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月虹花  作者: 霜月ニ條
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 貝谷がその話を聞いたのは、大学の三回生の時の事だ。幼い頃からの植物好きが高じ、植物学を専攻していた。趣味と実益を兼ね、フィールドワークがてらの登山を繰り返す内、高山種を自分の手元で育てるという欲求に駆られるようになっていた。

 月虹花という花がある。

 それは、彼の学科仲間が教えてくれた情報だった。

「聞いた事ないな、そんな花」

「そりゃそうだろう。何せ、伝説の花なんだから」

友人の戸山幹尚はそう言って、からかうような笑顔を見せた。

「伝説の花って……」

「文字通り、伝説の花。言い伝えの花だよ」

そう言って彼は、祖父から聞いたという、月虹花の事を教えてくれた。

 山には、“山の民”と呼ばれる神がいる。月虹花は、彼らが住む里にだけ咲く花で、吹雪の直後の満月の夜、その銀色の光を浴びて、花開く。群生しているその花は、全てが咲きそろうと、花から花へ虹の橋ができ、それは美しく幻想的な風景だと言う。

 と言っても、その祖父とて実際に見た事があるわけではない。山を生業にする者の間で、密かに伝えられている話だそうだ。東北の山村出身の彼は、

「俺の田舎ってさ、本当にこういう話多いんだ。しかも、年寄り連中はそれを本気で信じてるときてる。今時、アナクロもいい所さ」

と肩を竦めて笑った。明らかに、自分の故郷を馬鹿にした態度だ。その時は、貝谷も一緒になって笑ったが、妙に気になる話だった。

 それから二年。貝谷は、すっかり忘れていた月虹花の事を思い出した。きっかけは、まず平地では栽培できないと言われていた植物を、見事開花させた事だった。先日、大手の園芸会社と、品種改良とそれに伴う商品化への打ち合わせを済ませた。自分の趣味が、金になるのだ。もしかしたら、伝説の花も、栽培出来るかもしれない。そうなれば、どんなに素晴らしいだろう。そんな欲望が、貝谷の頭を過った。

「お前の出身地って、どこだっけ?」

院生になっても同じゼミにいた、幹尚にそう訊いた。

「へ?雪那賀だけど……」

「雪那賀?」

「岩手の上の方。電車もバスも通ってない所だよ。自家用車がなけりゃ、どこへも行けないようなド田舎さ」

「地図、描いてもらえないか?」

それを聞いた幹尚の眉の根が寄った。

「何考えてるんだ?」

「探しに行くんだよ、月虹花」

微笑して見せた貝谷に返されたのは、呆れ返った幹尚の失笑だった。

「あのなあ、カイ。月虹花は、言い伝えだけで、誰も見た事がないんだぜ?確かに、お前の高山植物に対する熱意は凄いし、栽培能力も素晴らしいと思う。だけど、そんなあるかないか判らないような花を探すのに、時間を裂く必要はないだろう」

「もし、あったら?美しい花なんだろう?栽培して、改良すれば、鑑賞用になるかも知れない」

「無駄だって」

捏ねる幹尚を口説き落とし、春の帰省に便乗させてもらうと決めた。

「うちに来るだけ、無駄だって」

東京駅のホームでも、幹尚は貝谷を止めた。どうやら、都会派で通っている彼は、自分の里を他人に見られる事を嫌っているらしい。

「いいんだ。そんな伝説が生まれた場所を見るだけでも、俺には価値がある」

「後悔するぜ。本当に、何もない所なんだからな」

早春の気配が漂い始めた三月上旬、二人連れ立って列車に乗った。東北新幹線で盛岡まで行き、十和田湖行きのバスに乗り換える。駅前でも、東京ではまず見られない高さまで、雪が積もっている。貝谷は、目的地がここより更に雪深いと聞いて、頭痛を覚えた。冬山登山も幾度か経験しているが、どうしても雪は好きになれない。

 バスに乗って、小一時間程で幹尚が下車するように言った。バス停の側にある、こじんまりとしたロータリーに、RAV4が止まっている。

「兄貴」

幹尚が運転席の男に手を上げる。

「おう」

窓を開け、男が顔を出した。

「早く乗れ。冷えてきやがった。吹雪くかもしれん」

挨拶も何もない。相当武骨な男のようだ。

「はじめまして。貝谷真伍と言います」

「どうも。幹尚の兄で、実影と言います」

とりあえず名乗ったものの、会話はそこで途切れた。

(みかげ、か。変わった名前だな……)

