第2章
カーンの言葉は、僕の思考を激しく揺さぶった。生きたダークワン…?それも、奴らの巣の跡地で?
混乱する僕の横で、カーンは再び口を開いた。彼の視線は、僕の顔から胸元へと滑る。
「お前はオーダーの一員だ。ミラーに報告するんだ。」彼はそう言って、僕の制服のエンブレムを指した。その声には、命令とも示唆とも取れる響きがあった。
僕が所属するのは、メトロの治安維持部隊「オーダー」。その最高指揮官が、僕の義父でもあるミラー大佐だ。カーンは、そのミラー大佐への報告を僕に促している。
「この任務を許可してもらえるよう、我々で説得するぞ。」
カーンは、不敵な笑みを浮かべた。彼が何を企んでいるのか、僕にはまだ掴めない。ただ、彼の言葉の裏には、僕の意図とは異なる、別の目的が隠されているような気がした。
その時、背後から荒々しい声が響いた。「カーン!出て行けと言っただろう!」
ウルマン大佐だ。彼の声には、抑えきれない苛立ちと、カーンに対する明確な不信感が滲み出ていた。
「ここは秘密基地なんだぞ、お前の居るべき場所じゃない。」
ウルマン大佐は、カーンを一瞥もせずに吐き捨てた。彼の言葉は、この場所が秩序によって厳しく管理されていることを示している。カーンのような自由奔放な人間が、そう簡単に受け入れられる場所ではないのだ。
しかし、カーンは動じない。彼は僕に視線を戻すと、フッと口の端を上げた。「不法侵入だったのかい。」自嘲気味なその言葉は、彼の肝の据わり方を如実に物語っていた。
「ミラー大佐のところまで案内する。行くぞ、アルチョム。」
カーンはそう言うと、僕の肩を軽く叩き、背を向けた。その堂々とした後ろ姿に、僕は言い知れぬ違和感を覚えた。
「急げアルチョム、出口で待ってるぞ…」
扉の向こうへ消えゆくカーンの声が、僕の耳に届いた。そして、ウルマン大佐の声が、追い打ちをかけるように響く。「早くしろ、おしゃべりめ…」彼の言葉には、カーンへの強い不満と、いら立ちが滲んでいた。
ウルマン大佐が監視する中、僕は部屋に残された。室内は、生活の痕跡で満ちている。壁には本棚が備え付けられ、埃を被った書籍がずらりと並んでいた。デスクの上には、使い込まれたランプが薄暗い光を投げかけ、無造作に置かれたマグカップからは、冷え切った紅茶の匂いが漂ってくる。隅には、無造作に置かれたヘルメットと、緑のボトルが。その全てが、この地下での過酷な生活を物語っていた。
デスクに手を置くと、僕はその冷たい感触に、カーンの言葉を反芻した。「彼は晩年、喉の小さい穴から、食べ、飲み、息をしていた。」あの異形の存在も、我々と同じように生きていたのだと。その言葉が、僕の心臓を締め付ける。
隣には、使い込まれた革製のノートが置かれていた。かつて、誰かがこの世界で生きていた証。それに触れようとした僕の指先は、震えていた。そのノートの表紙には、見慣れない地図のような模様が刻まれている。僕はそれをゆっくりと撫でた。
そして、カーンの最後の言葉が、脳裏をよぎる。「お前もそうなるなよ。」それは、僕への警告か、あるいは願いだったのだろうか。孤独と絶望が蔓延するこの地下で、僕は一体、何を選択すべきなのだろう。デスクの上の書きかけの紙、鉛筆、そして銃器。その全てが、僕が置かれた状況の苛酷さを物語っていた。この部屋には、僕以外の人間が、かつて確かに生きていた痕跡があった。ヘビースモーカーの知人がいたのかもしれない。その存在は、僕に、この絶望的な状況の中でのささやかなつながりを感じさせた。