岸花が群生していた。
(嘘だろう……)
壁沿いには、最近では見る事も少なくなった可憐な日本タンポポとレンゲが咲いている。白い地面の上に、黄色と紫が点々と明るい春を歌い、その横で、ヒマワリが見えない太陽を求めて揺れる。花が自らの盛りを楽しんでいるようだ。
「誰?」
屋敷から、ふいに少女の声が聞こえた。
(人がいるのか?)
声の主を見て、貝谷は凍りついたかのように、立ちすくんだ。
少女は、この寒いのに白い着物一枚という格好をしていた。だがそれ以上に貝谷の目を奪ったのは、その少女の美しさだ。肩を覆う程に伸ばした黒髪は、あくまでも漆黒。肌は、まさに処女雪のように白い。そして、のみで彫ったようにくっきりとした二重の大きな瞳。高く通った鼻粱に、可憐な形に整った深紅の唇。それは、いかなる彫刻よりも艶めいた、それでいて無垢の象徴のようにも見える、天性の美貌だ。
(これが、人であるわけがない)
その美貌だけではない。はっきりと開かれた瞳の色は、誇り高い山猫の金。野生に生まれた者だけに許される、天が与えた燦然と輝く鮮やかな色だ。
「あなたは、誰?」
あどけない表情を浮かべ、少女が訊いた。
「登山者です。道に迷ってしまって……」
「迷って、どこへ行くつもりだったの?」
謎かけめいた言葉が、少女の口から漏れた。
「え?」
「ここは、マヨイガ。私に招かれる事なくここを訪れる者は、山が招いた者。あなたは、山に何を求めてやって来たの?」
一瞬、貝谷は答えを躊躇した。素直に月虹花だと答えたものか、迷ったのだ。
「まさか、月虹花?」
貝谷の心を読んだかのように、その名前が少女の唇から零れた。
「ああ、そうだ」
正直に答えた貝谷に、少女はにっこりと微笑した。その微笑こそ、月虹花と呼ぶに相応しい、艶やかな表情だ。貝谷は、陶然とした、酔いに似た感覚を覚えた。
「中へどうぞ。花は、あと三日経たないと咲かないわ。あれは、吹雪の直後、満月の雫を受けて咲く花だから」
「君には、いつ咲くかわかるのか?」
「ええ」
驚いた貝谷の問いを少女は簡単に肯定した。
「君は一体、誰なんだ……」
貝谷は、かすれた声で少女に訊いた。
「私は、沙姫。山の女王と呼ばれる存在」
「山の女王……」
「お入りなさい。外にいても、あれは見られないわ」
大人の女が少年をあしらうように、沙姫はくすりと笑って、着物の裾をひるがえし、背中で貝谷を誘った。
三日の間、貝谷はぼんやりと時間を過ごした。何をするでもなく、ただ囲炉裏の前で、炭のはぜる音を聞いていた。食事は、気づけば前の食膳に用意されている。これが、マヨイガの神秘かと、貝谷は何の疑問もなく受け入れた。彼を屋敷に誘った沙姫はどこにいるのか、まるで姿をみかけない。誰もいない、ただ炭のはぜる音だけが響く茅葺き屋根の下、貝谷は沙姫が言った、三日という期限を待っていた。
そして、三日目の晩。
「今夜、月虹花が咲くわ」
ふいに沙姫が現れ、貝谷の耳元でそう囁いた。
「やっと見られるのか……」
「そんなに見たかった?」
「ああ」
「そうね……あれは、魂の花だもの。人なら皆、惹かれるのかもしれないわね」
「魂の花?」
咄嗟に問い返した貝谷に、沙姫は曖昧な微笑を見せた。
「咲いた花を見られるなんて、あなたはとても幸せな人よ。私でも、それを見るためにここへ戻って来なければならないのだもの。ねえ、蒼月」
そう言って、沙姫が振り返る。そこで初めて、貝谷は沙姫の後ろに控える狼の存在に気づいた。
「うわっ」
「今頃気づいた?」
悪戯に引っ掛かった大人を笑う子供のように、沙姫が笑う。
「蒼月は、人を襲ったりしない。安心して」
「あ、ああ……」
よく見ると、その名の通り、眉間に三日月の傷跡をつけた、毛並みの良い狼だった。聡明そうな、澄んだブルーグレーの瞳が印象的だ。獣と呼ぶには、あまりにも誇り高い姿をしていると、貝谷は思った。
「吹雪が止んだわ」
それからしばらくして、沙姫が耳をそばだてて、一言呟いた。それが合図だったかのように、それまで沙姫の横で伏せていた蒼月が、のっそりと立ち上がった。
「いらっしゃい。月虹花を見せてあげるわ」
沙姫がそう言った途端、蒼月の様子が変わった。主人に意見する忠臣のように、さっと沙姫の前へ座り込んだのである。
「あら、どうしたの蒼月?」
