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月虹花  作者: 霜月ニ條
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 冬曇りの昼下がり。縁側でぼんやりとしていた貝谷は、ふいに吹いた北風に身を震わせた。セーターの襟元を整え、室内に入る。

 今にも泣き出しそうな空が、一層気分を憂鬱にする。それでも貝谷には、穏やかな時間を過ごせる空間だ。

 珍しく、予定のない日曜日だった。貝谷は、一日中寝る、と家族に宣言し、こうして縁側でごろごろしてる。妻が、邪魔物そうに彼を見るが、気にしない事にした。ようやく買ったマイホームである。ここにいる時間を合計しても、年に一ヵ月になるかどうか。思う存分、“我が家”を味わいたかった。

 一応“首都圏”と呼ばれる範囲内にあるが、開発途上の近隣には、林も残っている。都会の中に生まれた田舎。そんな感じのする場所だ。冬休みを謳歌する子供達は、自由研究と称してそこへ出掛けている。最近はどこも物騒だから、と止める妻を、子供には自然と触れ合う時間が大切だと、正論で説得した。

 階上で掃除機の音がする。生活の音に触れる機会が減ったせいだろう。それすら、やけに好ましく思えた。

(ああ……家にいるんだ……)

他人が聞いたら、首をかしげたくなるような感慨に浸る。前に空の高さを気にしたのは、いつの事だったか。学生の頃は、それこそ寸暇を惜しんで山へ出掛け、大自然の懐に抱かれながら、植物採集に励んだものだったが。

 ふと、貝谷の目が庭をさ迷う。捜し当てたのは、何の変哲もない一株の草。冬だというのに青々とした葉を茂らせ、凛と背筋を伸ばして立っている。

(あれは、夢だったのか……)

学生時代、友人が止めるのも聞かず、一人で登った東北の冬山。そこで手に入れた、幻の花が、それだ。伝説でしかないと聞かされていた、月虹花。この上もなく美しい花を咲かせる花だ。

 あれから十年。花は一度も咲いていない。枯らさないように、水はきちんと与え、肥料にも気を配り、栄養剤も与えてある。手入れとしては、万全を期してあると言っても良い。妻が呆れる程の情熱を、この花に捧げてきた。貝谷にとって月虹花は、それだけの価値がある花なのだ。

 もう一度だけ、見たかった。百合の花に似た形をした、白で縁取りされた深紅の花びら。半紙に血を垂らし、滲ませたようだと思った。そして、その血が凝ごったような赤黒いしべ。

 淫靡と言う言葉が似合うあの不思議な花を、もう一度だけ、見たかった。そうすれば、彼女に会える。沙姫と名乗った、美しい少女。艶やかな黒髪と柔らかそうな白い頬。濡れた赤い唇に金の瞳をした、花の主。

(やはり、人里では咲かない花なのか……)

諦めようと、何度か思ったものだ。だが、今年からは見込みがあると、貝谷は思っている。町中と違い、ここには自然がある。いくばくかの積雪も見られると聞いた。だからこそ、多少無理をしてでも、この家の購入を決めたのだ。少なくとも伝説通りの条件を満たす環境は、以前のマンションよりも整っているはずだ。枯れた、と彼女に告げたくはなかった。

「もう。本当に寝て過ごすつもりなの?」

後ろから、半ば呆れ、半ば怒った妻の声がした。貝谷は、面倒臭そうに振り返った。

「一年中働きづめなんだ。たまの休みぐらい、ゆっくりと家にいたっていいだろう」

「主婦は年中無休です」

妻の言葉に貝谷は閉口した。

「掃除の邪魔だけは、しないでよ」

それから間もなく、今度は隣室から掃除機の音が聞こえ出した。貝谷は、ふうっと大きな溜息をついた。

 最近、妻はああいうセリフで彼を困らせるようになった。一度だけ、「主婦には上司も部下も得意先もないだろう」と反論したが、「じゃ、仕事、代わろうか」とやり返されてしまった。妻とは机を並べて仕事をした仲だ。当時の成績は彼女の方が良かったから、もし本当に入れ替わったとしても、一週間もしない内に自分以上の成績を残すだろう。一方自分は、とても家事をこなせそうにはない。

 陰鬱な気持ちのまま、貝谷は庭先に目を転じた。過去の栄光の残骸のように、咲かない月虹花が葉を揺らしている。

(沙姫……)

しなやかな仕草が記憶の中で甦る。さわさわと、軽く身じろぎするような草の動きが、振り返って彼を誘った、沙姫の姿と重なった。

「まだ、ここにいた。書斎の方は片付いたから、そっちへ移動して」

ガタガタと乱暴な音を立て、妻が貝谷を追い立てる。

「ああ」

貝谷は、重い腰を上げて縁側から立ち上がった。振り返って、花を見る。揺れる緑の向こう側に、うっすらとぼやけた太陽の姿が見えた。



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