貝谷がそう思ったのを見透かしたように

「変わった名前だろう?うちの祖父さんがつけたんだ」

と幹尚が言った。

「字も変わってるんだぜ。実のある影だもんな。こんなに矛盾した字があるかよ。なあ、兄貴」

「うるさい。黙って乗ってろ」

冷たく太い声が言った。車中の空気が凍りついたように、静まり返る。貝谷は、たまらない居心地の悪さを覚えた。

「なあ、カイ。明日、温泉に行かないか?」

取って付けたような明るい調子で、幹尚が言った。

「温泉?」

「うちから車で三〇分程走った所に、天然の温泉が湧いてるんだ。あれだけは、自慢できる代物だぜ」

「ふむ……いいなあ」

「お客人」

不意に、実影が貝谷を呼んだ。

「貝谷でいいです」

「そうか。貝谷さん。あんた、月虹花を探していると聞いたが、本当か」

「はあ……」

「馬鹿な事を考えるのは、止した方がいい。あれは、神様の花だ。人のものじゃない」

「兄貴っ」

「いいな。明日、幹尚と温泉に行ったら、すぐに帰れ」

「は……?」

「二度は言わん。命が惜しければ、帰れ」

「兄貴っ」

「ご忠告、ありがとうございます。でも、帰りません」

「カイ」

幹尚が、貝谷と兄の間に挟まれて、おろおろとしている。貝谷は、友人の肩を安心させるように叩いてから、

「命が惜しければってどういう意味ですか?」

と訊ねた。実影は、何も言わず、黙々とハンドルをさばく。

「もしかして実影さん、見た事があるんじゃないですか?」

キーッと激しいブレーキ音をさせて、車が急停車する。弾みで幹尚と貝谷は、座席に頭をぶつけた。

「いてー……。兄貴、もっと気をつけて運転してくれよ」

幹尚が文句を言う。その時貝谷は、実影の体が小刻みに震えている事に気づいた。

「実影さん……」

やっぱり見た事があるんですね、と念を押しかけて止めた。万が一、ここで降ろされてしまっては、どうしようもない。車に乗ってから、もう三十分以上経過している。徒歩で戻るには、些か遠すぎる距離だ。ましてこの雪の中、いきなり重装備に着替えるのも、つまらない。

「大丈夫ですか?」

呼びかけた手前、何か言葉を繋いでおこうと、貝谷はそう言って、実影と目を合わせようとした。が、先程までの強気な態度とは裏腹に、実影は目線を合わせようとしない。

(やっぱり、彼は月虹花を見てる……)

貝谷は確信した。そして、実影がそれを隠したがっている事も。

(なぜ、話したがらない……)

命が惜しければ、という警告も気にかかる。

「幹尚」

「ああ?」

「お前が言ってるその温泉、山に近いのか?」

「ああ。大体、中腹ぐらいになるのかな。俺の家がその山の登山口みたいな位置になるからな」

「そうか……」

貝谷は、そこで一旦言葉を切った。バックミラーに映る実影を見る。こちらの事は、意識して無視する事にしているようだ。

(絶対に、何かある……)

確信に近い感情が貝谷の背中を押す。できれば月虹花を見つけたい。控えめにそう思っていたはずの願望が、いつしか必ず持ち帰るという強い意志へと変化していく。

 車窓へ目を転じれば、周囲の積雪は除雪され積まれた分もあるのか、まだ一メートルを越えている。いくらチェーンを巻いた四駆でも、不慣れな者ならとても運転できるような状態ではない。かろうじてついた轍を辿るように、車は進む。白く煙る景色に気を取られているふりをしながら、貝谷は胸中に熱い火が灯っていくのを感じていた。

 それから一時間以上経ってから、車はようやく目的地に辿り着いた。すっかり日が落ち、辺りは暗闇に閉ざされている。

 雪の中に、巨大な館が建っていた。珍しい茅葺き屋根の母屋に加え、離れがある。おまけに倉も三つあるようだ。漆喰の白い肌が、うっすらと車のヘッドライトに浮かんでいる。自家用車も、今乗っているものを合わせて四台。昔風に言うなら、御大尽というやつだ。