沙姫が、不思議そうな表情で狼を見つめた。
「彼は、それが望みなのよ。たとえそれが、禁忌に触れる事であったとしても、山が彼をここへ導いた以上、その望みは叶えられるべきだわ。それが、山の掟でしょ?私であっても歪めてはならない、絶対の意志。言葉を伝える術を知らない存在が持つ意志は、尊重されなければならないわ」
一人の人間を相手にしているような口調で、沙姫は蒼月と話をした。蒼月も狼とは思えぬ真剣さを漂わせ、主人である少女と向かい合っている。貝谷は、ただ黙って少女が語る言葉を聞いていた。
「求める人よ。どうぞ、こちらへ。山が招いたあなたの望みは、この部屋の向こう側にあるわ」
そう言って、沙姫は着物の裾をひるがえし、開け放たれた廊下へ、つっと素足を踏み出した。それに促されるように、貝谷も一歩廊下へと足を踏み出す。
「これが月虹花だと?」
貝谷は、眼前に広がる光景に、そう一言呟いたきり絶句した。
廊下のその先は、縁側になっていた。そして、庭先にうずたかく積まれていたのは、磨かれたように光る白いしゃれこうべだ。いや、正確には、青々とした茎をその天頂から生やしたしゃれこうべである。同じ白でありながら、明らかに輝きの違う雪に埋もれ、虚ろな眼窩をこちらに向けた頭蓋骨の山が、貝谷を待っていた。
「いざ、御覧じろ。麗しき山の秘花の姿を」
時代がかった沙姫の声が、冴えた冷気に響く。
皓々と南天に輝く満月の光が、晴れ渡った吹雪の直後の庭を照らし出す。スポットライトを浴びたように、頭蓋骨の山が白銀に光り、蕾をつけた緑の茎が、かすかにそよぐ。
息を詰めて貝谷が見守る中、月虹花はゆっくりとその美しい花を咲かせ始めた。蝶が羽化するように、白く折り畳まれた花びらが開いて行く。純白の絹布のような、艶やかな光沢を放ち、血で染め上げたような紋様のある、まさに絵のままの花だ。
だが、月の雫と粉雪の吐息を受け止めて、うっすらと濡れたその妖艶さは、絵には見られない生々しさがある。純粋な植物が持つ、無機質に通じる美しさではない。それは、動物が持つ淫靡さと背中合わせにある、今だ犯されざる清純さに似ている。
(これが、月虹花……)
貝谷は、その美しい花に向かって、おずおずと手を差し伸べた。微かにそよぐ風で、花が揺れる。それはまるで、女が男をじらす仕草のようだ。背中で男を誘いながら、振り向いた表情には困惑の淡い微笑を浮かべている。
(欲しい……)
浮かされたように、貝谷の指が、再び月虹花を求めて伸びた。途端に、くすくすとからかうような笑い声がした。
(え?)
花が笑ったような気がした。が、そんな事があるはずがない。貝谷は、そこでようやく、この場にいるもう一人の人物、沙姫の存在を思い出した。
「そんなにそれが欲しい?」
そう言って少女が微笑む。赤く濡れた唇に、白い頬、ふわりと流れる黒髪の沙姫は、まさに月虹花そのもののように見えた。
「ああ。どうしても、欲しい……」
君が、と続けかけて、貝谷は慌てて言葉を濁す。
「あげるわ」
事もなげに、沙姫はそう言った。蒼月が、不満そうに鼻を鳴らす。沙姫は、それにそっと微笑みかけ、
「ここはマヨイガよ、蒼月。ここを訪れた者は、この屋敷の中にある品物を何でも一つ、手にして帰る権利を有するわ。まして、彼は山が招いた男。その望みが月虹花なら、渡さないわけにはいかないでしょう?」
と言い聞かせて、再び貝谷に視線を向けた。
「欲しいんでしょ?」
「ああ、欲しい」
「一株だけ、あなたにあげる」
「本当に?」
「ええ」
貝谷は、信じられない思いで沙姫を見つめた。少女の口元には、何の屈託もない微笑が浮かんでいる。その微笑に誘われるように、貝谷は惧る惧る頭蓋骨の山の頂きに座す、一際大きく美しい花を指さした。
「あれが、欲しい」
「あれを?」
さっと沙姫の微笑が陰った。そこには、困惑と不安が入り交じっているように見える。
「どうしたの?」
「あれは……そう、あれは、私にとって一番大切な花なの。九〇〇年、寂しい思いをしてやっと手に入れた花だから。……月虹花が、下界の土に馴染むかどうか、私にもわからない。みすみすあれを枯らしてしまえば、私は再びあの花を手に入れるために、どれだけの年月を費やせばよいのかわからなくなる。お願い、一つだけ条件を飲んで欲しいの。そうすれば、あの花をあなたにあげる」
