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METORO  作者: 未世遙輝
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第3章

カーンとの会話を終えた僕は、薄暗い通路を歩いていた。壁には煤けたポスターが貼り付き、足元からは冷たい湿気が立ち上る。僕の頭の中は、カーンの言葉と、過去の出来事が複雑に絡み合い、まるで濃霧に包まれたようだった。


やがて、わずかに光が漏れる扉の前を通りかかった。小さなガラス窓から中を覗くと、薄暗い部屋の中で、一人の男がデスクに向かっていた。彼の顔は影に覆われ、ただ、ひたすらに書物を読み耽っているようだった。その姿はまるで、この世界の喧騒から切り離された、別世界の住人のようだ。彼もまた、この地下の奥底で、かつてと同じように、喉の小さな穴から、食べ、飲み、そして息をしていたのだろう。 僕の脳裏に、カーンの言葉が甦る。「お前もそうなるなよ。」 その警告は、僕がこの地下に囚われ、書物の中にだけ世界を見出すことへの、彼の憂慮だったのかもしれない。


さらに進むと、開け放たれたドアの向こうから、談笑する声が聞こえてきた。覗き窓のない、完全に閉ざされた部屋だ。その部屋の隣には、男が一人、車椅子に座ってこちらを見ていた。彼は陽気な笑顔で僕に声をかける。


「よう、アルチョム!」


僕は軽く頷き、会釈を返した。彼もまた、オーダーの隊員だろう。しかし、その足は動かない。この地下での生活が、彼から自由な歩行を奪ったのだ。彼の隣には、迷彩服に身を包んだ別の男が立っていた。その顔には、どこか呆れたような笑みが浮かんでいる。


「アルチョムはD6を発見した男だ。だから、すぐにレンジャーになれたのさ!」


車椅子の男が、誇らしげに僕を紹介する。彼の言葉には、僕に対する純粋な尊敬と、そして自分には果たせなかった栄光への羨望が入り混じっているように感じられた。


「へへ、いやあまあ…」


僕は照れ臭そうに、曖昧な返事をする。D6。それは、僕が偶然発見した、メトロの秘匿された軍事施設だ。そこには、核戦争前の技術と資源が眠っていると言われている。その発見が、僕を「レンジャー」、つまりオーダーの中でも特別な任務に就くエリートへと押し上げた。


隣の男が、肩をすくめて言った。「そりゃよかったな。俺なんて2年の士官生活で、ようやくオーダーに認められたからな…」 その言葉には、わずかな皮肉と、僕とは違う道を歩んできた者の苦労が滲み出ていた。僕が偶然によって得た地位に対し、彼は地道な努力を重ねてきたのだ。


僕は再び、ガラス窓越しに部屋の中を覗いた。二人の男が、小さなテーブルを挟んで向かい合い、チェス盤に似た盤面で何かを打っている。彼らの表情は真剣そのもので、まるで地下の重苦しい現実を忘れ去ったかのように、盤上の戦いに集中している。彼らの周りには、使い古されたマグカップや、紙パックのジュースが散らばっている。その光景は、この閉鎖された空間での、ささやかな日常を切り取ったようだった。


「あいつらにはここでずっと夢見させておけ。」


背後から、誰かの声が聞こえた。その声には、深い諦めと、ある種の諦観が含まれていた。僕が振り返ると、その声の主は、私に背を向け、ただ立ち尽くしていた。


「俺から言わせりゃ、外でのパトロールは毎回命がけだ。」


別の男の声が響く。それは、外の世界の過酷さを物語っていた。この地下にいる者たちにとって、地上のパトロールは、常に死と隣り合わせなのだ。彼らの言葉は、この地下で生きる者たちの、日常的な恐怖と、それに対する無力感を静かに語っていた。


僕は、再びガラス窓の向こうの二人に目をやった。彼らは、盤上での戦略に没頭している。彼らにとって、このチェスのようなゲームが、外の世界の危険から目を背け、心の平穏を保つための唯一の手段なのかもしれない。この地下の奥深くで、彼らは今日も、ささやかな夢の中で生き続けている。


僕は地下基地の通路をゆっくりと進む。湿った空気が肌にまとわりつき、遠くで響く機械音だけが、この閉鎖された空間に生きる証として響いていた。途中にあった休憩所のガラス窓越しに、隊員たちの話し声が耳に届いた。


