四
翌朝五時。夜明けには、まだ少し早い。それでも、山の向こう側では日が昇っているのか、空はほんのりと明るさを帯び始めていた。
「気をつけてな」
パジャマの上に厚手のジャンバーを羽織り、腕組みをして立つ幹尚が、貝谷に声を掛けた。
貝谷の方は、完全防備の冬山装束だ。大袈裟なぐらい大きなリュックの中には、十日分の食料が入っている。
「貝谷君、頼んだぞ」
そう言って、貝谷の肩を叩いた祖父は、早朝だというのに、完璧に着物を着こなしていた。おまけに、襟巻き一つでも寒そうな素振り一つ見せない。
「実影。ちゃんと貝谷君を禊ヵ池へ案内するんだぞ」
「はい……」
実影の答えは短い。無表情な横顔からは、特別な思いは何も感じ取れなかった。
「それでは、行って参ります」
会釈して、貝谷は実影が運転するRAV4に乗り込んだ。
雪那賀富士まで、車でおよそ五分。子供の足でも往復できる距離だけあって、わざわざ車を使う程の事もない。ただ、重い荷物を背負って歩くのは、後々の事を思えば、止したい所だ。実影は、禊ヵ池まで案内したらすぐに戻るつもりなのだろう。貝谷とは対照的に、荷物らしいものは、何一つ持っていなかった。
車が静かに止まる。目の前は、当たり前の事だが、一面の雪だ。足跡一つ、ついてはいない。
「ここから先は、車では無理だ。降りてくれ」
昨夜の取り乱しようが嘘のように、平静そのものの声で実影が言った。
貝谷は、助手席のドアを開け、真新しい雪の上にそっと足を乗せた。靴の半分が、簡単に沈む。サラサラの粉雪の感触がした。身を切るような寒気が、服の上からも解る。かじかみそうになる指に息を当て、貝谷は登山用のスキーを履いた。
「行くか」
貝谷の準備が整ったと見ると、実影は先に立って歩き出した。
歩き始めてから、二時間を経過した頃だ。
「どうしてそんなに月虹花を見たいんだ?」
ふいに実影がそう話しかけてきた。
「さあ、自分でも良く解りません。最初は、見つけて麓でも栽培できれば良いと思っていたんですが、今は、何よりも本物を見たい。それしか、頭にないです」
貝谷が正直に答えると、なぜか実影は苦笑を漏らした。
「不思議なものだ。普段は、決して他人を信用したりしない祖父が、あんたは、簡単に信用してしまった。本当の事を言えば、今までにも月虹花を探しに来た人間は、何人もいたんだ。だが、あんただけだよ。あの祖父さんに、案内しろと言わせたのは」
「どうしてでしょう?」
「さあな。だから不思議だと言ったんだ。持ち帰ると公言した人間が、あんただけだって事もない。他の奴らの目的だって、ようはあんたと同じ、金儲けだ。持ち帰らなければ、意味はない。目の前に、何百万って札束を積んだ男もいれば、土下座した男もいた。それでも祖父さんは、首を立てには振らなかった」
ザクザクと雪を押して進み、実影の声を聞きながら、貝谷は別の思いに捕らわれていた。まさか、自分以外にも月虹花を求めて戸山家を訪れた者がいるとは、思わなかったのだ。そもそも、幹尚から聞かなければ、そんな花の存在など、知りもしなかった。
「月虹花は、そんなに有名な花なんでしょうか?」
気づけば、自然と疑問が口をついていた。
「あんたは、どうして知ったんだ?」
案の定、逆に、実影が訊いてくる。
「幹尚君に聞いたんです。そんな名前の伝説の花が、自分の実家の方にある、と」
「そうか。実はな、本があるんだ」
「本?」
「今から、もう四〇年も前に出た本だよ。とっくに絶版になっているから、まともには手に入らない。古本屋を探せばあるかもしれんが、ボロボロで読むのにも苦労するだろう」
「何という本ですか?」
「『妖しの花』という。書いたのは、祖父さんだ」
「えっ」
貝谷は、絶句した。思わず、足まで止めてしまう。失礼と思いながらも、ついつい実影の顔をじっと見つめてしまった。
実影は、そんな貝谷の反応を予想していたのだろう。至って平静な顔で、
「祖父さんの描いた絵は見たか?」