 貝谷は、友人の顔を見つめたくなる衝動を懸命に堪えた。

「荷物は、俺が降ろしてやる。先に中へ入って、暖まると良い」

注意深くサイドブレーキを引いてから、実影が言った。

「いえ、自分でやります。運転させた上、荷物まで降ろしてもらうなんて」

「遠慮するな」

「本当に、結構です」

親切の押し売りにも感じられる執拗さで実影が言うのを貝谷は何とか退け、肩に荷物をかつぎ上げる。

「持ってもらえばいいじゃないか」

「捨てられそうで怖い」

「いくら兄貴でも……」

と笑いかけた幹尚の顔がふいに強ばる。

「いや、あいつなら、やりかねねえか」

「さっきの調子じゃ、な」

「やれやれ、困った奴らだよ、お前も兄貴も」

幹尚は諦めまじりの吐息をついた。白い煙が立ちのぼる。

「何してるんだ。冷えきってしまうぞ」

実影が焦れたように声をかけてきた。

「すみません」

出来るだけ自然にかつ愛想良く返事をすると、貝谷と幹尚は、母屋へ入った。

「初めて見たよ、茅葺き屋根なんて」

ブーツを脱ぎながら、貝谷は嬉しそうに言った。

「来年当たり、強化セラミックの屋根に変えるつもりだ。屋根を葺き変えるのだって大変だからな。材料も減っているし、技術自体が後継者難で衰退していっている。何のメリットもないよ、こんな屋根」

幹尚が冷淡に言い捨てる。聞こえているはずの実影は、それを無視して、

「幹尚。祖父ちゃんが呼んでるぞ」

とからかい含みに言った。

「げっ。あの爺さんまだ元気なのかよ」

幹尚が思い切り嫌そうに顔をしかめる。本気で嫌っているらしい。貝谷は、幹尚の子供じみた表情につい笑いそうになった。実影も

「こらっ。聞こえたら、小言が増えるぞ」

と叱りながら、目は笑っている。

「嫌だな……」

「身内を露骨に嫌がる奴があるか」

貝谷がからかう。

「他人事だと思って、好きな事言ってくれるぜ」

「他人事じゃない。貝谷さんも一緒に行ってくれ。挨拶がしたいそうだ」

「俺も?」

自分を指さした貝谷に、実影が頷く。一瞬、緊張感が走った。

 どうやら、全員敵らしい。貝谷の頭に、そんな予感めいたものが浮かぶ。連れができたせいか、幹尚は二人の微妙な空気の変化に気づいていない。貝谷は目を伏せ、そっと幹尚の肘を押した。