「条件?」
貝谷の問いに、沙姫はこっくりと頷いた。
「あれ以外の月虹花を一株、あなたに差し上げます。それが見事に花を咲かせたら、その時に、あの月虹花も差し上げます。あなたの望みが月虹花である以上、渡さないわけにはいかないの。でも、お願い。私から一番大切な宝物を奪っていかないで。お願い……」
幼い少女がねだるように、そして女が男にすがるように、沙姫はその金色の瞳に涙を浮かべて、貝谷に懇願した。
「では、俺は、花を咲かせる事ができれば、二株の月虹花を手に入れる事になるのか?」
「ええ。それが、あなたが真に欲する物に対して干渉した私の償い」
「償い?」
「そう。山の掟には、たとえ女王であっても干渉してはならないの。でも、私はどうしても、あの花だけは……和昭だけは、手放せない……この世でたった一人、心の底から愛する人だから……」
そう言うと、沙姫は素足のまま庭へ降り、頭蓋骨の山に手を差し伸べた。すると、その手に招かれたかのように、ふわり、と頂きの頭蓋骨が浮き上がり、沙姫の目の高さで止まった。少女は、それを恋人を抱き寄せるような愛しさを込めて胸に抱き抱え、貝谷の方へ向き直った。
「お願い。どうか、私達の間を裂かないで」
それは、何とも言えぬ凄絶な光景であった。白い頭蓋骨の山の前、汚れを知らぬ雪を踏み締めた金の瞳の美少女が、天頂に淫靡な花を咲かせたしゃれこうべを胸に、黒髪を揺らして立っているのだ。
(これを見たのか、実影さんも……)
この世ならぬ光景は、幼い少年の胸にどれほどの恐怖を植え付けた事だろう。しかし貝谷は、恐怖を上回る充足感に目の前の“現実”を受け入れた。
(ここは、マヨイガ。人ならぬ者が住まう場所。ならば、俺も人ではないのだ)
「その条件、飲もう。花を咲かせる事ができれば、もう一株、それも最も美しい花が手に入ると言うのなら、俺には何の不服もない」
「ありがとう」
心の底から安心したように、沙姫が微笑む。その満ち足りた笑顔は、女王というよりも天使のようだ。
「じゃあ、これ」
沙姫は、右手にしゃれこうべを抱いたまま、すっと左手を差し伸べた。再び音もなく、しゃれこうべが一つ宙を飛び、今度は貝谷の目の前で止まる。
「持って返って」
沙姫の声に弾かれたように、貝谷は咄嗟にそのしゃれこうべを両手で挟み込んだ。ひんやりとした、不思議な感触がする。滑らかな大理石に似ていながら、どこか粘着質を感じさせる。不快感とまではいかないが、決して忘れられない手触りだ。
「この庭の土をもらってもいいかな?」
「土?」
「ああ。この山と繋がるもので支えてやるのが、一番いいだろう。それに、このままでは、目立ち過ぎてどうにもならない」
「そうね」
沙姫は、くすくすとあどけない笑い声を立てると、小さな子供が砂山を作るように、雪を掻き退けると、
「さあ、どうぞ」
と小首をかしげて貝谷を見た。
貝谷は、一旦座敷に戻り、リュックから袋と移植ゴテを取り出すと再び庭に戻った。できるだけ丁寧に土を取り、袋に入れたしゃれこうべが上手く隠れるように工夫する。
「それじゃあ、花開いた時、もう一度会いましょう。あなたが本当に望んだこの花を持って、必ず行くわ」
「わかった。でもその前に、山を降りないと」
貝谷がそう言うと、沙姫は最高の冗談を聞いたかのように、上機嫌な笑い声を立てた。
「安心なさい。ここを一歩出れば、あなたは帰るべき場所に立っているわ。マヨイガから帰るのは、とても簡単なのよ」
「本当に?」
「ええ」
「じゃあ、また、いつか」
「もう一度会える日を、楽しみにしているわ」
「ああ、俺もだよ」
貝谷に言葉に、沙姫はうっすらと微笑を浮かべた。それは、幼い少女のものでも、美しい女のものでもない。もっと深い闇を持った、魔物のような淫靡さを秘めた妖しい微笑だ。貝谷は、ぞくりと全身が総気立つのを感じた。
「さあ、帰りなさい。あなたが住む世界へ。そして、咲かせてごらん。神の為に咲く魂の花を」
沙姫がそう言う声を聞いた途端、貝谷は吹雪の中に放り出されていた。激しい雪の螺旋が全身を苛み、熱を奪う。そのあまりの激しさに、貝谷は意識を失った。
どうも、霜月です。
毎日更新してたら、残すところあと1話となりました。
少しでもお楽しみ頂けたら、幸いです。