第35話 非殉教者
サギリの鼻から、朱色の体液がぽたぽたと流れる。
「やめろ」
「わたしを殺していいわけ、博士?」
サギリアが息を途切れさせながら、不敵に笑う。
おい、頼むから、目の前の男を挑発しないでくれ。グエンは祈った。
イーノックはぎらついた瞳でサギリを一瞥すると、つばを吐いた。
「俺が間抜けだと思っているのか? データのバックアップが存在しないと? 賭けてみるかローガン博士」
なんだって?
グエンが眉を上げると、サギリアはニヤリと笑みを浮かべた。
「記憶データは削除したのよ、ハーラン。わたしのデータはいまわたしの脳にあるものだけってこと」
「うそだっ」
イーノックは吐き捨てるように言うと、サギリアの髪を掴み取り、銃をこめかみに押し付けた。熱を持った銃口に、彼女の表皮組織が焼ける匂いがグエンまで漂ってきそうだった。
グエンは息を吐いて、銃を握り締めた。
「銃を捨てろ」
イーノックは微笑みながら、ブルブルと震える銃をサギリの頭に突きつけている。
「お前はどう思う? この女は自分のデータを削除したと思うか? 科学の発展を阻止するために?」
「銃を捨てるんだ!」
「捨てるのはお前の方だよ」
甲高い悲鳴にも似た声を張り上げ、イーノックは銃口をサギリアの耳に捻りこんだ。
聴覚機能のため、頭蓋骨に空洞がある箇所は、サイボーグの急所の一つだ。
「捨てろと言っている」
グエンは手を上げると、くるりと右手を回して銃を下にまわした。
「捨てろと言っている」
イーノックは血走った目でグエンをにらみつけた。
グエンはゆっくりと銃を床に置いた。
あの震えた手は危険だ。たった二キロの圧力でサギリのチタン製骸骨をぶちぬいて脳幹を大破することになる。
「彼女を撃ったら、お前は死ぬぞ」
グエンは何食わぬ口調を装って言った。
「やってみろよ。自分の命をかける気があるのか?」
「殺し屋くん。俺を見逃したら、彼女の倍を支払おう」
イーノックはぐっと息をのみ、薄ら寒い笑みを浮かべた。
「あの女のデータは金になる。間違いなくなる。トランスヒューマニズムの発展のため、君にも成功報酬を支払うのを約束しよう」
「わたしの記憶データは削除したって言ってるでしょ」
サギリアは苦しげに呻いた。
「嘘だ」
「データは消したわ」
イーノックがサギリアを掴む腕に力を込めたのがわかる。サギリアは苦しそうに首を振ったが、はっきりとした笑みを浮かべた。
「その彼を殺したら、わたしは自殺するわよ」
イーノックの狂ったような笑い声が響いた。
「お譲ちゃん。サイボーグに自害機能はないのだよ」
「あるわよ博士。延命拒否機能がわたしには搭載されているもの。わたしの設定で、残った生体脳組織を破壊するのに十分な麻酔が排出されるわ。それでわたしの電脳の中にある唯一のデータもおじゃんってわけ」
ぷるぷると銃口が揺れている。
グエンはサギリアを一瞥した。緊張で瞼が引きつっている。
「できるわけがない」
呻くように言う。
「やってみろよ、博士。データがどこかに保管されている事に賭けてサギリアを殺してみろ。次の瞬間、俺がお前を殺す。俺を先に殺してみろ。サギリアのデータは破壊される。データはあるかって? 残念だったな。全部削除しちまったよ。お前らの大好きなサギリア・ローガン嬢は父親と違って、自分の脳みそを差し出してまで、人類の発展ってやつに貢献する殉教者じゃなかったんだよ。お前の一撃で歴史的大発見ってやつがなくなるってのは気持ちがいいものだろうな、おい」
イーノックが青白い顔でグエンを見下ろした。
「できるわけがない」
イーノックがグエンに銃口を向けた。爆音と共にグエンの左足が打ち抜かれた。激痛と反動でグエンは床に崩れ落ちた。
遠くからサギリの悲鳴が聞こえる。
「グエン!」
グエンはなにかぶつかり、悪態をついた。それは、埃臭い床だと気づいた時には、何かに肩を不物凄い強さで押さえつけられていた。口の中が鉄臭い液体で満たされる。
「ちくしょう、ちくしょう。なんでこんなことになったんだ」
くそ、その台詞は俺のものだ。
そのクソ素人に子供の前で撃たれるとは! しかも、足を!
ターゲットには、正中線上に少なくとも五発は打ち込むと知らないのか?
少なくとも、俺はこの馬鹿野郎の無知で生き残ったってわけだ。
嫌なにぶい音が響く、サギリの悲鳴が聞こえた。そして何かが床に吹き飛ばされる音も。
グエンは体をひねると、サギリが倒れ込んだ姿が見えた。
グリーンのスカートは誇りにまみれ、袖が破れている。
「やめろっ――――」
最後は声にならなかった。グエンの首にイーノックの靴がめり込み、鈍い痺れと痛みが体中をつらぬいたのだ。
「死ぬのか? おい、サギリア、お前は死ぬのか?」
イーノックがブツブツと呟きながら、体をゆらしている。
「私が子供を殺すことになるとはねいやはや――」
イーノックがにやりと笑い、肩に足をついた。
グエンの体に冷たいものが広がった。撃たれた足からどくどくと流れ落ちる音が聞こえるようだ。
頼む。体内の義足管理機能がまだ生きているのなら、そろそろ出血は止まるはずだ。
急激に血圧が低くなり、耳元がさぁっとした音がする。
イーノックが肩に込める力を強めめた。
ちくしょう。胴体はサイボーグじゃねぇんだ。そろそろ肋骨が折れそうだ。
ゆらゆらとしていた銃口がぴたりと定まり、真っ黒な空洞がしっかりとグエンの眉間に定まった。
グエンはイーノックの引きつった顔を見上げた。
この男は銃を持っただけで強くなったと思い込む類の連中だ。そして、そういった男はぽこぽこと水鉄砲化のように弾を撃ちたがる。そして、この距離では幼児だって外さない。
グエンは息は吐き、とめた。
目の前が真っ赤になる。眼球の毛細血管が破裂し、血が視界を覆うのだ。
チャンスは一回。
体重が一瞬だけ軽くなる。
肩にかかる足が強張るのに合わせ、力の限り体をひねると、グエンはイーノックの足をはらった。
体をひねりながら男の足を銃口の正面に押し出す。
同時に銃声巣が鳴り響き、イーノックの足から鮮血が飛び散った。
自分のうめき声とイーノックの悲鳴が交差する中、グエンは目の前で揺れる銃を掴みながら、起き上がった。
「足蹴にしながら銃で撃つ? 最近の映画ではかっこいいのか?」
悲鳴を上げるイーノックの腕をひねり上げ、足をかけて押し倒す。
「目をつぶってろ! サギリ!」
グエンは彼女を見もしないで叫んでから、自分の銃を拾い上げた。
「銃ってのはな。こうやって撃つんだ。十分はなれて――」
イーノックの恐怖で濁った目がグエンを向けた。
「サギリ、目をつぶったか?」
イーノックが口を開けると同時にグエンは銃の引き金を引いた。




