第33話 ツーマンセル
グエンは私道に入る十メートルほど前で車から降りた。
木の影に止めたので、よっぽどのお節介か、お人よし以外はのこのこ近づいてこないだろう。
タイを外して、助手席に放ると、靴をかえた。
どう考えても、革靴のソールは鬱蒼とした雑木林を進むのに適しているとはいえない。
銃にマガジンを固定して、防弾ベストを着こんでジャケットを羽織る。
『ゾラック、これから別荘に向う。通信を機密回線に切り替えろ』
『了解、気をつけて』
クレイシーの別荘はすぐそこだ。
遠くに屋敷の灯りがぽつんと灯っているだけで、暗闇はどこまでも広がっているようだ。
三十メートルほど進んで、グエンは足を止めた。暗がりにじっと目を向けた。
夜間視力を高める処置を施されているお陰で遠くまで葉の一枚一枚が見えるが、彼を立ち止まらせたのは匂いだった。
嫌な匂いが漂っている。
微かに、首元がちりちりと逆立ち、この場から一刻も早く立ち去りたくなる嫌な気配と共に。
同類に近づくと感じるこの殺気にも似た気配は――――
「セス」
グエンの左の木がざわりと揺れて、セスが現れた。
体にぴったりとフィットする真っ黒な服を全身を包んでいる。くすんだ金髪を隠すように真っ黒のニット帽をかぶり、ゴーグルをかけていた。
「お見事」
幽霊のように血の気がない女が足音も立てずに、ずいずいと近づいてくる。
「なんだ?」
「なんだとは?」
「何に考えてるんだ?」
「ショックを受けています。どうして、私がいることに気づいたの?」
「お前、撃たれたんじゃないのかよ。確か20分前に」
「確かに撃たれた」
セスはそういえばそんなことも、とでも言いたげに頭を振った。
「病院にぶち込まれたと思ったけど」
「復活しました」
セスは生真面目に答えてから右肩をあごでさして見せた。
セスの肩はがっちりと固定されているらしく、黒いジャケット肩が盛り上がっている。ついでにしっかりと武装しているらしく、右の胸も膨らんでいた。
「お前は、俺が想像しているちおりの事をしに来たのか? 脳みその検査は受けたか?」
「私の精神はそれなりに正常で安定しています。年に一度検査を受けていますから。私もあなたが追っている人間に借りがありまして、はせ参じたしだいです」
こんだこれは? 彼女なりの冗談なのだろうか?
「サイラスは知っているのか?」
「さあ。ですが、彼も警察を引き連れてここに向っているはずです。私たちはサギリアを救う必要があるので、私があなたのお手伝いをしたと知っても彼は嫌な顔はしないでしょう」
「お手伝いって、たとえば俺を後から撃つとか?」
「それについてはご心配なく。私は私の自尊心をぐさりとやってくれたやつらに復讐する必要があるだけだから」
「お前の趣味は自尊心を傷つけた連中を片っ端から撃ち殺していくことか?」
だとしたら、俺にも十分打ち抜かれる可能性がある。
「さあ」
セスは澄ました顔で左肩を竦めた。右肩はまだ上がらないのだろう。
「私はあらゆるストレスに耐性を持っているので、そんな気にはたまにしかならないはずです。これを使ってください」
セスがマイクを投げた。グエンはマイクを片手で受け取ると、そっと覗きこんだ。
先行量産型の軍用マイクだ。声帯部分に固定して、使用する。馬鹿みたいに高いが高性能のものだ。
「志し同じく作られた、後天性遺伝子組み換えの兄弟として、ちょっとは協力というものをしてみましょう」
「ちくしょう」
グエンはマイクを固定して呟いた。
「ばっちり」
セスの声が耳に埋めこまれたイヤホンから聞こえる。
「室内のデータを持ってる?」
「ああ」
「なにか知らせておきたいことは?」
グエンはマップデータを確認した。扉の位置と電源の位置、家具の位置を確認する。
筋肉に十分な酸素を送り込むためゆっくりと息を吐き出す間に、猛烈な勢いで脳細胞が動き始め、二人用の突入計画が作り上げられた。
「裏庭から向かう。サギリがいるのは、地上か、地下だ」
グエンはマーキングしたマップをセスに送信した。
