第5章
レスニツキーがラボから消えたという知らせは、カーンと僕の間に、言いようのない緊張感をもたらした。D6の巨大な空間の深淵へと続く足場の通路で、カーンは腕を組み、その眼差しは奥の闇を睨みつけていた。
「クソ!中には何が?」
僕の隣に立つ隊員が、焦燥をにじませた声で問いかけた。その声は、この地下世界に潜む未知の危険に対する、彼らの根源的な恐怖を表していた。
カーンは、その問いに答えず、ただ深いため息をついた。「わからん!レスニツキーはラボに居たんだ。」彼の声には、怒りと、どうにもならない苛立ちが混じっている。その視線は、僕が発見したD6の奥底へと向けられていた。
「見張りの交代が来たころには、ラボのドアは開けっ放しで中は荒らされていた。奴も消えていた。」
隊員が、続報を伝えた。その言葉は、僕の胸に重くのしかかる。レスニツキーは、ただ逃亡しただけではない。何かを盗み、そしてこの巨大な施設の中で、跡形もなく姿を消したのだ。その背後には、彼が何か危険なものを持ち出した可能性がちらつく。
「クソッタレ!レスニツキーのせいでまた怒鳴られちまう。」
隊員の一人が、感情を露わにして悪態をつく。彼の言葉は、上層部からの厳しい叱責が、彼らに降りかかることを示唆していた。
「いや怒鳴られるとかじゃなくて、魂をえぐられるぐらいにな。」
もう一人の隊員が、さらに重い口調で付け加えた。その言葉には、ただの叱責以上の、精神的な苦痛が伴うことを暗示している。彼らは、レスニツキーの行動が、どれほどの破滅を招くかを予感しているかのようだった。
カーンは、彼らの会話を聞きながらも、その視線はD6の奥深くへと向けられていた。その瞳には、諦めと、そして新たな決意の光が揺れている。「よし、行くぞ!」彼はそう言うと、僕の肩を軽く叩き、再び歩き始めた。彼の足取りは、もはや躊躇することなく、前へと向かっていた。
僕たちは、D6のさらに奥へと足を踏み入れた。足元からは冷たい水蒸気が立ち上り、あたりは白い煙に覆われている。錆びついた金属の壁面が、まるで巨大な牢獄のようにそびえ立ち、その奥には、さらに深淵へと続く通路が伸びていた。
カーンが、低く、しかし力強い声で語り始めた。「俺達はD6を管理しなきゃならない。だがここはまるで巨大都市だ…」彼の言葉は、このD6の規模の巨大さを物語っていた。それは、ただのバンカーではない。メトロとは異なる、もう一つの、地下に築かれた都市。そして、その奥には、一体何が隠されているのだろう。彼の言葉は、このD6の持つ真の危険性と、それを管理することの困難さを、僕に改めて突きつけるものだった。視界を遮る蒸気の向こうに、未知の闇が広がっていた。
レスニツキー失踪の報を受け、カーンは僕を伴ってD6の深い通路へと歩を進めた。薄暗い通路は、むき出しの配管やケーブルが複雑に絡み合い、冷たい鉄とコンクリートの匂いが鼻をつく。重厚な扉をいくつか抜け、私たちは広い管制室のような場所に出た。複数のモニターが並び、その前には数人の隊員が座って作業に没頭している。モニターの光が、彼らの疲れた顔を青白く照らしていた。
カーンは、その管制室の入口で立ち止まると、僕に振り向いて言った。「よし、行け。俺はここで待つ。」彼の言葉には、僕に何かを託すような、しかし強い決意が滲んでいた。
「お前が去った後、俺もミラーと話す。」
彼の視線は、僕の背後にある、別の扉に向けられていた。そこには、おそらくミラー大佐がいるのだろう。カーンがミラー大佐と直接対決するつもりだということに、僕は驚きを隠せない。
「話したいことが山ほどあって頭してるわ。」
僕の耳には、別の隊員の愚痴が聞こえてきた。この地下基地で働く者たちの、日常的な不満や疲労感が、その言葉に凝縮されている。
「早く行け。大佐は陰間風が嫌いだ。」
カーンは、僕を急かすように言った。その言葉の奥には、ミラー大佐の厳格な性格と、僕が時間を無駄にすることへの苛立ちが感じられた。
僕はカーンの言葉に従い、管制室を横切ってさらに奥へと進む。薄暗い通路を進むたび、僕の心には、カーンの言葉が反芻された。
「ダークワンを攻撃したのは人類最大の過ちだったかもしれん。」
彼の声は、僕の頭の中に直接響くかのようだった。あの時、僕は確かにミサイルを発射した。人類を守るために、それが最善だと信じていた。だが、それは本当に正しかったのだろうか。
「もし彼らが我々と交信したがっていただけなら?」
その問いは、僕の胸を深く抉る。彼らが、敵意を持って現れたのではなく、ただ、僕たちとコミュニケーションを取ろうとしていたのだとしたら?僕が感じていた、あの不思議な感覚は、単なる幻ではなかったのかもしれない。
「あれが交信だって?」
僕は、心の中でカーンの言葉に反論する。ダークワンが姿を現した時、僕が感じたのは、激しい痛みと意識の喪失だった。それが「交信」だとは、とても思えなかった。
「彼らが現れた時に感じる激痛と意識の喪失は、彼らと我々の間に互換性がないからだろう。」
カーンは、まるで僕の心の声を聞いたかのように、そう答えた。彼の言葉は、僕が感じていた苦痛が、ダークワンの攻撃によるものではなく、異種間のコミュニケーションにおける障壁によるものだと示唆していた。彼らは、僕たちと同じ方法で思考し、感情を伝えようとしているのかもしれない。だが、僕たちの脳が、その情報を受け止めきれないのだ。
管制室の奥の扉が、ゆっくりと閉まっていく。僕は振り返り、カーンの姿を一瞥した。彼はそこに立ち尽くし、僕の行く手を見守っている。彼の表情は読み取れないが、その静かな存在感は、僕の心に重くのしかかっていた。このD6の深淵で、僕たちの運命は、また新たな局面を迎えることになるのだろう。