と訊いた。
「はい」
「どうやら祖父さん、あの絵だけでは、情熱を押さえきれなかったらしい。本と言っても、正確には詩集でな。月虹花賛歌の詩集だ。俺なぞには、良くは解らん世界だが、それなりの評価は得たらしい。もちろん、その空想力に対しての評価だ。神秘的な花への、溢れんばかりの想いを綴った、華麗なる作品とか何とか、帯に書いてあった」
「はあ……」
文学となると、貝谷にとっても畑違いだ。そんな代物があったなど、初耳である。
「それを読んだ一部の読者が、現実のものと思って、うちまで押しかけて来た。一番最近では、二年程前だ。父親の遺品の整理をしていたら、祖父さんの本が出て来たと言っていた。随分熱心に頼んでいたが、祖父さんは頑として、教えなかった。俺を呼ぶ事さえ、しなかった……」
そう言うと、実影はどこか遠い目をした。
「だから俺は、安心していたんだ。祖父さんはもう、月虹花の事は諦めたんだと。もう二度と“マヨイガ”の事を話せと強いる事はない、ってな」
静かな声が、白い山の中に凛と響く。
実影と並んで歩く貝谷の背を、冷たい汗が滑り落ちた。吹き抜ける風が、防寒服の内側を擦り抜けたようだ。無意識の内に生唾を飲む。ごくりという、にぶい音が鼓膜を叩いた。
「あれが、禊ヵ池だ」
緊迫した一瞬の後、実影がふいに立ち止まり、木々の奥を指さした。雪で重そうに枝をたわませた林の向こうに、青い水面が見える。白一色の世界で、そこだけが瑠璃色に光っていた。
貝谷が思っていたよりも、大きな池だった。湖と呼ぶには少し小さいかもしれないが、山の中にあるため池を想像していた貝谷の目には、無言の圧力が感じられる。
「あれが、禊ヵ池ですか……」
ぼんやりと貝谷はそう呟いた。
「神の池と、そう呼ぶ者もいる」
「神の池……」
「神隠しに会う子供は皆、禊ヵ池で行方知れずになるそうだ」
「実影さんも、そうだったんですよね」
「ああ」
再び冷たい風が、貝谷の頬に当たった。
「行こう」
しばらく水面を見つめていた実影が、雪の斜面を歩きだした。貝谷は、慌ててその後を追った。
間近で見れば見る程、池は怖い程澄んだ色をしていた。碧い水面を見つめていると、その奥にこそ“マヨイガ”があるのだ、という錯覚さえ感じる。神秘的な色合いは、吸い込まれそうな程美しい。
「あの日、俺は友達とここへ泳ぎに来ていたんだ……。ついて来い」
言われて貝谷は、再び実影の後を追った。木々が急に途切れ、急斜面になっている。その先は、沢になっているのか。落ちたら、そう簡単には這い上がれないように見える。
「何かの影を見たような気がしたんだ。白い着物を来た、女の子の後ろ姿だったような気もするし、銀毛の小さな獣だったような気もする。もしかしたら、両方だったのかもしれない。俺は、その子の後を追って、ここへ来た」
実影は、じっと下方を見つめていた。まるで、白い斜面に、今でもその幻影を追い求めているかのような横顔だ。
「貝谷さん。あんたは、どうしても“マヨイガ”へ行きたいか?」
最後の確認をするように、実影がそう訊いた。
「月虹花がそこにあるのなら、行きたいです」
「花はある」
一言だけ、実影は言った。だがそれは、今までに聞いたどの言葉よりも、明確な言葉だった。貝谷は、驚きを隠しきれない表情で実影を見た。
「やはり、あなたは月虹花を見たんですね」
「見た。見なければ良かった」
「どうして?」
貝谷の問いかけに、実影は、なぜか皮肉な形に唇を歪めた。
「運があれば、あんたも見れるさ」
不気味な程落ち着いたその言葉を聞いた次の瞬間、貝谷は体が宙に浮くのを感じた。実影が、全身の力を込めて、貝谷を突き飛ばしたのだ。
冷たい雪が、服の透き間から入り込んで来る。激しく斜面を転がり落ちながら、貝谷は、遠くなって行く実影に手を伸ばしていた。
(どうしてあなたは、それほど“マヨイガ”を拒むんだ)
言葉にならなかった質問を胸に抱いたまま、貝谷はいつしか意識を失った。