「兄弟、研究所のキンダーガーデンで習ったハンドシグナルは覚えているか?」
セスは『もちろん・完璧・あの・くそ・教師ども』を意味する手での合図を滑らかに行った。
「俺は表、あんたは裏。一気に仕留めるぞ」
『肯定』を意味する舌打ちがはっきりと聞こえ、セスは闇に溶け込んでいった。
グエンは真新しい車に近づくと、こっそりと車内を確認した。
中は空だった。真新しい車体はこの月明かりでも金の匂いをキラキラと振りまいている。
『クレイシーの車ですね』
ナンバープレートを確認したゾラックが言う。
「めでたい野郎だ」
グエンは車体盗難防止機妨害装置を取り付けるとナイフでタイヤを切り裂いた。
しっかりと空気が抜けるように三箇所を抉るように切込みを入れる。
『準備完了。合図をまつ』と、セス。
まったく、手際がいい。それとも若さなのだろうか。
グエンは暗闇をかけ正面のドアに張り付いた。
クレイシーの家は闇に包まれていた。窓は光学ガラスが囲まれ、中の光は一切漏れてこない。
グエンは正面玄関に張り付くと、ざっと熱探知を行った。廊下には人影がない。
ドアノブに電子施錠解除装置を取り付ける。
『準備完了。合図を待て。おい、ヘマするなよ』
セスが本気で言っているの? とでもいうようくぐもったうめき声を返した。
グエンはニヤリとしてドアに向き直る。
『突入せよ』
かちり、という微かな音でロックが外れ、グエンは玄関に足を踏み入れた。
「キッチン。なし」
セスの声でグエンは頭の中でキッチンを青く塗りつぶした。
グエンが最初に足を踏み入れたのは、書斎だった。人影がない。廊下にセスの姿が見える。
『書斎。なし』
グエンはセスと合流して、残されたリビングを一周した。
なにもなし。
『お前は・地下』
グエンは手を振って合図すると、セスは軽く舌打ちをする。
足場が悪い中、音も立てずにすべるように移動するセスの後姿が、闇に溶けていく。
グエンはドアに横に立ち、息をはいた。
二十年前に習った、手合図を覚えているとは・
「地下はなし」
セスの低い声が聞こえる。
「人影はいない。いえ、ちょっと待った」
暗闇の中、イヤホンから子供が泣くような声が響いている。
「何かいます。動物?」
「猫だったら。そいつも確保してくれ」
一瞬の沈黙。
「私の仕事はサギリアの救出です」
「頼むよ。サギリアの愛猫だ」
嘘はついていないはずだ。グエンはロボット猫をなれない仕草で撫で回すサギリアを思い出して目を細めた。
「猫だよ。子猫ちゃん。猫を見殺しにしたとなっては強化人間の恥だ。人は殺してもいいが、猫と犬は殺すなって習っただろ?」
遠くから、子供のようにかすれた声が響いている。心に突き刺さる悲壮感のある鳴き声だった。
「名前はピートだ」
確か、心理学的に動物に名前をつけると愛着がわくとあった。あの氷の女でも、名前を聞いてしまった子猫を見殺しにできないことを祈った。
「わかりましたよ」
ごそごそとした音の後、セスの悪態が聞こえた。
そしてふぎゃあ、という必死の鳴き声。
「猫? これがっ? 猫? クソッ――――」
セスは独創的な悪態の合間にうめき声を出した。
「これは『猫ちゃん』なんて生き物ではじゃないですよ。虎です」
ピートの威嚇恩がさらに甲高くなる。
「私は生きた猫を間近に見るのは初めてですが、もう少し愛らしい生き物だったと記憶しています」
「世の中不思議がいっぱいだな。破傷風の予防接種は打っているだろ? 表に出てサイラスを待て」
「私が子猫のお守りですか?」
セスが歯を喰いしばった声を漏らした。
「世の中はやらなきゃいけないことがあるのさ。兄弟」
「お守りだ。今まで培ってきた、冷血の評判が台無しにしてごめんな」
「学位を持っていて政府機関にいる私が、猫の世話?」
グエンは最近おなじみになった台詞を呟いた。
セスが心底嫌そうな舌打ちを返して通信を終えた。
「頼むぜ」
グエンは呟くように言うと、銃を構えて闇に溶け込むように進んでいった。