「幹尚、入ります」

時代錯誤な言葉遣いと共に、幹尚が障子を開ける。すっと、音もなく開いた障子の向こうに、皺くちゃの猿じみたものが正座していた。

「よう、帰った」

低く響く声がした。

「近くへ寄りなさい」

「はい」

「お客人もだ」

「はい」

貝谷と幹尚は、上座に近づき、老人の真正面に正座した。間近で見れば見る程、猿じみて見える。

「学校はどうだ」

「満足しています」

「だろう。そうでなければ、通わせている意味がない」

「はい」

間が生まれた。幹尚と相性が悪い、という事を如実に表しているような間だ。

「女はいるのか」

「広く、浅く。不自由のない程度には」

「まあ、いい。嫁は儂が決める。次男とはいえ、ちゃらちゃらした女では困るからな」

「はあ」

どうでもいいと思っているのが丸解りな、生返事である。

 そこで今度は、祖父の視線が貝谷を捕らえた。明らかに値踏みをするような目だ。その奥に、用心深い光がある。

「お客人」

「は、はい」

貝谷は、ごくりと唾を飲み込んだ。

「月虹花を探しに来たそうだな」

「はい」

「話は幹尚から聞いた。儂の話を聞いて興味を持ったとな。見たいか」

「はい」

貝谷は、迷わずに答えていた。祖父は、にんまりと笑い、親しい気に

「気持ちは、良く解る。何せ、儂も見たくて見たくてたまらんからな」

と言った。予想外の展開だ。貝谷は祖父の笑顔に勢いを得て

「まだ、ご覧になった事はないんですか?」

と訊ねてみた。

「ない。だが、実影は見た」

「やっぱり……」

思わず呟いた貝谷に、幹尚が驚いたように

「やっぱりって、お前、何か気づいてたのか?」

と訊いてきた。

「ああ。途中、急ブレーキで頭を打っただろう?あの時、本当は、見たんじゃないかって念を押したかったんだ」

「ああ、命が惜しければ帰れって言われた時か。そういえば、確かあの時もお前、見た事あるんじゃないかって訊いてたな」

「何でそう思った?」

祖父が訊いた。

「あれは神のもだと言われたからです。幹尚君と大して年齢が変わらないのに、そういう迷信的なものを本気で信じているみたいだったから。いくら、ご両親やお祖父さんと一緒に暮らしているからと言っても、やはり、どこか感覚が違う。実際に神々しい姿を見ているからこそ、言えるのではないかと」

貝谷の言葉に祖父は大きく頷いた。

「よう見抜いた。あれは、四歳の頃、神隠しに遭った事がある。おそらくその時、神の里で月虹花を見たんじゃろう」

心の底から、羨ましいと思っているらしい。祖父は何度も頷いて、溜息をついた。

「神隠し、ですか」

「おう。友達と山へ遊びに行ってな。一人だけ帰って来なかった。一週間して戻って来たか。儂はすぐに神隠しと解った。実影は、小さい頃から可愛らしい子だったからな。神様も可愛い子がお好きと見えて、儂が子供の時分から、ここらで一番可愛い子は皆、神隠しに遭うた事があるんじゃ」

「はあ……」

得々としゃべる祖父の勢いに、さすがに貝谷は圧倒された。実影が可愛かったと聞いても、いまいちピンと来ない。浅黒くて眉の太い、実に男らしい風貌だからだ。強いて表現するなら、恰好良いになるのだろう。が、おおよそ、可愛いという修飾語の似合うタイプではない。納得できないものを感じる貝谷の横で、かすかに吐息の気配がした。見れば、もう聞き飽きたと言わんばかりの表情で、幹尚が足を崩している。

「実影も、それまでは“実”と言っていたのだがな、戻ってから“実影”と変えさせた。神隠しに遭った子供には、必ず“影”という名前を付けるのが、ここらの習わしでな。昔、この辺に住んでいた“影山”という一族のせいじゃと聞いておる」

「影山?」

「神の巫女の家系だったそうじゃ。何があったか、離散してしまい、寂しがった神様が神隠しをするようになったと伝えられておる。他に類を見ない程の美形揃いだったそうだから、そりゃ、神様も寂しがっただろうなあ」

最後をやけにしみじみと言って、祖父はふと目線を上げた。途端、

「こらっ、幹尚。欠伸なんぞしおってっ」

と怒鳴る。

「済みません。退屈だったもんで」

怒られた方は、平気なものだ。貝谷は、さっきから、幹尚がだれているのを知っている。悪友のこの態度も、ワイルドさを意識していると知っている。が、そんな事はこの爺さんには関係はない。

「いいか。昔から伝わる話は、きちんと伝えておかんと、くだらん事でお上の世話になる事になる。実影の時も、警察へ届けるというのを儂が止めた。だから、いらん恥をかかずに済んだんじゃ。儂は、実影が神隠しに遭ったとすぐに解った。だから止めたんじゃ。それをお前の両親は、冷たいと詰りよった。いいか。神様はおる。必ず、おられる。山で夜を過ごせば、肌で解る。それも知らんで、最近の若い者は、年寄りを馬鹿にしよる。実影だけが、儂の話をちゃんと聞きおる。あれは、良い子じゃ」