「ロモノフ部隊のこと聞いたか?」

一人がチェス盤に顔を伏せるようにして、もう一人の隊員に問いかけた。テーブルの上には、使い古された金属製のコップと、煙草の吸殻が散らばっている。


「ロモノフ?大図書館での任務の後、入院したんじゃ?」

迷彩服を着た男が、眉をひそめて答える。彼の表情には、疲労と、この地下世界特有の警戒心が滲んでいた。その横では、もう一人、ソファに横たわって天井を見つめている男がいた。彼らは、この陰鬱な日常の中で、ささやかながらも交流を続けているのだ。


「先週退院した。で、アイツの部隊は教会にある基地へ送られた…」

最初の男が、ゆっくりと駒を動かしながら、重い口調で続けた。


「スパルタ屋外基地か?」

迷彩服の男が、驚きを隠せない様子で問い返す。教会とは、メトロの特定の宗派が管理する区域のことだろう。そこにある基地、そして「スパルタ屋外基地」という言葉が、この地下のさらに奥、あるいは地上の過酷な環境を暗示しているかのようだった。


「そこで生き残ったのはロモノフだけだったんだ。」

その言葉に、部屋に重い沈黙が落ちる。チェスの駒が動く音だけが、虚しく響いた。彼らの間で交わされる会話は、この地下世界における死の日常を、改めて突きつけるものだった。


「嘘だろ!他の隊員は…やられたのか?」

迷彩服の男が、信じられないというように問い詰める。彼の声には、仲間を失ったことへの衝撃と、やり場のない怒りが混じっていた。


「愚痴なんて楽勝だ。目印と旗を追っていくだけだ、子供でもできる。」

最初の男は、どこか諦めたような口調で言った。彼の言葉は、失われた命の重みを、軽く扱っているようにも聞こえたが、それはおそらく、彼が生き残るために身につけた、一種の自己防衛なのだろう。


「まあ、確かにシュリンプは厄介だが…一体何にやられた?」

迷彩服の男は、それでも納得できない様子で、問い続ける。「シュリンプ」とは、この地下世界に生息するミュータントの一種だろうか。その存在が、この日常的な恐怖の根源なのだ。


「わからん。ロモノフは教会で発見された。座って祈ってたらしい。」

最初の男は、首を振って答えた。その情報に、僕の背筋が凍る。命からがらに生き残った者が、信仰にすがるほど追い詰められていたということか。


「それ以来、食事もせず、話しかけても反応せず…ただ神と話してた。」

彼らは、ロモノフが精神を病んでしまったことを語る。この極限状態の中、多くの人間が、狂気と信仰の淵に立たされているのだ。


「神に答えを求めているのかな。」

迷彩服の男が、静かに呟いた。その声には、自分もまた同じ道を辿るかもしれないという、かすかな不安が滲んでいた。僕は、彼らの会話を聞きながら、足早にその場を後にした。この地下では、生きていくこと自体が、常に精神との戦いなのだ。


やがて、僕は「武器庫」と書かれた扉の前にたどり着いた。重い金属製の扉を開けると、そこには、整備された銃器がずらりと並んでいた。火薬の匂いと、金属の冷たい感触が、僕の鼻腔を刺激する。


「やあ、アルチョム。」

迷彩服を着た、大柄な男が、にこやかに僕を迎えた。彼の腕は太く、その胸には弾薬ベルトが何重にも巻かれている。彼は、この武器庫の番人なのだろう。


「武器庫へようこそ。レンジャーになったんだってな?」

彼はそう言って、僕の制服に縫い付けられたオーダーのエンブレムに視線を向けた。その言葉には、僕の新しい地位への認識と、多少のねぎらいが含まれているように感じられた。


「いつか祝杯をあげよう。だが今は、装備を整えていくんだな。」

彼は、軽く片手を上げて、僕の功績を称えた。だが、すぐに彼は真顔に戻り、この場所の厳しさを暗に示した。この地下世界において、祝杯をあげることなど、些細なことなのだ。今はただ、生き抜くための準備が最優先なのだと。


彼は腕を組み、僕をじっと見つめる。その眼差しは、僕の決意を試すかのようだ。

「ハハー!よし、お楽しみと行こうか?」

彼の声には、奇妙な高揚感が混じっていた。この過酷な世界で、彼らは「戦うこと」に、ある種の「楽しみ」を見出しているのかもしれない。それが狂気なのか、それとも生き残るための知恵なのか、僕にはまだ判断できなかった。僕は、目の前に広がる武器の数々を見渡した。これらが、僕の命を守る唯一の盾となるのだ。

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