唾を飛ばしながらの熱弁も、最後には、愚痴とも孫自慢とも取れるオチになった。これも聞き飽きているのだろう。幹尚が、ちょんと貝谷の腕をつついた。

「行こうぜ。これ以上ここにいたら、何言われるか、解ったもんじゃねえ」

「お前はそれでいいかもしれないが、俺はそういう訳にもいかない。もう少し詳しく聞きたい事があるんだよ」

「ったく、物好きめ」

幹尚が小声で毒づく。ちっと舌を鳴らしてそっぽ向いたのを

「こら、幹尚。ちゃんと儂の話を聞かんかっ」

と達者な祖父が叱る。果てしない祖父・孫戦争に突入しそうな気配に

「一つ、伺いたい事があるんですが」

と貝谷は口を挟んだ。

「何かね」

「月虹花の特徴について、何か伝わっている事はありませんか?」

「特徴?幹尚からは、どんな話を聞いたんだね」

「吹雪の直後の満月に、その月光を浴びて花開くとだけ」

「ふんっ。人の話を中途半端にしか聞いておらん証拠じゃ」

祖父は、憎たらしそうに幹尚を睨みつけた。

「では、ご存じなのですね」

貝谷の問いかけに、祖父はやや大仰に頷いてみせる。

「形は百合に似て、上品に整っておる。花びらは、白く縁取られた深紅。しべは赤黒く濡れたように見えるという。聞いただけでは、何やら怪し気な雰囲気だが、実際に見ると、この上もなく美しいと言われておる花だ。文字どおり、高嶺の花よ」

祖父はそう言って、ファッファと皺だらけの顔をさらに皺くちゃにして笑った。

「高嶺という事は、やはり山頂付近に?」

「さて、場所まではわからん。おう、ちょっと待てよ。実影。実影はおらんか」

祖父は何か思いついたらしく、大声で実影を呼んだ。

「はい」

落ち着いた声が障子の向こう側から聞こえた。

「ちょっと中へ入りなさい」

「はい」

一瞬の間を開けて、返事があった。静かに障子が開けられ、実影が膝をついたまま入室してきた。時代劇で見られる、殿様との謁見シーンで、下座の者が上座へ進む時の仕草である。この家に旧態然と根付くこの封建性に、貝谷は驚いた。それを当然の事を思っている祖父と実影に、そしてそれを鼻先で笑いながらも、完全にその影響下から抜け切れていない幹尚にも。

「お前が神隠しに遭ったのは、山のどの辺りだった?」

「爺さんっ」

祖父の言葉に実影は動揺したようだ。一気に青ざめ、拳で畳みを叩いた。

「そんな事、こんなよそ者に話して、何を考えているんですっ」

「月虹花に魅入られた者は、よそ者でも儂の仲間じゃ」

祖父の威厳が実影を押し潰す。荒々しい息遣いのまま、実影は貝谷を睨んだ。怯みそうになるのを堪え、貝谷はその視線を懸命に受け止める。

「言え。どこで神隠しに遭った」

「北東の、禊ヵ池のそばです」

観念したように、実影が告白した。

「あそこか……。ああ、そうじゃった。あの時は酷く暑い夏で、お前達は泳ぎに行っておったんじゃったな」

「はい」

「花は、見たか」

「はい」

それは、貝谷の耳に敗北宣言のように響いた。

「咲いてはおらなんだか?」

「はい」

「そうか。やはり伝承通り、吹雪かなければ、咲かぬか」

祖父は、ふむ、と腕組みをして何やら考え出した。そして、おもむろに

「貝谷君」

と呼んだ。

「はい」

「君は、山には登れるかね」

「はい。その準備もして来ました」

「そうか。実影、明日にでも貝谷君を禊ヵ池に連れていってあげなさい」

「爺さんっ」

「貝谷君の目的は、月虹花を見る事ではなく、持ち帰る事だと聞いておる。儂ももはや長くはない。一目で良い。伝説ではない、本物を見てみたい。儂の祖父さんは、咲いている本物を見た。孫の実影も、咲いていないとはいえ花を見ておる。神隠しに遭えなかった儂の願い、貝谷君、叶えてはくれんか?」

「できれば、そうして差し上げたいと思います」

嘘ではない。他人に見せるために、持ち帰りたいのだ。その第一号は、誰でも良い。

「いいな、実影。明日、貝谷君を禊ヵ池へ連れて行ってあげなさい」

「わかりました」

不承不承という表現が適切な返事の仕方だ。祖父の前だから了承したが、本当に連れて行くつもりはない、と目が語っている。

「いいか。必ず連れて行ってあげるんじゃ。儂の遺言と思え」

強い口調で重ねて命じた。月虹花に対するただならぬ執着が感じられる言い方だ。魅入るというより、憑かれているという方が正しいような、鬼気迫るものがある。

「貝谷君。夕食の後でもう一度ここへ来なさい。良い物を見せてやろう」

祖父にとって、貝谷は自分の身内よりも親しい人物になったようだ。にこにことした表情は、幹尚や実影と話している時には見られない。好々爺然とした雰囲気に、

「あの爺さんでもあんな顔するんだな」

部屋を出てから、ぼそっと幹尚が言った。



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